優等生タイプで生きてきた50代小学校教員の気付き
小、中、高、大と、幸せな学校生活を送ってきた(つもり)
いわゆる「優等生タイプ」で、自分は勉強ができる人(のはず)
先生の言うこと、教科書に書いてあることは正しい(だって大人がそう言うから)
決められたルールは守る。過去の実例は踏襲する(違うことすると、ややこしい)
対立、けんかは悪(あほやなぁ。うまく立ち回れば平和にすごせるのに)
自分の意見は曖昧にしておいて相手の顔色をみて語尾をあわせたらいい(よかった。いい人でいられた)
部品として正確に働く人材を育てる教育目標に盲目的に従い、
「賢そう」「仕事できそう」のプラスの評価を得てきた。
でも、何のために生きてるのか、わからなかった。
この世の中からいついなくなっても大丈夫。
しかし、自分が「主体的に仕事をしたい」と思ったときに考える力がないことに愕然とした。
こどもの時から「怒られないためにどうすればよいか」という技術を磨き続けていたのだ。
今更、この歳で生き方を変えるなんて無理(ほんとうにそうなの?)
「これからの時代、同じような育ち方をしたこどもたちはどうなるんだろう」
深掘りを妨げ、思考を止める罪を軽くするための言い訳や嘘が無意識ででてくる。
自分の体験を通して理解しつつあること。
頭で言葉を理解したつもりになり知識を記憶する教育は全く役に立たない。それどころか自分の頭で考える力を奪う、つまり生きる力を奪うマイナスの影響を育ている。
学校で安全に失敗の練習をやらないで、どこでやればいいのか。
失敗が当たり前、というのが生き物らしいんじゃないだろうか。
この自分の変容を「リフレクション」しながら何かを見つけたい。