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アジアと日本の歴史⑧ 日本に2度失望したベトナム
インドシナ半島のベトナムは、ラオス、カンボジアと共に、かつてフランスの植民地でした。
1802 年、阮福英がフランスの援助を受けて蜂起し、清朝から国王に封ぜられ、阮朝越南国が成立しました。しかしその後、宣教師が殺害されたことを口実にフランス皇帝ナポレオン3世はインドシナに出兵し、サイゴン(現ホー・チ・ミン市) を占領して領土を割譲させ、さらにカンボジアを保護国としました。その後も侵略は続き、1833 年には阮朝を保護国としました。宗主国であった清はこれを認めず、翌年清仏戦争となりましたが、清は敗れ、越南に対する保護権は正式にフランスのものとなりました。フランスは1887 年にはインドシナ連邦(仏印)を成立させ、1899 年にはラオスもそれに加えました。
日露戦争における我が国の勝利は、インドシナの人々をも大いに刺激しました。戦後は、沢山のベトナム人留学生がわが国で学びました(東遊運動)が、日本政府は、フランスとの関係を鑑み、彼らに対して次第に冷たい態度をとるようになりました。ベトナムの人々はわが国の態度に大いに失望しました。
さて、昭和12(1937)年に支那事変が勃発し、翌年国民政府の首都・南京が陥落して、蒋介石が重慶に落ち延びると、アメリカや英国の国民政府への援助が露骨になりました。支那事変は英米との戦いでもあったのです。アメリカは密かに空軍の正規兵を義勇兵(フライング・タイガース)として参戦させ、英国も莫大な援助物資を流し続けました。そのルートを「援蒋ルート」といいます。
我が国はこれを断ち切るために、昭和15 年に、仏印総督府と交渉をした上で、ベトナム北部に進駐しました。翌年にはさらに兵を進めて、南部仏印にも進駐しました。また日仏共同防衛協定を結び、総督府を温存させながら、交通機関や戦略物資を確保するという道を選びました。つまりこれは、日本がフランスのインドシナ支配を、結果的に認めたということになります。日本軍の進駐により、その指導の下で独立できると期待していたベトナム人たちは、わが国に対して2度目の失望を味わうことになりました。
戦局が悪化した後、昭和20 年2月になって仏印の日本軍は、突然フランス軍の武装解除に乗り出しました。これは「大東亜共栄圏」の理念と、仏印総督府の存在は相容れないと主張した、重光葵外相の提起によるものだといわれています。その直後、3月にベトナムのバオ・ダイ帝、カンボジアのシアヌーク国王、4 月にはラオスのシーサワン・ヴォン国王が、相次いでフランスとの保護条約を破棄し、独立とわが国への協力を宣言しました。
しかし、わが国の敗戦により、インドシナは再び混乱に陥り、インドシナ戦争、ベトナム戦争、そしてカンボジア内戦と戦火が絶えることなく、ようやく20世紀末になって平和を取り戻したのはご存じの通りです。
今では特にベトナムとの経済関係も強固になった我が国ですが、もっと早くインドシナの独立に目を向けておれば、彼らは終戦直後に独立し、相次ぐ戦争、共産化と虐殺(そこには、カンボジアにおけるポル・ポトとクメール・ルージュの大虐殺、ベトナム戦争中の韓国人将兵による女性への暴行虐殺、いわゆる「ライダイハン」の問題も含まれます)、ボートピープルといった、その後の不幸な歴史も存在しなかったかも知れません。
連載第40 回/平成11 年1月19 日掲載