大正時代を知っていますか?⑦ 民主化で生まれた治安維持法
大正14(1925)年2月、加藤高明護憲三派内閣は、「普通選挙法」の上程に先立って、治安維持法案を上程し、翌月、同法案は貴衆両院で可決されました。
今日の価値観で判断すれば、例えどんな恐ろしい考えを持っていても、準備や実行に移していない段階で厳しく取り締まるのはいささか問題があります。しかしこの治安維持法を作ったのは軍人ではありません。もちろん天皇ではありません。民主化を求めていた大正の政党人が、必要を認め、「普通選挙法」に反対した野党・政友本党を含めほとんどの議員が、この法案に賛成したのです。つまり、治安維持法は民主化の産物なのです。
教科書では、治安維持法は「普通選挙法」とセットであり、「飴と鞭」の関係にあるという解釈を示していますが、これは明らかに誤りです。同法成立の直後から、二大政党(立憲政友会と憲政会。後に立憲民政党)の陰に隠れていましたが、無産政党の活動は活発化し、帝国議会に議席を獲得しているのです。また、「憲政の常道」が確立していないこの時期に、政党人が自
らの活動を狭める法律を作るとは考えられません。
時の内相若槻礼次郎は自伝の中で、「治安維持法は日ソ国交樹立に伴うものである」と述べています。当時、非合法であった日本共産党が、ソ連から資金を得て、コミンテルンの支部として暗躍していたことは周知の事実でした。二度にわたる護憲運動を通じて、ようやく憲政を軌道に乗せた大正の政党人にとって、外国の資金を用いて、国家を転覆させようとするような組織
には、断固として対処する必要があったのです。
治安維持法の目的は民主化を阻害するためではなく、民主化を阻害する勢力を取り締まることが目的でした。だから、左翼(社会主義的全体主義者)だけでなく、右翼も取り締りの対象となっており、実際の逮捕者は右翼の方が多かったのです。
治安維持法の第1条には、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否定スルコトヲ目的トシテ……」とありますが、法案が提出された段階では「国体又ハ政体ヲ変革シ…… 」とあります。若槻は審議の中で「国体を変革するとは、我が国の主権を侵犯しようとすることを含み、政体を変革するとは、立憲君主政体の破壊等を含む」と述べています。最終的に「政体」という言葉は「国体」に包含されたのですが、立憲君主政体、つまり帝国憲法と議会政治を守るという意図がこの法律にはあったのです。委員会でも「本法の目的は議会政治否認を防止するのが主たる目的である」と若槻は答弁しています。
治安維持法はその後、予防拘禁の問題や最高刑を死刑に引き上げたこと(もっとも死刑になった人はいませんが)、また、対象が拡大解釈されたことなど、運用上多くの問題があったのは事実です。しかし当時の政党人は、自らの意志で、憲政を守る為にこの法律を制定したのです。
彼らの恐れは決して杞憂ではなく、全体主義国家ソ連による日ソ中立条約や戦時国際法を無視した火事場泥棒的侵略やシベリア抑留、冷戦期の革命輸出など、その後の歴史が証明しています。
治安維持法は、その目的と、運営上の問題との両面から正しく評価されるべきものです。
連載第22 回/平成10 年9月12 日掲載
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