「あんたなんて大嫌い」から始まった跡取り娘の修業時代【第二話】
「一番大変なところに戻りなさい」。宇都宮市を中心に美容室やエステサロンを展開するビューティアトリエグループ代表の郡司成江さんは1989年、楽しいことばかりだった英国留学を終えて帰国を決めます。恩師の言葉に従い、郡司さんが向かったのは、母親が経営する実家の美容室。後継ぎとしての苦闘が始まります。
一番大事で一番大変な実家へ
「一流のヘアメークになる」。その夢をかなえるため、英国ロンドンに渡って2年半。有名美容室ヴィダルサスーンの美容師養成学校で学んだ後、現地のヘアサロンで働いていた郡司さんはある日、そのサロンを経営する恩師に帰国を促された。
「あなたはずっとここにいられる人じゃない」。実家が美容室で、ヘアメークの道を選んだのだから、働き方も技術の身につけ方も大きく異なる英国に慣れすぎる前に、日本に帰るべきだという助言だった。
恩師は「若いのだから、大変なところに戻りなさい」という。最初に思いついたのは、東京の有名美容室に入って技術を磨く選択肢だ。そう言うと恩師は「何を言ってるの。一番大変なところに戻るのよ」。それでもピンと来なくて、首をかしげていると、「一番大変なのは自分の家でしょ。一番大事で一番大変。そこに戻るのよ」。
帰国の日、「嫌なことがあったら、いつでも休みを取って、ロンドンにおいで」と送り出された。その時はまだ実感がわかなかったが、ビューティアトリエは複数の店舗を展開し、60人以上が働くグループに拡大していた。そこに跡取り娘が帰ったところで、うまくいくことばかりではない。そのことを見通していたようだった。
「時代遅れ」に見えた日本式サービス
ビューティアトリエに入社して、最初に任されたのは、自分と同世代の若い美容師たちにカット技術を教えることだった。得意なことから入れたことはありがたかったが、英国と日本では育成方法が全く違うことに戸惑った。
日本では、頭髪を植えた人形で練習するのが一般的なのに対し、英国は先輩のカットを一通り見たら、実際の人頭でトレーニングする。失敗すれば取り返しがつかないという緊張感が上達を早める。日本では一人前の美容師になるのに4年かかると言われるが、英国は10カ月。郡司さんは英国流の育成法を貫いた。
違いはそれだけではなかった。英国では予約制・指名制が当たり前だった。お客さんと1対1の関係を築き、好みや髪質、人柄をよく知ってこそ、良いカウンセリングや接客ができる。指名されなければ、仕事がなくなるから、自分を磨こうとする気持ちが強くなる。
それに対して、国内の多くの美容室がそうだったように、ビューティアトリエはお客さんが来た順に手の空いた美容師が担当するシステムだった。予約制・指名制より多くのお客さんをこなせる利点は理解できたが、時代遅れに見えて「このやり方は違うんじゃないかな」と訴えた。
「あんたなんか大嫌い」全否定のオーラ
これまでの母千鶴さんのやり方を批判しているつもりはなかったが、「全否定」のオーラを感じ取った古株の美容師から「あんたなんか大嫌い」と面と向かって言われたこともあった。
そんな娘の姿を見かねたのか、母千鶴さんはちょうど開店準備中だった新店に郡司さんを配属。予約制・指名制で、しっかりしたカウンセリングも行う新しいタイプの店舗を目指した。
のちにグループのトップ店になっていくが、成果が出るまで何年もかかった。「あの大理石は私たちの稼いだお金で買ったんだよね」。飲み会になると、豪華な内装を皮肉る声が聞こえてきた。社内が「社長派」と「郡司派」に二分される気配が生まれていた。
パリコレのヘアメークに抜てき「遠回りな近道」
「東京に行こうか、ロンドンに帰ろうか」。帰国して数年。ロンドンでは最先端のカットに腕をふるっていたのに、実家の美容室では来る日も来る日も、バブル期に流行したワンレングスにソバージュばかり。27歳の郡司さんには、「一流のヘアメークになる」という夢が遠ざかる一方に感じられた。
仕事がつまらない。なぜ実家に戻ってしまったんだろう。腐りかけていた時に、思ってもみなかったチャンスが舞い込んだ。
世界最高峰のファッションショー、パリ・コレクションやミラノ・コレクションでヘアメークをやらせてもらえるという。国内の美容師の技術向上を図るため、日本の化粧品メーカーが立てた企画だった。一流のモデルを相手にするし、どんな服が披露されるのか、本番まで厳密な情報管理が求められるから、信頼できる美容室で働いていることが必須の条件だった。
そして腕が確かで、英語が話せた方が良い。全国の候補者たちから選ばれたのが郡司さんだった。「いきなり夢がかなうの?」。最初は半信半疑だったが、それから約10年間、欧州の一流ヘアメークたちと一緒に仕事ができた。
自分があの時、ロンドンに戻っていたら。そうでなくても、東京の美容室に転職していたら、このチャンスは巡ってこなかったかもしれない。実家に戻ったのは、一流のヘアメークになるには遠回りだと思っていたけれど、実は一番の近道だった。それまでの鬱屈した気持ちが吹き飛んだような気がした。
売り上げが伸びないのナゼ
パリコレでの仕事が、ビューティアトリエに新しい風を吹き込んだ。予約制・指名制のシステムも次第に定着してきたが、後継者としての悩みが消えたわけではなかった。
いくら自分が技術を磨いても、店舗の売り上げがさっぱり伸びなかったのだ。「あの人の頑張りが足りないからだ」。自分は店長だから朝から晩まで店にいて、努力もしているし、腕も良い。それなのに業績が上がらないのは、きっと他の誰かのせいだ。そう思いたい気持ちが強かった。その半面、「裏では私、何て言われているんだろう」と不安も感じていた。
美容室に離職はつきものだ。独立して自分の店を持つ。結婚や出産が区切りになる。そうしたケースが多いからだが、同僚となじめなかったり、目標を見失ったりして去って行く美容師もいる。「私、辞めようか迷っているんです」。そんな相談を受けて「もう少しやってみようよ」と答えてはみるものの、心の中では「自分も同じ気持ちだよ」とつぶやいていた。
一緒に働いているのにチームワークができていない。だから、みんなも自分も幸せじゃない。突破口はなかなか見つからなかった。
「もしかして自分のせい?」
転機が訪れたのは32歳の時。技術講習の講師役で東京から来ていた美容師との雑談で、「現場を離れてみたらいいんじゃない」と言われたのがきっかけだった。その同年代の美容師は、大きな美容室のリーダー役を任されていたが、たまに技術講師として派遣されて他の美容室を見て回るうちに、自分が置かれた立場を客観的に見られるようになり、リーダーとして何をすべきか、気づかされることが多かったという。
ショックだった。店舗の売り上げが伸びず、社員たちの動きが悪いと感じたのも「もしかして私のせいなのか」と直感した。確かに、「自分が店を引っぱっていく」と気負うあまり、社員たちを信頼して任せるということをしてこなかった。自分でなんでも抱え込んだ結果、社員が意欲と能力を発揮できる機会を奪っていたのかもしれなかった。
異業種の人たちとの勉強会といった用事をつくり、試しに店舗の開店から閉店までを社員たちに任せてみると、売り上げが伸び始めた。今まで見たことのなかったぐらいにキビキビと動き、自信を持ってお客さんに接する姿を目の当たりにして、「今までどうして、信頼して任せるということができなかったんだろう」と痛感した。
もう一つ気づいたことがある。自分がカットしている時は、どうしても神経が手元に集中する。しかし、カットから離れて店舗を見渡すと、順番待ちでイライラしたり、パーマの間に手持ち無沙汰にしていたりするお客さんのことが目に入った。今までも分かっていたつもりだったが、店舗の隅々にまで目を配れているわけではなかったのだ。
ハサミを置いて気づいた「一番商品」
自分の役割とは何なのだろう。「ハサミを置こう」と考えるようになった。カットで稼ぐことをやめるならば、自分は人材教育やマーケティング、マネジメントを学び、経営者としての役割を果たしていくほかない。
ずっと自分の腕を頼みにしてきたから迷いはあった。でも、「それが私の仕事」と思い切ることで、「お客さんに一番近いのは、社員のみんな。お客さんを喜ばせることは、私にはできない仕事だから一生懸命やってほしい」と自然に言えるようになった。
「ビューティアトリエの一番商品はあなた」。社員の力を伸ばして、会社も伸びる経営。大きくかじを切ることになった。
<第3話に続く>
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