広島江波〜焼け残った街〜
これは2016年の出来事である。
広島。
2016年は、広島にとっては非常にシンボリックな年となることだろう。
広島東洋カープの優勝、オバマ大統領の広島訪問、市民球場跡地問題大きな出来事が様々あった。
そんな年にこそ広島を訪ねる意味があると思い、島根にある祖母の実家を訪ねる機会を利用して、広島、特に、原爆から焼け残った地域を歩いてみることにした。
わずかに焼け残った古い地域と新しい地域を照射することによって、何かが見えればと思う。
その焼け残った地域とは江波と草津である。
今回訪ねた江波は奇跡的に、山影に隠れたため多くのものが焼け残った。東京でいうところの下町のような裏路地が多く残っている草津も被害が比較的少なかった地域の一つである。
まずは江波を訪ねるべくJR横川駅から広電に乗り込んだ。
広電は路面電車の博物館として知られ、元大阪市電、元神戸市電、元京都市電の電車が今でも見られる。
今も変わらぬモーター音に、揺られて降り立ったのは広電江波車庫である。ここには、大正時代の電車や被爆電車などが動態保存されている。今回特別に頼んで、車庫の中を見学させてもらえることになった。
資材に注意しながら奥へ進むと、そこに被爆電車の姿はあった。
定められた不燃化工事をしていないため、営業線中に滅多に姿を見せることのないその車両は綺麗に、そこに、鎮座していた。頭に付けた前照灯が今でも、静かに、広島の街を照らしているかのようだった。
この電車が作られたのは1925年。
100年目を迎えたばかりの大正生まれの車両だ。
原爆投下直後は、この江波車庫にあり、中破の被害を受けている。
文字盤や車両をしげしげと眺め、心がキュッと引き締められた。
だがこれは後に登場する被爆建物の序章に過ぎなかった。
被爆電車に別れを告げ、いよいよ江波へ向かう。
訪ねてみて、驚いた。
地図に書いてあった街並みや路地の一部が新道「広島南道路」によって跡形もなくなっていたのである。
つながっていたはずの道のつながりがわずかにその形跡を伝えるのみで、街は分断された。
川や鉄道などによって、元は一つのコミュニティだった街が分断されるケースがあるが、道路でのそれはここ40年のことだろう。
元々は繋ぐ役目であるはずの道が、街を引き裂いてしまっている。
これほどまでに路面電車が普及してもなお、車による輸送力が必要なのだろう。
あるいは、広島市街を通らないバイパス路としての役割が強いのかもしれない。
いずれにせよ、公共の利益の下、街は分断されていた。
気を取り直し、旧道らしき道を行くと、広島では珍しい木造建築の家々が、次々に姿を現し始める。
さらに進むと被爆しながら今も残る寺の山門が見えてきた。
本堂は被害が大きく、取り壊されてしまったが、山門は今も当地に立ち続けている。
白く日焼けした部分が生々しい。
突然の被爆建物に一気に現実を見せられたような気分だった。
江波本港が近づいてきた。
かつての江波は、地つづきでなく、広島港の対岸に位置する島であった。
それが、江戸時代からの埋め立てと洪水による土砂の流出などで陸続きとなり、広島の主要な港として栄えた。
伊能忠敬がその景色を、驚嘆したとされる伝承も残っている。
幕末には、貿易港の一つとして候補地に選ばれるまでになった。
その後、宇品港の完成により、その役目を奪われるが、戦争の影響で造船所を作るための軍需工場地帯として発展。
南側が急速に都市化していき、路面電車まで延伸されることとなる。
その弊害として漁業が衰退していく。
最南部には現在でも三菱重工の工場が残っている。
地図西側の台形上の地域が巨大な旧養魚場だった場所である。
家々を見ていると、古い家であればあるほど、軒下も高くなっている。
現地では江波の石垣というそうだ。
まさに漁師町家屋の特性をよく示している。
そんな江波港に広く見られるのは鏝絵である。
富の象徴として商家に見られたもので、左官職人の一工夫が何気ない家を美しいものにしている。
江波で初めて本物を見ることができた。
この江波港は何度か改修を行っている。
1枚目地図の水色で囲っている部分が元々の江戸時代からの江波港で、黄色くカーブしている道が昔から栄えた旧道である。
これらは高台にあった江波神社を中心に栄えていた。
元々の島が現在の江波神社や江波山公園部分だと思われる。
江波神社は江戸時代、京阪神などの商人に篤く信仰され、航海の無事を祈ったそうだ。
江波神社の鳥居も被爆したものである。
本殿も「被爆建物」の看板が立てられていた。
東京では、決して見ることのない看板である。
目を背けようとしても、被爆の被害が少ない場所でも、少ない場所だからこそかもしれないそれが否が応でも眼に入る。
高台から見下ろすと、例の高架橋が江波の街を貫いていた。地図で見ても、高地から見ても、海の道、川の道の中心地となるべくしてなったのが見てとれた。
現在ではその限りでないが、人が街を作るのではなく、道が街を作らせ、人がそこに住むのだろう。
江波はまさしく広島南の玄関口だった。
かき養殖は衰退したと書いたが、地図北方の船入町方面かきうち通りから江波港にかけて広島人にとってはなじみ深いカキ漁港の風景が広がる。
江波山公園には江波山気象館という全国でも珍しい天気の博物館がある。
建物は1930年建築で、被爆を生き残っている。
建物内部には爆風で割れたガラス片がそのまま突き刺さっていた。
原爆投下直後はここに、多くの負傷者や生き残った人々が殺到したそうだ。
ここから足をのばし、先ほどの江波車庫裏手の皿山へ。
皿山は、陸軍射撃場の的となっていた場所で、被爆した人々が多く逃げ込んだ場所でもある。それを聞くと、どのような綺麗な公園でも、何気ない公園でも深い意味合いを持ってしまう。
原爆被害の少ない地域でも光が闇を照らすように、そこら中に、原爆の爪痕は残っていた。
当時、島根にいて、きのこ雲と投下時の轟音をきいた祖母も原爆で姉を亡くしている。どこに住んでいても戦争は、自分たちの近いところでつながっているものなのかもしれない。
比較的原爆の被害が少ない江波だからこそ気づけたことである。
戦後、広島の街はとても綺麗に区画整理されている。
そのため、時代が下り見えなくなってきてしまっているものがある。
江波には広島中心部が失ってしまった多くが残っているようだった。
建物の一つ一つが生き証人のように自分に語りかけてきた。
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