土地が持つ記憶。 新人研修時代の不思議な実体験。 30年後に分かったこと。 複数人が同時に◯◯現象に遭遇!
今からかれこれ30年以上前に入社した会社の新人研修時代の体験談。
当時、その会社には30-35名くらいの新入社員がいて1ヶ月ほどN県の研修所に泊まり込み様々な研修を受けることになっていた。
宿泊する場所は、その会社の研究所の敷地内で確か3度ほど変わった。2人部屋のときもあれば5-6名で泊まる場合もあった。
研修も終わりに近づき、3ヶ所目の宿泊施設に泊まったときの出来事だ。
その施設には日没後、移動したので外は真っ暗だったが何か小さな山のようなものが窓から見えた。その場所では5-6名に分かれて8畳くらいの部屋に泊まった。
ある夜、就寝時間が近づいて来たので部屋の小さな木製の机の上にある卓上ライトの豆電球だけをつけて皆、床についた。
しばらくすると自然に消えるはずのない、その豆電球が急にフッと消えて、妙な雰囲気を感じた。
そして、同時に隣りの部屋から悲鳴のような驚いたような声が聞こえた。
何事かと思い皆、起きて部屋の電気をつけて、隣りに行くと、急にフッと部屋の電気が消えて何かを見たようだ。
白く細長いモヤ(煙)のようなものだったようだ。
別の部屋でも同じように電気が急に消えて変な感覚をもったようだ。
どうやら外部にある小高い丘に面した3部屋で同じ現象が起こり、3部屋の向かいの部屋では電気も消えず何事もなかったようだ。
その後は、「不思議なこともあるもんだ」、「気色悪いなぁ」、「怖い、怖い」と皆、口々に言いながらも再度、寝床についた。
自分も眠りについたのだが、夜中、なせか急に目が覚めた。
なにやら自分の左側に気配を感じる。
身体が動かないので、眼球だけ動かして左手を見ると人が足を趺坐の形に組んで座っている。
手は胸の辺りで両手を合わせている。
どうやら目をつぶってお経のようなものを唱えているようだが、お経は聞こえない。修行僧のような感じの人だった。
全く恐怖感がなく、何かをされるような気配もなくただ一心に何かを唱えているような感じだった。
それが、どれくらいの時間だったかは、その後、眠ってしまったので覚えていない。
次の朝、起床して朝食のとき、別の部屋の同期数名も不思議な体験をしたとのことでちょっと騒いでいた。
朝食時に同席していた研修の責任者がその話しを聞き、昨夜、不思議な体験をした者は、朝食のあと、別室に来るように指示された。
その別室に来た者は私を含め、6名だった。
同じような体験をした者はもっといたかもしれないが、別室に来たのは6名だった。
研修責任者に各々、どんな体験をしたかを聞かれ皆それぞれ自分の体験したことを話した。
皆の話しを聞いた後、その研修責任者は、この件は外部には口外しないようにと念を押すように言った。
今後もこの研修施設には多くの社員が研修を受けに来るのだから、へんな噂がたっては良くないとのことだった。
その責任者が言うには、宿泊した部屋の辺りに祠があり、その祠を移動させてその施設を建てたと言うことだった。
また、以前にも同じような現象が起きたとのことだった。。。
自分としては、全く恐怖感もなく、悪い気も感じず、むしろ気高さを感じたくらいだったから、昔、その場所にいた方の残像がそのまま時空を超えて現れたのかなというくらいに思っていた。
その後、所属部署に配属され、忙しくなり、そのことを考えたり、思い出すことはなかった。
あれから30年以上が経ち、なぜかは分からないないが、日本の古代史、ヤマトの成り立ちについて強い関心を持つようになり様々な書籍を読んだり、現地にも赴いている。
今日、何気なくGoogle Earthで今度、訪れてみようと思う古墳を見ていて、めちゃくちゃ驚いたのだが、30年前の新人研修で宿泊した建物から見えた丘のようなものは古墳だとわかった。
当時は全く知らなかった。そしてその建物に接するようにその古墳は存在している。。。
その古墳は藤原家以前に天皇家に多くの皇后を嫁がせている一族の古墳だ。
今、Google Earthで、あの宿泊施設を見てみるとその古墳の敷地に建てられている。。。。
研修責任者が言っていた祠と言うのは古墳の造り出し部分で、祭祀を行なっていた場所だったのではないだろうか、、、、
私はその祭祀を行なっていた方の残像を見てしまったのではないだろうか、、、
Google Earthで拡大して見る限り、その建物は老朽化し、今は使われてないように見える。。。
残念ながらその会社は、その後、何年か経って業績悪化により、外国企業の子会社となってしまった、、、、
※造り出し
造り出しは納棺後の祭祀(追善供養)を行うための場であったと考えられている。
箸墓古墳では後円部から時期の違う二種類の特殊器台が採取されていることから、納棺後ある程度時間がたってから再び祭祀が行われたらしい。その後、たとえ供養のためでも墳丘に登ることをタブー視する考えが広がった結果、追善祭祀の場は墳丘からプレ造出に移行した。そして王墓が王宮のある大和からより遠くの場所に造営されるに従い参加困難になった大王本人に代わって勅使が追善祭祀を執り行うようになり、それに合わせる形で造出の整備・定式化が行われたと考えられている。
納棺儀礼終了後、一定期間の後に追善祭祀が造出で行われ、その期間が終了すると今度は形象埴輪を配置して祭祀の様子を再現し、造出を含めた墳丘への立ち入りはなくなった。最終的にはそれが形骸化し、埴輪による祭祀の再現のみが行われるようになったと考えられている。
また全国で4600基あるとされる前方後円墳のうち、造出のあるものは100基程度(その約半分は奈良・大阪の大型古墳)しか確認されておらず、その数・有無は被葬者の地位を反映しているとされている。