私は必要ですか?
【本日のきづき】
私は必要ですか?
「私は必要ですか?」
何度でも、
何度でも聞いてくる人間がいる。
一度聞き出すと止まらない。
その時は
「もちろん必要だぞ。」
と応えるのだが、そういうことを
聞く人はまた失敗したり、
自己肯定が落ちた時に聞いてくる。
「こんな私は必要ですか?」
「私は役に立っていますか?」
その時は
「もちろん必要だぞ。」
と応える。
こういうことを何度も
繰り返している人も多いでしょう。
<そこに存在する意味判断を、自分ではなく相手に委ねる>
これ。
完全に依存している人の思考回路で
相手ありきになってしまっている。
とてもかわいそうだ。
どこまで行っても自信が持てないというのは。
何度も何度も繰り返し教える。
「もちろん必要だぞ。」
「もちろん必要だぞ。」
「もちろん必要だぞ。」
「もっと自信を持ちな。素敵だから。」
そして、時間が空くと
「私は役に立っていますか?」
「私は必要ですか?」
これを繰り返している人へ。
「相手に自分がいてもいいかどうかをゆだね、
相手が必要とされるからそこにいる。」
これは人生で本質的に幸せになれない。
相手ありきの人生は本当の自由ではない。
相手に必要とされているからそこにいる。
そこにいるのは相手の意思ありき。
思考は現実化する。
そういう人の意志は、
「そこに自分がいる必要が、あるかないか」
ではなく、
「そこに自分がいてもいいって想ってくれているか」
が、根本的な思考となっている。
「そこに自分がいてもいいって想ってくれているか」
などと思考していては、
人生が豊かになる大前提
<今、生きていることが、幸せ>
という幸せの本質から遠のくのだ。
生きているだけで、そこにいてくれるだけで幸せ
なのに。
「そこに自分がいてもいいって想ってくれているか」
なんて、自分の存在を人の判断に任せていては、
人なんて何を考えているのかわからないから、
ずっと不安になるし確認したくなるのだ。
「自分は本当に必要なのか」
だが、
すべての人間は必要だからそこにいる。
すべての生き物はそこに生きていることが
許される。
いつまでも
いつまでも「もちろん必要だぞ。」
と応え続けることを続けてきたが、私は気付いた。
必要かどうかを私が判断しているから自分が
いるべきか、いないべきかの判断を依存する
それを続ける限り、その人は、
<自分で自分がココにいたいからいる>
という心境には辿りつけない。必要とされてるから
私はいるんだと想ってしまっていては
辿りつけないのである。
もしかしたら、
<必要とされていないならもういいや>
と判断するかもしれない。
だが、私はその人に、その人が真の自分の心で
自分の存在価値を見出してもらうために
「こんな私は必要ですか?」
と聞かれた時に、あえて、試すために
「必要だぞ。」と答えなかった。
「あなたが、幸せだと想う道を、選べばいいんだよ」
それは本人からすればツラい宣告だ。
今まで、何度も何度も「必要だ」と言ってもらえていた。
しかし、必要だと言ってもらえないのである。
更に「自分の価値を依存」していた相手に
自分で、しっかり向き合って考えるんだと言われて。
そのしっかり向き合う自分自身には、向き合ったって
自信がないんだから・・・。
自信がないから相手に自分の存在意義を聞くわけで。
その人が、人に必要とされなくても自分はただココに
生きているだけでいいんだ。
「ここで今一緒にいるということは、必要とされているんだ。」
という当たり前のことに気づいてくれることを
心から願う。
もし、本当にその人が、嫌われていたり
お荷物だと思われていたり
面倒くさいやつだなって思われていたりしたら
そもそも、
とっくに追い出されている、切られている、誰も振り向かない。
周りを見れば自分がいる環境は確かにあるんだ。
自分を受け入れてくれている環境。
自分で自分を傷つけなくていいんだよ。
いつまでも。
「ここで今一緒にいるということは、必要とされているんだ。」
という当たり前のことに気づいてくれることを
心から願う。