スポーツ語るシス!何度見ても泣ける名シーン「長野五輪スキージャンプ」編
映画やドラマなどで「何度見ても泣けるシーン」ってありますよね?
セリフも展開も全部わかっているのになぜか泣けてくる、いわば“鉄板”の名シーン。
誰にでも1つや2つはあるはず。
そんな名シーンが映画やドラマ以上に多いのが、スポーツの世界。
筋書きのない展開に、いつ見ても、何度見ても、思わず涙してしまう。
ということで、今回はスポーツ大好きの筆者が、涙活したい人たちにオススメする”スポーツの名シーン”をご紹介していきます。
なお、選んだシーンにおける涙腺の決壊ポイントは完全に私個人の価値によるもので、これでは泣けないという人がいてもご容赦ください。
では、 行きましょう!
奇跡の大逆転!ようやく掴み取った金メダルにありがとうを!
これまで当シリーズでは野球の名シーンをピックアップしてきたが、今回は特別に1998年2月に開催された長野オリンピックから。
というのも、筆者は長野県出身であり、地元で行われる五輪にものすごく胸を熱くさせられたからだ。
数々の名場面が記憶に残っているが、最も忘れることができないのが“ジャンプ団体”である。
長野五輪から遡ること4年前――。
1994年に行われたリレハンメル五輪のジャンプ団体戦のことだった。
原田雅彦・葛西紀明・西方仁也・岡部孝信の4人で構成された“日の丸飛行隊”は、最後の原田の2本目を残し、2位のドイツに大差をつけていた。
日本ジャンプ陣にとって、史上初となる団体戦の金メダルをほぼ手中に収めていたと言っていい。
しかし、「まさか」の事態が生じる。
原田の失敗ジャンプ……。
着地後、雪上で頭を抱え込む原田の姿がすべてを物語っていた。
ドイツに大逆転を許し、日本は無念の銀メダルに終わった。
そこから4年間、数々のバッシングを受けたと思うが、それを乗り越え、原田はオリンピックの舞台に帰ってきたのだ。
今回の“日の丸飛行隊”のメンバーは、原田のほか、岡部孝信、斎藤浩哉、船木和喜の4名。
しかし長野の地においても“勝利の女神”はたやすく微笑まなかった。
1本目のジャンプで、原田がまたもや大失敗。
各国4人全員が1本目を終えたところで、日本は4位。
このままではメダルにさえ手が届かない。
そこに追い打ちをかけるかのような事態が……。
猛吹雪が会場を襲い、競技が中断。
「1本目で打ち切り」という声もあがる中、審判団による協議の結果、「25名のテストジャンパー全員が、ジャンプを成功させることができたら競技を続行する」という条件が出された。
日本チームに逆転でのメダル獲得を実現させるため、必死にジャンプを成功させるテストジャンパーたち。
その物語は、映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』で描かれているので、ご存知のかたも多いだろう。
結果として、テストジャンパーたちの頑張りが実り、競技は続行へ。
1人目の岡部が137メートルの大ジャンプを披露し、トップに!
続く斎藤も、124メートルを飛び、3番手の原田へとタスキをつなぐ。
リレハンメル、そしてこの日の1本目の失敗が観客たちの脳裏をよぎる。
そんな中、原田はテイクオフする。
結果は、バッケンレコードタイの137メートルの大ジャンプ!
そして、あの有名な「フナキ~、フナキ~」が飛び出す。
そんな原田の想いに応えるように、船木もK点超えのジャンプを披露。
見事、日本が金メダルを獲得することになったのだ。
このときの映像、何度見ても涙があふれてくる。
当時、筆者は長野市内の学校に通う高校生だった。
その頃からスポーツが大好きだったため、本心では学校を休んで実際にジャンプ競技を見たかったくらいだが、そういうわけにもいかず学校へ。
競技が始まる時間になると、授業に集中できるはずもなく、休み時間には事務室脇にある公衆電話に走り、家に電話をかけて様子を聞いていた。
筆者と同じように、心ここにあらずの生徒が何人かいたため、途中からは先生たちが経過を教えてくれるようになった。
そして「金メダル獲得!」の知らせを聞いた瞬間は飛び上がった。
放課後、筆者と仲間たちは長野市内にある表彰式の会場へ。
会場には数千人が押し寄せ、残念ながら中に入ることはできなかったが、会場の外からチラッと見えた選手たちに「おめでとう」ではなく、「ありがとう!」と声をかけたことを昨日のことのように覚えている。
スポーツの素晴らしいところは、 ありがとうを教えてくれるところだ。
機会があれば、ぜひ当時のVTRをご覧になってみてください。
泣けます!
(おわり)