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【戦国武将】阿波 板西城城主 赤沢宗伝が長宗我部軍と戦い討ち死にした後の赤沢氏の行方は?現在の姿は? 阿波水軍 森家と赤沢伊賀守、阿波 小笠原氏との関係は?

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。

今回は、戦国武将 赤沢信濃守宗伝の子孫と高松藩 森家の菩提寺 海暁閣 勝覚寺との関係についてです。

ぜひ最後までお付き合いください。


モリヨシナリのプロフィール



神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。

現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー

保有資格:
【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他






戦国武将 赤沢宗伝と勝覚寺の関係は?



江戸時代、森家は高松藩の東端に位置する志度街道の馬宿に住んでいました。

森家の先祖は阿波水軍森家出身の戦国武将 森権平久村の一族で、江戸時代は街道沿いの馬宿村で普請役をしていました。


その森家の菩提寺である勝覚寺と阿波の戦国武将 赤沢信濃守宗伝とはどのような関係があるのでしょうか?


大内町史によると板西城城主の赤沢信濃守宗伝の子孫は、東かがわ市にある海暁閣 勝覚寺の住職となります。



赤沢宗伝亡き後の赤沢氏は?


天正10年(1582年)2月、赤沢信濃守宗伝は、長曾我部元親軍と徳島県の中富川で戦い、討死し、一門は各地に離散しました。

赤沢信濃守の長子である正本は現在の香川県東かがわ市の小砂村(こざれむら)に逃れできました。

後に、大坂天満 興正寺で得度し小砂村に戻り、小砂坊と称して堂宇を創立しました。

真享元年(1684年)、当時、小砂村の小砂坊 九代 願故法師は同坊を三本松村に移し堂宇を建立し海暁山 勝覚寺と号しました。


勝覚寺本堂





大内町史:

天正10年(1582年)中富川の合戦において討死した坂西城主 赤沢信濃守の長子 正本法師が入野郷小砂村に小砂坊を開基し、貞享元年(1684年)三本松村に移り、海暁山 勝覚寺となったとされ、以来、阿波国美馬郡の安楽寺末、高松安養寺の末寺であったが、宝暦7年、興正寺直末となった。

第20代住職 赤沢融海は、幕末から明治期の名僧として、詩画歌俳にも秀でていた。

また、好妙人 谷口庄松(正真同行)は当時の門徒であった。



※赤沢宗伝が長宗我部元親軍と戦い、壮絶な最期を遂げた中富川の戦い



※赤沢宗伝亡き後、一子が讃岐の小砂に逃れ、大阪で得度後、東かがわ市小砂に勝覚寺を開基した。その後、現在地の東かがわ市三本松に移った。


※赤沢宗伝の居城だった板西城跡。赤沢宗伝は長宗我部元親軍との中富川の戦いで壮絶な最期を遂げた。菩提を弔うため、その一子は仏門に入った。



※勝覚寺の三つ紅葉の紋は、勝覚寺 第二十世 赤澤融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる興正寺に対する功績に対し、旧五摂家 鷹司家より下賜された。




勝覚寺20世 赤沢融海法師とは?


  • 天保4年(1833)~明治28年(1895)

  • 大内郡三本松村勝覚寺に生まれる。

  • 白井節翁に漢籍を、宗教学を阿州小松島の霊潭勧学に学ぶ。

  • 安政元年(1854)22歳で勝覚寺20世の法灯を継ぐ。

  • 西本願寺・興正寺の200年の確執の総決算というべき、興正派独立に大いに貢献した。

  • 明治12年(1879)8月から本山執事を務めた。

  • 明治13年(1880)太政官から小教正に補せられ、参内拝謁をおおせつけられた。

  • 明治14年(1881)本山執事を辞任し、郷里で私塾洗心校を創設、宗教教育を数十名の学生に施した。

  • 宗教活動は全国的に及び敬慕するもの多く、三条実美公との交流も末永く伝えられている。

  • 明治27年(1894)病になると、本山は連枝竜華院殿を遣わされ見舞ったが翌年1月2日死去した。

  • 興正派独立における彼の活躍は「華園家家乗」に詳しい。


出来事:

  • 興正派独立

  • 洗心校の創設

  • 三条実美公との交流

  • 連枝竜華院殿の訪問


その他:

  • 華園家家乗

赤澤融海は、興正派独立に大きく貢献した人物であり、教育者・宗教家としても活躍した。

●三条実美公 (右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員、内閣総理大臣)

●鷹司治子 (公爵 三条実美と結婚)



※勝覚寺の公式サイト


 


阿波水軍 森家と阿波 赤沢家の関係は?


森権平の父 森村吉(仙石村吉)は阿波の赤沢家一族の赤沢伊賀守の娘と結婚しました。

森村吉は、阿波水軍 初代甚五兵衛(森村重)と森権平の父であり、仙石秀久に仕え信州で7000石を領有しました。

赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守の娘は、初代 森甚五兵衛と森権平の母にあたります。阿波水軍は江戸時代の260年間、徳島藩の蜂須賀家に仕え、参勤交代や海防に大変重要な役割を果たしました。椿泊城城主でもありました。

勝覚寺 赤沢家の先祖である赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守の娘は、森権平の母であり、森権平一族の子孫である高松藩の森家はその勝覚寺の檀家となっています。

森村吉の母は、撫養城城主 小笠原摂津守の娘です。 阿波 赤沢家も小笠原家と関係があります。

森村吉の妹のうち2人は讃岐の四宮家と服部家に嫁いでいます。

讃岐の嫁ぎ先であった四宮勘左衛門は引田の日下家の養子となりました。

その関係から引田の戦いで討ち死にした森権平の供養は日下家がしています。

森権平の叔母の嫁ぎ先となる日下家には、位牌と過去帳の写しがあります。過去帳は引田の積善坊にあります。ちなみに、積善坊には瀬戸内寂聴さんの父母の墓があります。

森権平の墓は東かがわ市伊座にあります。


※阿波水軍森家の家系図





※森村吉(仙石村吉)



※撫養城



赤沢宗伝の長子が開基した勝覚寺が、高松藩 森家の菩提寺となった理由は、森権平の母が赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守の娘だった背景がある。


馬宿に住んでいた森家は、通常であれば、地理的にも近い馬宿の海蔵院東海寺や引田の積善坊、萬生寺が菩提寺となるが、森権平の母が、赤沢宗伝の一族である赤沢伊賀守の娘だった関係から菩提寺は馬宿から離れた勝覚寺となった。




阿波 小笠原氏と赤沢宗伝の関係は?


阿波小笠原氏の祖は小笠原長経の次男、長房である。

承久3年(1221年)の承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となったとされる。

ただし、今日の研究では実際には長房が長男で長忠は三男であったとする説があり、また長忠の系統は京都を活動の中心としていた可能性が高い。

文永4年(1267年)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に26000町余りの所領が与えられ、岩倉城を拠点とした。

阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。

代表的な例としては三好氏、安宅氏、一宮氏(小笠原成助)、大西氏(大西覚養)、赤沢氏(赤沢宗伝)などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。

その他の阿波小笠原氏の支流にも七条氏・高志氏などがある。




仙石秀久の家臣だった森村吉




赤沢信濃守宗伝と海暁閣 勝覚寺



【阿波の戦国武将】板西城城主 赤沢信濃守宗伝の末裔とは?

1582年、中富川の戦いで討死、一子、正本法師が菩提を弔う為、得度し香川県東かがわ市小砂(こざれ)に「勝覚寺」を開基、後に三本松に移し四国屈指の名刹 閣寺院 海暁閣 勝覚寺となる。 庄松同行ゆかりの寺





「裸の大将」のロケ地となった海暁閣 勝覚寺

【海暁閣 勝覚寺】東かがわ市にある名刹 勝覚寺。裸の大将のロケ地にもなった。





以上

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