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鉄道の歴史(戦前編)③  東海道か、中山道か

 明治 5(1872)年に東京-横浜間に最初の鉄道が開設された後、政府は、明治7年に大阪-神戸間、明治9年には大阪-京都間、明治11 年には京都-大津間に官営鉄道を建設してゆきました。なかでも、京都-大津間の鉄道は、難工事の逢坂山トンネルも含めて、全て工部省鉄道局で養成された日本人エンジニアの手によって建設が進められました。
 これらの鉄道路線は、現在のJR東海道線の一部を形成しているのですが、最初からその計画で建設されたものではありませんでした。
 もちろん、新首都・東京と、千年の古都・京都、商都・大阪を結ぶ鉄道建設計画そのものは、明治2年には既にありましたが、そのルートとして、東海道をとるか、中山道をとるかは未決定でした。
 明治3年に東海道の調査が行われましたが、その結果、東京-関西を結ぶ鉄道は中山道が適当だという結論が出ていました。東海道には船便もあり、街道輸送が充実しているので、仮に鉄道を建設しても利用頻度が少ない。中山道に建設すれば開発を伴うこととなり、経済効果が大である、という理由でした。
 翌年政府は、中山道の調査を始めると共に、御雇外国人リチャード・ボイルにも独自の調査を命じました。その結果、やはり中山道に軍配が上がりました。政府は、最終的な結論を出すことを棚上げにしていましたが、明治16 年に長浜-関ヶ原の鉄道が開通すると、工部省鉄道局長官井上勝は、関ヶ原から名古屋を経由して中山道につなぐ鉄道建設を具申し、工部卿代理山県有朋を通じて太政大臣三条実実に上申されました。その結果、関ヶ原-大垣間の鉄道建設が決定され、早速着工されました。
 東京側では、既に測量が済んでいたものの、建設が凍結されていた東京-高崎間の鉄道が、日本鉄道株式会社(我が国初の民間鉄道会社)によって着工されており、これに接続するかたちで、政府は高崎-大垣間の鉄道建設を内定しました。明治16年のことです。
 しかしその3年後、中山道を測量していた技師から、次のような報告がもたらされました。
 「中部山岳地域は難工事が予想され、列車の運行上の問題も多い。工期、工費も、また完成後における列車の所要時間も、東海道に鉄道建設をした場合の比ではない」。
 この報告を重く受け止めた政府は、明治19年7月に、東京と関西を結ぶ鉄道を東海道経由に変更することを決定しました。新橋-横浜間の最初の鉄道は、この決定に基づいて東海道線の一部となったわけです。
 決定後、直ちに始められた東海道線の建設工事は着々と進行し、大日本帝国憲法が発布された明治22年に、新橋-神戸間が全通しました。所要時間は、現在の新幹線「のぞみ」のおよそ8倍の約20時間を要しました。幻に終わった「中山道線」は、その後新宿-名古屋を結ぶ中央本線として整備されました。
 現在、建設が進められているリニアモーターカーによる「新・新幹線」は、東京-甲府-名古屋-奈良-大阪を結ぶ、新中山道線ともいうべきルートです。近い将来、こちらが東京-関西間のメインルートに昇格するのかも知れません。

連載第85 回/平成12 年1月5日掲載

【追記】
 川勝平太静岡県知事による、嫌がらせのようなリニア中央新幹線建設の中断には憤りを感じます。日ごろから中韓べったりの川勝知事は、日本よりも先に中国にリニア新幹線を建設してほしいかのように思えます。日本の鉄道技術は、外貨獲得のためにも、また中短距離の航空路線にとって代わるクリーンな移動手段としても重要です。国益を顧みず、意味不明の反対(県が提起する件について、静岡市は問題視していない模様です)を行う川勝知事には猛省を促すとともに、静岡県民には来るべき選挙で、賢明な判断をしてもらいたいものだと思います。

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