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阿波水軍 森家と仙石秀久の家臣 森権平と大庄屋の日下家との関係は? 江戸時代、東かがわ市馬宿に住んでいた武士 森家の正体は?
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回は、安土桃山時代(1568年〜1600年)に仙石秀久の家臣として太く短く生きた武士、”引田の戦い”で若干18才で壮絶な最期を遂げた 森権平(森久村) と阿波水軍 森家と高松藩の大庄屋だった日下家の関係、そして高松藩の森家の正体についてです。
ぜひ最後までお付き合いください。
モリヨシナリのプロフィール
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事。その後、香港、中国にて外資系商社の設立に参画し、副社長をへて顧問。その間、米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年間滞在。
現在、Bizconsul Office 代表。ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
・観光庁インバウンド研修認定講師
・四国遍路通訳ガイド協会 会員
・トリリンガル讃岐PRオフィサー
【保有資格】
【英語:】全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点(L満点)、TESOL(英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級、他
【中国語】全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級、他
【ツーリズム】総合旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)、他
【メディア実績】
・香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
・瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
・岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
【研修/コンサルティング実績】
・観光庁インバウンド研修認定講師として登壇(香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
・四国運輸局事業(訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他)のコンサルタント
・香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
・香川せとうち地域通訳案内士のインバウンド研修講師認定試験の面接官
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阿波水軍 森家当主が書いた「木瓜の香り」と日下家由緒書きに見る森権平と日下家
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日下家の家系図と、森権平に関する記述を含む古文書に書かれた森家と日下家の関係、そして森権平の生涯について、情報を整理します。
日下家系図
日下家の出自: 寒川郡日下村に住み、寒川元春に属していたことから日下姓を名乗ったとあります。その後、大内郡引田村(現在の香川県東かがわ市引田)に移り住み、所領を有していたことが分かります。
泉州久米田の戦いでの戦死: 日下家初代の日下織部秀武は、泉州久米田の戦いで討ち死にしました。
秀吉の四国征伐による所領没収: 秀吉の四国征伐によって所領を没収されたことが記されています。
四宮家からの養子: 日下織部秀武には男子がいなかったため、後肥後下改上、与冶山城主 四宮右近進利之の三男 四宮秀行が養子に入ったことが記されています。これにより、日下家には四宮家の血も入っていることが分かります。
大庄屋としての役割: 日下家は代々、引田村と馬宿村の庄屋や大庄屋を務めていたことが分かります。
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森権平に関する記述
森権平の出自: 「阿波志」(1815年)によると、「板野郡氏族」の項に森権平(久村)は森志摩守村春の弟、九郎左衛門村吉の次男と記されています。
仙石秀久との関係: 天正十年(1582年)から仙石秀久に従い、讃岐攻略の先鋒を務め、翌年には屋島攻撃にも従軍したとあります。その後、仙石秀久が信濃小室城主となり、七千石を領した際、長子村重は伯父村春の跡を継ぎ、次男の久村(権平)は仙石権平と改名したとあります。
引田合戦での戦死: 天正十一年(1583年)四月、秀久と長宗我部元親が引田で戦った際に、久村(権平)は殿(しんがり)を務め、力戦及ばず稲吉新蔵人と交戦し戦死したとあります。享年十七歳と記されています。
日下氏による供養: 権平の墓は大内郡伊座中山にあり、引田の日下氏が祀っていると記されています。日下氏は権平の姑夫(叔母の夫)であり、その子 秀矩(ひでのり)がいたため、日下家が代々供養していたとあります。藩士 日下奉時(くさかともとき)は、その支族であり、権平の忠烈を深く慕い、木像を刻んで墓側に奉安しようとしたとあります。
日下奉時の願いによる記述: 日下奉時の願いにより、三野知充(みのともみつ)がこの記述を記したとあります。
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阿波水軍 森家の家系図
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日下家の家系図
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特に重要な点
森権平と日下家の関係が明確に記述されていること: 森権平の叔母が日下家に嫁いだことで姻戚関係となり、権平の死後、日下家が供養を引き受けた経緯が明確に記されています。これは、森権平亡き後、森権平の一族の者が日下家を頼って、引田郷の馬宿に拠点を築いたとことに繋がります。日下家は、引田村と馬宿村の庄屋を勤めていました。
森権平の享年が十七歳と記されていること: 若くして戦死したことが改めて分かります。
「仙石権平」と改名した経緯: 仙石秀久に仕えるにあたって改名したことが記されています。
これらの情報から、森権平と日下家、そして馬宿に住み高松藩に仕えた森家の関係がより明確になりました。
🔹引田の戦い
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🔹仙石秀久
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馬宿に住んだ高松藩の武士 森家の起こり
1583年、引田の戦いで討ち死にした仙石秀久の家臣 森権平。権平亡き後、日下家に権平の叔母が嫁いでいた日下家が供養することとなる。生き残った森権平一族の者は、日下家を頼りに馬宿に基盤を築いて住むこととなる。
仙石秀久が讃岐を没収された後、生駒親正が引田城入りした。後に高松城を築き、松平家へと受け継がれていった。森家は馬宿に住み、普請役として、生駒家、松平家に仕えた。
馬宿は志度街道上にあり、高松藩の東端に位置し徳島藩との藩境と言う地理的にも、軍事上も重要な要所だった。そこで、橋や道路の普請、また警備的な役割も担っていたと考えられる。馬宿には、番所や台場もあった。そのような関係から徳島藩の西端にあった碁浦番所の役人 八田家との繋がりも生まれ、婚姻関係を持つに至った。
🔹勝覚寺が、高松藩 森家の菩提寺となった理由
馬宿に住んでいた高松藩 森家は、通常であれば、地理的にも近い馬宿の海蔵院東海寺や引田の積善坊、萬生寺が菩提寺となるが、森権平の母が、赤沢宗伝の一族である赤沢伊賀守の娘だった関係から菩提寺は馬宿から離れた赤沢宗伝の長子が開基した勝覚寺となった。赤沢宗伝は阿波 板西城の城主だったが、中富川の戦いで長宗我部元親軍と戦い、壮絶な最期を遂げた。残された長子は、讃岐の小砂に逃れ仏門に入り、勝覚寺を開基した。
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🔹森権平が討ち死にした東かがわ市伊座から馬宿は徒歩1時間。
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🔹東かがわ市馬宿に住んでいた武士 森喜平と徳島藩 碁浦番所の役人だった八田家との結婚の背景は? 藩をまたいだ結婚が許された理由は?
日下家の由来と役割
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大庄屋・庄屋としての世襲: 日下家は代々、大内郡の大庄屋と引田村及び馬宿村の庄屋を務めてきた名家です。初代の日下彦右衛門から十四代七郎左衛門まで、約240年にわたり地域行政に携わっていたことは、その地域における影響力の大きさを物語っています。
広範囲な業務: 庄屋の下に町頭を置き、90余軒もの商店を取り締まっていたこと、浦には浦年寄を置き、出入の船や回船の取り締まりをしていたことから、日下家の業務範囲が非常に広かったことが分かります。これは、単なる村のまとめ役にとどまらず、商業活動の監督や海運の管理にも関与していたことを示しており、地域経済においても重要な役割を果たしていたことが窺えます。
海に面した村の庄屋の様子: 浦年寄を置いていたことから、引田村が海に面した村であったことが改めて確認できます。海運の取り締まりは、年貢米の輸送や物資の流通に深く関わる重要な業務であり、日下家が藩の財政にも貢献していた可能性を示唆しています。
屋敷と建物:
庄屋としての格式: 長屋門、母屋、蔵、土塀などが配置よく並んでいることから、日下家の屋敷が江戸時代の庄屋としての格式を十分に備えていたことが分かります。長屋門に使用人の部屋があったこと、母屋に大きな「クド」があったこと、勘定場などの間があったことからも、当時の生活様式や日下家の規模が窺えます。
四部屋あった蔵: 蔵が四部屋もあったことは、日下家が多くの物資を保管していたことを示しています。これは、年貢米の保管や、自家の商売で扱う商品の保管などに使用されていたと考えられます。
屋敷の変遷: 近年発見された江戸期の絵図から、現在の屋敷が後になって移築されたものであることが判明したとのことです。以前は浦番所、台場、藩の米蔵など、藩関係の施設が近くにあったことから、日下家の屋敷も藩の施設と密接な関係にあったと考えられます。
高松藩の分限長に見る日下家の禄高
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これまでの情報と合わせて考察すると:
経済力と地域における影響力: 禄高は二十石と高くなかったものの、大庄屋という役職に伴う特権や、広範囲な業務、そして商売によって、日下家は地域において大きな影響力と経済力を持っていました。
森家との繋がり: 森権平の叔母が日下家に嫁いだことで、両家の繋がりが始まり、森権平の死後、日下家が供養を引き受けたこと、そして森家一族の者が日下家と関係を持ち、馬宿に住んだことが分かります。
日下家と馬宿の位置関係
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特に重要な点:
大庄屋としての広範囲な業務: 日下家が単なる村のまとめ役にとどまらず、商業活動の監督や海運の管理にも関与していたことは、地域経済において重要な役割を果たしていたことを示しています。
屋敷の変遷: 屋敷が移築されたという事実は、日下家と藩との関係が深く、藩の意向によって屋敷の位置が変わった可能性を示唆しています。
これらの情報から、日下家は地域社会において大きな影響力を持つ名家であったことが分かります。
「木瓜の香り」にある阿波水軍 森家の出自
資料①
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森家の出自と家系に関する記述を資料と合わせて考察します。
森家の出自と家系に関する記述:
森家の遠祖: 藤原姓で、藤原鎌足、俵藤太秀郷の系統から出ているとされています。その後、鎌田氏を名乗り、数代武門として武功を顕したものの、累世伝来は詳らかではないとあります。
阿波への来住: 細川家の老臣、森飛騨守・久米安芸守両人の取次によって阿波に来たとされています。細川家に属し、鎌田筑後守と称し、阿波名東郡西黒田村に住んだとあります。
海賊との関係: 当時、瀬戸内海には海賊がおり、その被害を防ぐために、有力な海賊を誘導・馴致して対抗させた。「暴をもって暴を制す」という方法で、海賊の中から船手組や船大将に転向する者が出て、これが後世の水軍、海軍へと発達し、その統領は船大将・海賊大将軍などと称し、多くの部下を従え、広壮な居館(城郭)を構えた海の大名となったとあります。
森氏と海賊の関係: 記述からは、森氏自身が海賊であったとは明確には読み取れませんが、海賊の動静に詳しい人物が細川家に仕え、海賊対策に関わっていた可能性が示唆されています。また、海賊の中から水軍へと発展していく過程において、森氏が何らかの役割を果たした可能性も考えられます。
その他の記述: 鎌田九郎左衛門が因幡国に住んでいたこと、阿波国屋形(細川氏の居城)があったこと、鎌田筑後守が阿波名東郡西黒田村に住んだことなどが記されています。
考察すると:
森権平の出自: 森権平は森志摩守村春の弟、九郎左衛門村吉の次男と記されています。森権平の家系は藤原氏を祖とし、鎌田氏を経て森氏を名乗り、細川家に仕えて阿波に来住したことが分かります。
日下家との繋がり: 森権平の叔母が日下家に嫁ぎました。森氏が阿波に来住した経緯や、当時の社会状況が分かり、日下家との繋がりがより深い意味を持つことが分かります。
これらの情報から、森氏は藤原氏を祖とし、鎌田氏を経て森氏を名乗り、細川家に仕えて阿波に来住し、水軍と関わりを持ち、その一族から森権平が出て、引田の戦いで戦死した、その縁で日下家と繋がり、高松藩の森家へと繋がっていくという流れが、明確になりました。
資料②
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この資料からは、森家の家系、特に江戸時代以降の当主やその事績について読み取ることができます。これまでの資料と合わせて考察します。
資料②から読み取れる内容:
森家の家系図:
十六代村屋甚五兵衛から十九代甚一郎までの当主の名前
特に、十八代水吉、十九代甚一郎については、詳細な事績が記されています。
十八代水吉:
嘉永四年(1851年)に椿泊で出生、初名左一。
十八歳で家督相続、藩主から従前のとおり海上方を命ぜられた。
明治二年、藩の軍艦戊辰丸に乗組み宮古沖海戦に参加。
翌三年、藩から留学生として英国へ派遣され、七年まで英国に滞在し、化学物理学の卒業証書を受けた。
帰国後、八年東京工学寮の理化学試験局に入り、十四年退局。
その後、徳島中学校兼徳島師範学校御用係(のち教諭)となった。
十八年徳島県立麻植中学校(今の川島高校)の初代校長。
十九代甚一郎:
明治元年、上野彰義隊との戦争で戦死。
幸村の弟、初名村美:
淡路の森長左衛門家を継いだが、藩主裕斉の命で本家をつぎ、村誠と改名。
「かれこれ不届の儀これあり、格禄家屋敷召し上げられる」となり、鎌田弥寿蔵と改名。のち許され文久三年没。
森家と藩船の関係:
森家は藩船の造船、保管・運用や乗務員(御水師)の訓練などのすべてを取り締り、その統領としての地位は明治に至るまで変わることはなかったとあります。
四国という島国にある阿波藩としては、本土との交通上、どうしても船が必要であり、特に参勤交代のように多数の人員と多量の物資の運搬に、かなり大型の船を多数保有する必要があったとあります。寛永十二年(1635年)三代将軍家光の鎖国政策の断行はその決定打となったとあります。
森祐一郎氏の手記(未定稿): この資料は森祐一郎氏の手記(未定稿)に基づいていることが記されています。
これまでの資料と合わせて考察すると:
江戸時代以降の森家は藩船の管理・運用に深く関わっていたことが分かりました。このことから、森家は代々、水軍・海運に関わる家柄であったことが分かりました。
日下家との関係は、森権平の叔母が日下家に嫁いだことから始まり、権平の死後、日下家が供養を引き受けたことが分かりました。江戸時代以降も阿波水軍の森家が地域社会で重要な役割を果たしていたことが分かり、日下家との関係も継続していた可能性が高いと考えられます。
阿波水軍森家の禄高
資料③
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資料③は、文政十一年(1828年)の御家中知行高井御役高帳の一部です。この資料から阿波水軍森家の禄高を確認します。
資料から読み取れる森家の禄高:
資料の中に「森甚五兵衛」「甚大夫」という名前が見えます。これは阿波水軍森家の当主と分家です。それぞれの禄高は以下の通りです。
森甚五兵衛: 1413石余り
甚大夫: 1016石
禄高から見る森家の経済力:
一千五百石の意味: 江戸時代の武士の禄高は、その家の経済力を示す重要な指標です。一千石以上の禄高を持つ武士は大身と呼ばれ、藩の中枢を担う重臣クラスでした。一千五百石という禄高は、大身の中でも上位に位置し、非常に裕福な部類と言えます。
他の武士との比較: 資料に記載されている他の武士の禄高を見ると、数百石の者も多くいます。それと比較すると、森甚五兵衛の一千五百石は際立って高いことが分かります。
阿波水軍森家の裕福さ:
以上のことから、阿波水軍森家は江戸時代において非常に裕福な家柄であったと言えます。
補足情報:
水軍としての重要性: 阿波藩は海に面しており、水軍は藩の防衛や物資輸送において重要な役割を担っていました。森家はその水軍を統率する立場にあったため、藩から手厚い待遇を受けていたと考えられます。
禄高以外の収入源: 武士の収入は禄高だけではありません。役職に応じて役料が支給されたり、商業活動を行ったりする場合もありました。森家が水軍を統率する立場にあったことから、禄高以外にも何らかの収入源があった可能性も考えられます。
過去の資料との関連: これまでの資料で、森家は戦国時代から水軍として活躍し、蜂須賀氏に仕えて高禄を与えられていたことが分かっています。江戸時代に入ってもその地位は維持され、裕福な生活を送っていたことが今回の資料で裏付けられました。
日下家の禄高
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日下家の禄高:
資料の中に「日下久太郎」という名前が見えます。これは日下家の当主で、その禄高は以下の通りです。
日下久太郎: 持高 貳拾石(持高 二十石)
禄高から見る日下家の経済力:
二十石の意味: 江戸時代の武士の禄高は、その家の経済力を示す重要な指標です。二十石という禄高は、武士の中では下級に位置し、決して裕福とは言えません。一般的に、百石以上でようやく一家を養っていくのがやっとと言われていました。
他の武士との比較: 前回の資料で見た森甚五兵衛の一千五百石と比較すると、二十石は非常に少ないことが分かります。資料に記載されている他の武士と比較しても、日下家の禄高は低い方です。
大庄屋という役職: 日下家は大庄屋を務めていました。大庄屋は村政を担う役職であり、禄高とは別に役料が支給される場合もありました。しかし、役料だけで生活が大きく向上するほどではなかったと考えられます。
日下家の裕福さ:
以上のことから、日下家は禄高だけで見れば決して裕福とは言えません。しかし、前述した通り、日下家は地域の商業活動の監督や海運の管理にも関与し、高松藩の財政に貢献するほど経済的には大変裕福な名家でした。
🔸日下家の由緒書の発見:
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日下家の伝承: 引田では、日下家は代々庄屋を務め、郷士であると言われてきました。
生駒親正との関係: 天正十五年(1587年)に生駒親正が讃岐の国主として最初に引田城に入城した際、人心の安定を図る目的から引田神社と城林寺の再建に取りかかりました。その後、当地の旧家である日下家を召し出して政所役を命じ、村の政治を一任したとあります。
引田城からの移転: 生駒親正は、引田合戦で焦土と化した街並みの復興や引田城の改築を計画しましたが、讃岐の中心から東へ偏り過ぎていること、隣国阿波とあまりにも近接していることなどの理由から、一年余りで西讃の聖通寺城へ移って行きました。その後は老臣を城代として置きましたが、最初の復興計画は大幅に縮小されたと思われます。その後、生駒家はお家騒動がもとで四代で滅亡しました。後任として東讃十二万石の領主となり高松城へ入城したのは松平頼重でした。
政所役の世襲: 日下家は政所を世襲し、時には旧大内郡の大政所となって藩政に干与し、政所就任以来二百有余年連綿として、浦方、村方、町方を兼帯し地方政治の頂点に位置してきました。
文書の保管状況:
膨大な文書量: 歴代を通じて収蔵、保管されていた時代毎の文書類は膨大な量で、昭和五十九年に瀬戸内海歴史民俗資料館へ寄託された文書は二千点を越え、質、量共に県下でも他に例を見ない、貴重な地方政治を知る文献と位置づけられています。
由緒書の発見: 1998年(平成十年)初旬に出た第二回目の文書も、引田にとっては欠くことの出来ない重要な文書でありましたが、再び瀬戸内海歴史民俗資料館へ寄託されました。その中に、今までないといわれてきた日下家の由緒書が発見されました。
由緒書の内容: 十代辰蔵と十四代久太郎作の二種でした。両者共通していえることは、今まで日下家の過去帳に記載のない初代から三代までの由来が記載されていることです。ちなみに、森権平の位牌は同家で祭祀されています。
特に重要な点:
日下家が地域政治の頂点に位置していたこと: 政所役を世襲し、浦方、村方、町方を兼帯していたという記述から、日下家が引田地域において非常に重要な役割を果たしていたことが分かります。
🔸「木瓜の香り」森権平に関する記述
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森権平に関する記述部分(追加情報を含む):
出自の補足: 「阿波志」の記述に加え、「森家系譜」に基づく情報が示されています。それによると、権平は森志摩守村春の弟、九郎左衛門村吉の次男であり、村吉の長男村重は志摩守村春の婿養子となった後、実子忠村が生まれたため退身し、別家を立てて甚五兵衛村重と名乗ったとあります。この記述により、森家内部の系譜関係がより明確になりました。
仙石姓への改名の経緯: 権平が仙石姓を名乗った理由について、「森家古伝記」(1719年)の「仙石権平久村譜」に、「仙石権平久村は永禄年中筑後守村吉の後を嗣いで父とともに戦場を聴駆したのであるが不幸引田合戦で戦死したので三男の村明が相続して左馬之進を名乗った。」とあります。この記述から、権平が父と共に戦場に出ていたこと、引田合戦での戦死が相続に影響を与えたことが分かります。また、仙石姓を名乗った具体的な時期は不明ですが、父と共に戦場に出ていた頃、つまり若年の頃である可能性が高いです。
享年と墓所: 享年は十七歳で、墓は大内郡伊座中山にあり、引田の日下氏が祀っているとあります。
日下氏による供養の理由: 日下氏が権平を供養する理由について、「日下氏は権平の姑夫(叔母の夫)であり、その子秀矩(ひでのり)がいたため、日下家が代々供養していた」とあります。この記述により、日下家が権平を供養する理由が明確になりました。
特に重要な点:
森家内部の系譜関係の詳細: 村重が婿養子となった後、実子が生まれたために別家を立てたという記述は、森家の系譜を理解する上で重要な情報です。
仙石姓への改名の経緯: 権平が仙石姓を名乗った理由が、父と共に戦場に出ていたこと、引田合戦での戦死が相続に影響を与えたことと関連付けられている点は、興味深いです。
日下氏による供養の理由の明確化: 「姑夫(叔母の夫)」という関係性が明確に示されたことで、日下家が権平を供養する理由が明確になりました。
全体を通して:
これらの記述から、森権平は若くして父と共に戦場に出て、引田合戦で戦死した武将であり、その叔母が日下家に嫁いでいた縁で、日下家が代々供養を行ってきたということが分かります。この関係が、後の高松藩の森家が引田に拠点を築くきっかけになったと考えられます。森権平の死をきっかけに、森家一族の一部が引田に身を寄せ、馬宿を拠点として生活を始め、その後、高松藩に仕えるようになりました。
🔸森権平の父 森(仙石)村吉(生没年不詳)とは? 森権平の弟 森村明(森左馬之進)とは?
官位・通称:九郎左衛門
森元村の次男。森村春の弟。淡路を抑え森家を援助していた仙石秀久に招かれ家臣になる。
1583年の引田の戦いでは緒戦の勝利に貢献した。四国攻めの後も秀久に従い、三男・森村明(森左馬之進)の系統は代々、仙石家に仕えている。
「木瓜の香り」によれば、森左馬之進は、森権平の弟である**森村明(もりむらあきら)**が名乗った名前です。そして、この森村明は、兄である森権平(久村)が引田合戦で戦死したため、家督を相続しました。
森権平(久村): 仙石秀久に仕え、引田合戦で戦死。仙石姓を名乗った。
森村明: 森権平の弟。兄の死後、家督を相続し、左馬之進を名乗った。
「森家古伝記」(1719年)の「仙石権平久村譜」に、「仙石権平久村は永禄年中筑後守村吉の後を嗣いで父とともに戦場を聴駆したのであるが不幸引田合戦で戦死したので三男の村明が相続して左馬之進を名乗った。」と記されています。この記述が、森権平と左馬之進の関係を明確に示しています。
森左馬之進 = 森村明
🔸森権平亡き後、馬宿に住んだ森家一族は具体的にどのような人物であったか?
現時点で、資料から直接名前を特定することは難しい状況です。しかし、これまでの情報と資料、当時の社会状況などを総合的に考慮することで、いくつかの可能性を推測することができます。
考えられる人物像:
森左馬之進(森村明)とその子孫: 森権平の弟である森左馬之進(森村明)は、兄の死後家督を継ぎました。もし高松藩の馬宿に住んだ森家が森左馬之進の子孫であるならば、まず森左馬之進自身が一時的にでも馬宿に滞在した可能性、そしてその子や孫といった世代が馬宿に定住した可能性が考えられます。
森権平の近親者(親族): 森権平には叔母がおり、日下家に嫁いでいました。この叔母の血縁者、つまり森権平の従兄弟や甥、姪などが、日下家を頼って引田に身を寄せ、その関係で馬宿に住むようになった可能性も考えられます。
森権平の家臣や従者: 森権平は仙石秀久に仕えていた武士でしたので、彼に従っていた家臣や従者がいた可能性もあります。権平の死後、彼らは主を失い、生活の糧を求めて各地を移動したかもしれません。その一部が、日下家との縁故を頼って引田にたどり着き、馬宿に住むようになった可能性も否定できません。
現時点で、具体的な人物像を特定できない理由:
資料には、森権平の直系の子孫や近親者の名前が詳細に記録されているわけではありません。特に、下級武士やその家族の情報は、記録に残りにくい傾向があります。そのため、馬宿に住んだ森家一族の具体的な名前を特定することは、現時点では困難です。
今後の調査で期待されること:
高松藩の史料調査: 高松藩の分限帳や寺社過去帳、その他の記録を詳しく調査することで、馬宿に住んでいた森家の情報が見つかる可能性があります。菩提寺である勝覚寺で過去帳から名前を割り出し、高松藩の分限長を調べる。
阿波の赤沢宗伝の長子が開基した勝覚寺が、高松藩 森家の菩提寺となった理由は、森権平の母が赤沢宗伝一族の赤沢伊賀守の娘だった背景がある。その点から高松藩 森家は森権平一族であると考えられる。勝覚寺に残る過去帳を調べれば馬宿に住んでいた人物の姓名が特定できる。【江戸時代後期から末期の高松藩 森家の姓名は特定されている。森義右エ門、森喜平(1864年に徳島藩の碁浦番所役人兼庄屋の八田孫平は長女 八田キヨと結婚)】
日下家文書の更なる調査: 日下家に伝わる古文書の中に、森家に関する記述が残されている可能性があります。特に、江戸時代後期の文書に着目することで、高松藩の森家との関係が明らかになるかもしれません。日下家の資料は高松市の瀬戸内海歴史民族資料館にあります。また、東かがわ市歴史民族資料館に馬宿の森家について聞くこともできます。
地域に残る伝承の調査: 引田地域や馬宿周辺に伝わる伝承や口碑を調査することで、高松藩 森家に関する情報が得られる可能性があります。特に高松藩の分限長を出版された著者の方が東かがわ市に住んでいます。
徳島藩 碁浦番所役人だった八田家に伝わる八田家文書に高松藩 森家の記述がある可能性があります(1864年に八田家は、高松藩 森喜平と姻戚関係を結んだ為)。
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現時点での結論:
現時点では、森権平亡き後、馬宿に住んだ森権平一族が具体的にどのような人物であったかを特定することはできません。しかし、森左馬之進とその子孫、森権平の近親者、森権平の家臣や従者などが、日下家との縁故を頼って引田に身を寄せ、馬宿に住むようになったと考えられます。今後の調査によって、より具体的な情報が得られることを期待します。
香川県立図書館 讃岐国大内郡引田村日下家文書目録
日下家文書 現在、瀬戸内海歴史民族資料館にある。馬宿村の普請の部分に森家の記述があると考えられる。
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讃岐国大内郡馬宿村八木家文書目録
🔸馬宿に住んでいた武士 森家の身分は?
馬宿に住んだ森家は、郷士待遇の武士であった可能性が高いと考えられます。
以下、その理由を説明いたします。
郷士の身分とは?
郷士は、農村に居住し、平時は農業に従事し、有事の際には武士として戦う身分です。武士身分ではありますが、藩に直接仕えているわけではなく、半農半士の生活を送っていました。
馬宿に住んだ森家の状況:
馬宿に住んだ森家は以下のような状況だったと考えられます。
普請役に従事: 代々普請の仕事に従事していたことから、土木建築に関する技術を持っていたと考えられます。
藩の防衛体制に関与: 徳島藩で禄高を持つ碁浦番所の役人兼庄屋との関係や婚姻関係から、藩の防衛体制に何らかの形で関与していた可能性が高いです。
禄高が低い、または無禄: 禄高は高くなかった、もしくは無禄であった可能性があります。
これらの点から、馬宿に住んでいた森家は、普請役として専門的な技能によって生計を立てていたと考えられます。これは、郷士の生活様式に近いと言えます。
また、藩の防衛体制に関与していたと考えられることから、藩から何らかの形で恩恵を受けていた可能性もあります。例えば、役料が支給されていたり、税の免除を受けていたりなどです。このような待遇は、郷士に準ずるものと言えるでしょう。
現時点での結論:
以上のことから、馬宿に住んでいた森家は、郷士待遇の武士であった可能性が高いと考えられます。禄高は高くなかったかもしれませんが、農業や専門的な技能、そして藩との関係を通じて、地域社会で一定の地位を築き、生活を維持していたと考えられます。
🔸日下家の系図の考察
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この系図には、日下家の祖先から子孫への繋がりを示しており、各世代の人物名、役職、没年月日などが記載されています。
主要な情報:
この日下家由緒書きに書かれた情報をまとめます。
① 日下源三郎秀武: 寒川郡日下村に居住し、寒川元春に属していたことから日下姓に改めたとあります。その後、大内郡引田村に移り、所領は二百石。泉州久米田の戦いで討死したと記されています(永禄三年(1560年))。日下家の始祖に近い人物と考えられます。
② 日下勘右衛門秀矩: 秀吉の四国征伐の際に所領を没収されたとあります。初名は彦右衛門。文禄二年(1593年)没。
③ 日下三郎五郎秀行: 後に肥後と改め、与冶山城主四宮右近進利之の三男。秀武に男子がいなかったため養子となったとあります。所領は二百石。阿州家臣森甚五兵衛の娘を娶り、森権平の実伯母にあたると記されています。天文十六年(1547年)没。この記述は、森権平と日下家の繋がりを示す重要な情報です。
④ 日下彦右衛門秀之: 初名四郎太夫、後に嘉兵衛と改名。生駒公より引田村政所役を仰せ付けられたとあります。寛永七年(1630年)没。
⑤ 日下孫左衛門頼吉: 龍雲院様御入国の際に引田村庄屋役を仰せ付けられたとあります。寛文二年(1662年)没。
⑥ 日下佐左衛門家吉: 「頼吉嫡子吉忠トモアル」とあり、大庄屋役を仰せ付けられ、持高は二十石。槍術に優れ、御前御目見を得て大小御筒・紋付羽織などを下賜されたとあります。元禄十五年(1702年)没。
⑦ 日下孫右衛門吉正: 初名勘四郎。元禄九年(1696年)に大庄屋役を仰せ付けられ、享保三年(1718年)没。
⑧ 日下佐左衛門吉之: 宝永五年(1708年)に大庄屋役を仰せ付けられ、持高は二十石。元文五年(1740年)没。
⑨ 日下佐左衛門吉門: 元文五年(1740年)に大庄屋役を仰せ付けられ、持高は二十石。延享二年(1745年)没。
⑩ 日下佐左衛門吉守: 初名辰蔵。延享四年(1747年)に庄屋、安永二年(1773年)に大庄屋となり、持高は二十石。牢人株を下されたとあります。文化十三年(1816年)没。
⑪ 日下佐左衛門吉房: 初名辰蔵。実質は引田村の百姓新兵衛の子。寛政十一年(1799年)に親場右衛門の養子となり、文化二年(1805年)に大庄屋役を仰せ付けられ、持高は二十石。功により八石加増されたとあります。天保六年(1835年)没。
⑫ 日下加次之助吉武: 七才にして父辰蔵が死亡したため、年少につき村方庄屋後見として坂東吉太郎、浦庄屋後見として佐野五郎兵衛が仰せ付けられたとあります。持高は二十石。天保七年(1836年)没。
⑬ 日下孫左衛門吉之: 実は佐野五郎兵衛の二男。嘉永七年(1854年)に孫左衛門の養子となり、同年海陸庄屋役、同日付で大庄屋役を仰せ付けられたとあります。
⑭ 日下久太郎義寿: 実は大内郡三本松村堤治兵衛の二男。天保七年(1836年)に加次之助の養子となり、天保八年(1837年)に海陸庄屋役を仰せ付けられ、後見として佐野五郎兵衛が仰せ付けられたとあります。
特に重要な点:
森権平との繋がり: ③の記述から、森権平の叔母が日下家に嫁いでおり、両家が姻戚関係にあったことが明確にわかります。これは、森権平と日下家の関係性を考察する上で非常に重要な情報です。この関係から日下家が森権平を供養することとなります。現在も、森権平の位牌と過去帳の写しは日下家にあります。過去帳は積善坊にあります。また日下家は引田村と馬宿村の庄屋であるだけでなく、大内郡全体の大庄屋でした。
庄屋などの役職: 多くの人物が庄屋や大庄屋などの役職を歴任していることから、日下家が地域社会において一定の地位を有していたことがわかります。
養子縁組: 複数の世代で養子縁組が行われていることがわかります。これは、家系を維持するための当時の一般的な慣習です。
以上