戦前政党政治の功罪⑤ 普通選挙と政治不信
第2次護憲運動の結果成立した、護憲三派連立の加藤高明内閣は、戦前の議会政治(いわゆる大正デモクラシー体制)のピークにあったといえます。
加藤内閣では重要な2つの法律が成立しています。ひとつは、「天下の悪法」として名高い、治安維持法です。
しかし、護憲運動で結束し「憲政の常這」を確立した政党政治家が、自分の首を絞めるような法律を作るはずはないでしょう。現に、この法律ができてから、無産政党(合法的社会主義政党)の活動は活発化しています。治安維持法の目的は、穏健な社会主義者を取り締まるものではなく、端的に言えば共産主義や極右などの「反議会主義」の動きを取り締まることでした。「天下の悪法」になってしまったのは、運用上の問題であり、治安維持法そのものは、明治憲法下の議会政治を守る重要な役割を担っていたのです。
もうひとつの重要な法律。それは、護憲三派が選挙公約にしていた「普通選挙法」です。
大正14(1925)年5月に成立したこの法律では、従来あった選挙権の納税資格を撤廃し、軍人を除く25歳以上の男性に選挙権を認めました。有権者は一挙に4倍となり、わが国は文字通り、大衆民主主義の時代へと突入しました。最初の普通選挙は静岡県浜松市で行われた市議会議員選挙でした。そこでは、盲人のための点字の投票用紙も用意されるなど、人々は新しい時代を実感しました。
政治学者・吉野作造は、かねてから普通選挙を主張していましたが、その理由は「選挙浄化」でした。有権者が少ないと、金品による票の取りまとめが行いやすいからです。たとえば、後に反軍演説で勇名を馳せる斎藤隆夫は自伝の中で、そのような「選挙運動」を行ったことを当然のように告白しています。普通選挙になれば有権者が増える。そうなると、金品を配るにも限界がある。よって選挙は浄化される。吉野のみならず、多くの人はそう考えたのでした。
しかし、実際には逆の現象が起こりました。多額の選挙資金を必要とするようになった政党は大企業などとの結びつきを強め、その副作用として汚職事件や金銭をめぐる疑惑が多発しました。
さらに、立憲政友会(政友会)と憲政会(後の立憲民政党)の二大政党は、政策を武器に戦わず、そのようなスキャンダルをネタに、相手の揚げ足をとることを常套手段としました。
大正15年1月、松島遊郭(大阪市)移転疑獄で、当時の首畑・若槻礼次郎(憲政会)が警察の取り調べを受け、政友会の攻撃にさらされると、翌月、今度は政友会の田中義一総裁(陸軍大将)が、陸軍の機密費を横領して政友会への「持参金」にしたのではないかとの疑惑が、憲政会の中野正則代議士から糺されました。さらに7月には、アナキスト・朴烈が拘置所で、内縁の妻である金子文子と抱擁している「怪写真」が流出し、再び政友会が政府を厳しく追及するという問題が起きています。
これらの事件は、政策とはまったく無関係のスキャンダルで、彼らがこういった泥仕合を繰り返すうちに、国民は政党政治そのものに嫌悪感を抱くようになっていったのです。
「憲政の常道」と呼ばれた二大政党の政権交代の時期に、政党は切磋琢磨しながら、議会政治を強固なものとしていかねばならなかったのですが、結果的に、国民に不信感を植え付け、今度は本当に自らの首を絞めていきました。
戦前の大正デモクラシー体制の崩壊要因のひとつは、政党政治家自身の稚拙なやり方にあったのです。そしてそれは、幻に過ぎなかったモリカケサクラに狂奔した、今の一部野党の政治家に継承されているような気がします。
連載第133回/平成12年12月20日掲載