もうチコちゃんは観ない

「生きづらさ」という言葉をよく聞く。自分の考え方や感じ方、好き嫌いや価値観が、周りのそれと微妙に(もしくは全然)違っている。どうやら自分は少数派らしい。私っておかしいんだろうか?直したほうがいいのかな?そんな時、「生きづらさ」を感じることが多い。

30歳で仕事を辞めて、半年くらいブラブラしていた頃、地元の図書館で、ある本を手にした。「ザ・フェミニズム」という本だった。ちょっと立ち読みしただけで、直ぐに引き込まれた。その本には、私の「生きづらさ」の原因が、すべて書かれていた。

私が言おうとして、だけど言葉が見つからなくて、悔しい思いをしたあれこれが、全部言語化されていた。嬉しかった。私がおかしいんじゃない。社会がおかしいんだ。そう思った。

あれから20年。生まれた子どもが成人するような時間が過ぎたのに、日本は全然変わらない。昨日、「チコちゃんに叱られる」を観て、改めてそう思った。ご存知のように、メイン出演者が自身の発言がもとで番組の降板を求められていた。だけど降板はさせないと、チコちゃんは言った。「彼は深く反省しています」と。

またか、と思った。また許してしまうんだ。いや、許したんじゃない。最初から怒ってないんだ。「考えすぎだ。彼にはそんな意図はなかった。謝っているんだから、許してやれ。大体、そんなことでいちいち騒ぐな。そんなことで騒ぐあなたの方が、おかしいんじゃないか?」そう聞こえた。生きづらさが復活した。

昔、女性を「子どもを産む機械」に例えた政治家がいた。非難の声が数多く上がったが、彼を擁護する声も同時に上がった。「私は何も感じない。非難する人たちがおかしい。」男性だけでなく、女性からもこんな声が発せられた。ビックリした。

昨年、社会学者の上野千鶴子は、東大の入学式の祝辞で、こんな話をした。「東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。(中略)この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。『彼女は頭が悪いから』というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。」

「彼女は頭が悪いから」という言葉を聞いて、私は吐き気を覚えた。だが同時に、この祝辞にクレームをつける人もいるのだと聞いて、余計に吐き気がした。「上野はなぜ、入学式というおめでたい場でこんな話をするのか。」「東大がどうして上野に祝辞を依頼したのか分からない。」等々。

今回の問題発言をめぐって、なぜ「チコちゃんに叱られる」の降板を求めるのか?発言をしたラジオ番組の降板ならともかく。それでは江戸の敵を長崎で討つようなものじゃないか?そんな声も聞く。だが、私は思う。たくさんの子どもが観るこの番組が、たくさんの子どもの親が観るこの番組がこの発言を容認してしまったら、それが当たり前の社会になってしまう。これからの日本を生きる子どもたちに、誤った常識を与えてしまう。それでいいのか?

私が戦っている相手は、いや、私たちが戦っている相手は、問題発言をした本人ではない。「そもそも問題ではない。いちいち騒ぐ方がおかしい。」そういう感覚の麻痺した、もっと言えば女性を「モノ」として扱っても何の痛みも感じない、鈍化したこの日本という社会そのものなんだ。

もうチコちゃんは観ない。社会がチコちゃんを叱ってくれるまで。生きづらさを感じないで済む、そんな国になる日まで。



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