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なにわの近現代史 Part 1 ⑥「 陸軍と警察の対立」

 明治 17(1884)年1月4 日、一人の巡査が西区にあった松島遊郭を巡回していると、突然「生ぬるい雨」が降ってきました。何と、廓の2階からひとりの兵士が巡査めがけて放尿していたのです。
 「酔っていてわからない」とシラを切る兵士を、巡査が連行しようとしたところ、一緒に来ていた兵士たちが加勢してきました。危険を感じた巡査が応援を求める間に、正月休みで松島に繰り出していた大阪鎮台の兵士1,400 人が集まってきました。そこへ西署の警察官600人が駆けつけて睨み合いになりました。いきり立った数人の兵士が抜剣したのをきっかけに、警官も剣を抜き、そこへ鎮圧のために出動した憲兵隊200人も巻き込まれ、死者2名を出す大乱闘になりました。
 事件を聞きつけた、予備役陸軍中尉で警部長(現在の府警本部長)だった大浦兼武(後に国会議員に転じ、大臣を歴任します)が機転を利かせ、たまたま軍装であったので、そのまま馬に乗って松島に直行し、兵士の上官として、また警官の上司としてこの騒動を収めたのでした。
 これが「松島争闘」と呼ばれる事件です。陸軍省、内務省ともに主張を譲らず、司法裁判に付されましたが、後始末は陸軍側に有利なものとなり、陸軍と内務省の間に遺恨が残りました。
 それから約半世紀後、再び両者がぶつかる事件がまたも大阪で起こりました。昭和8(1933)年6月17日、舞台は東へ移って、天六(天神橋筋6丁目)交差点でのできごとです。
 赤信号を無視して道路を横断しようとした兵士が、警官に注意されました。ところが、その兵士が「軍人は警官の命令には従わない」と突っぱねたため、野次馬が集まる中、殴り合いの喧嘩となったのです。有名な「ゴーストップ事件」です。
 知らせを受けた憲兵隊が、曾根崎署に厳重抗議しましたが、署側は「隊として行動していないなら、軍人も民間人も同じだ」とそれを退けたため、事件は第四師団と大阪府、そして陸軍省と内務省の争いへと発展しました。
 最後は事態を憂慮した昭和天皇の意向もあって、翌年2月19 日に双方が矛を収め、和解となりました。その後は軍人への行政措置は憲兵が行うこととなりました。
 この ゴーストップ事件が、たまたま「軍国主義」時代の入口で起こったので、それを象徴するかのように一般的には解釈されています。しかし、松島と天六の事件は、いずれも陸軍側に有利な解決がなされており、その論理でゆけば、松島争闘の後に「軍国主義」の時代が来なければなりません。実際には、日清・日露の戦役の後、いわゆる大正デモクラシーの時代を迎え、我が国は民主主義を謳歌しています。
 昭和戦前期の不幸な歴史を、何でも軍の横暴に矮小化、単純化するのが歴史学の悪い傾向です。また陸軍相手では被害者になる内務省(警察)も、国民相手になると悪役にしてしまうのです。この傾向ははそのまま教科書に反映され、歪んだ歴史像を子供たちに提示しています。
 ゴーストップ事件に先立つ松島争闘の存在は、軍部と内務省の反感が根深いものであることを示すと共に、ご都合主義の歴史家の、皮相な歴史解釈に疑問を投げかけてもいるのだと思います。

連載第6回/平成10 年5月23 日掲載

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