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「終着駅のない平等社会」の巻

 SNSではとっくに話題になっているのだが、アメリカの行き過ぎた民主主義を反面教師に、ということで、滑稽な平等論についてご紹介しよう。
 男女平等とは男女には明確な違いがあり、それを前提に互いの権利が守られ、能力が同じ場合には、性別を理由に差別をしてはならない、ということのはずだ。
 しかし、男と女を完全に同じだと考えよ、というのが、昨今の風潮になっているようだ。生物学的にも、心理学的にも、それはおかしいと夫々の専門家は否定するが、その傾向は暴走を続けている。
 2013年6月19日付『産經新聞』によると、アメリカ国防総省は女性兵士の戦闘参加を拡大させる決定をした。
 「男性を前提にしていた身体能力などの選抜基準を見直し、2016年にかけて順次、男女共通の基準を導入、訓練課程に女性を受け入れる。米軍兵士の約15%を占める女性に対し、男性と平等な機会を与えるのが狙い」。
 これは言わば、戦場の「ゆとり教育」だ。
 「平等な機会を与える」というのは、聞こえは良い。しかし基準を下げれば、男女を問わず、採用された兵士が戦死する確率は高くなる。これは男と同じように、女に死ぬ機会を与えているに過ぎず、女性が騙されているとしか思えない。こんなものが男女平等であってたまるか。
 米軍に男女平等はないのか。答は否である。
 筆者が国防総省外国語学校で教えた女性将兵が日本語を学ぶ前の専門は、パイロット、航空整備士、ミサイルサイロの司令官、特別捜査官など多種多様であった。私が知る最年少の女性大尉は28歳だった。陸士出身の男性エリートと同じペースの昇進だ。卒業生には大佐に昇進して大使館で武官として勤務する女性もいるし、筆者が採用された時の基地司令官は女性の陸軍大佐だった。充分ではないのかも知れないが、決して能力のある女性が差別されている訳ではないと思う。それなのに、敢えて死に近い場所に女性を放り出す、しかも、採用基準を下げてまでそこに送ることが、男女平等という言葉で誤摩化されていることに、女性自身が怒りの声を上げないのが不思議だ。
 軍人だけではなく消防士もそうらしい。
 カリフォルニア州の小都市で、民間の消防会社に勤務しているNaomi(ちなみに「ナオミ」ではない。聖書由来の名前だ。テロ集団BLMに洗脳されているとおぼしき大坂なおみも、英語では「ネオミ」と呼ばれている)。
消防を民間会社に任せる市があるのもアメリカらしいが、この会社に当局が、「女性や高齢者の消防士がいないのはけしからん」といちゃもんをつけてきたという。
 ニュースなどで、「アファーマディブ・アクション」(affirmative action)という言葉はお聞きになったことがあるだろう。筆者はこれを「積極的な差別是正策」と訳しているのだが、具体的にはこういうことだ。例えば、大学では入学定員に、女性枠、黒人枠、アジア人枠、障害者枠などを設けねば補助金をもらえない。それでやむを得ずそうするが、能力に見合わない学生がやって来るし、そういった枠のない白人男性は、能力があっても入学の機会を逸することがある。つまり能力主義を半ば否定する逆差別なのだ。
 実は日本の公立高校でも、既に同じようなことが行われているのをご存知だろうか。昨今は一部の学校の定員には、外国人枠、障害者枠があり、中卒レベルの日本語ができなくても(!)、学力が不十分でも、その枠を使って高校に入学し、普通のテストに合格した生徒と机を並べられる。枠に定員割れがあれば、入試が0点でも入学できるし、定期テストも評価も別だという。しかし卒業証書は同じ。果たしてそれが平等なのか。
 機会均等は重要だ。性、年齢、障害の有無で差別してはならないのは当然だが、あくまでも能力に基づくはずだ。義務教育でない学校や身体が資本の職場であれば尚更だ。
 さて、レスキュー隊員姿の写真は、私の補習校時代の教え子のマーちゃん。マーガレットだからマーちゃん。見た目は白人だが、日本語は本当にぺらぺらだ。水泳が大好きで、公立短大を卒業後、水泳のコーチとライフセーバーをしていたマーちゃんは、これを書いている当時、消防士になるための訓練を受け、男性の訓練生と混じって、しのぎを削っていた。水泳が大好きで、公立短大を卒業後、水泳のコーチとライフセーバーをしていたマーちゃん。試験に合格したら、勿論採用されねばならないが、彼女のためにハードルを下げるようなことがあってはならない。それが本当の平等だ。
 ネオミによれば、彼女の会社に対する当局のお達しは、「一定数の女性や高齢者を(能力を無視して)消防士に雇用せよ」という内容だという。
 そうすることで、被害を被るのは、その女性消防士や高齢者消防士だろう。現場で怪我をしたり、殉職したりする確率が高くなるのは火を見るより明らかだ。
 もしそうなれば、火事になった時には、ひ弱な女性や老人ではなく、倔強な青年消防士を送ってほしいと、電話で予めリクエストする制度が欲しい。しかし当然、それは差別だと言われるに違いない。
 適材適所を考慮しない平等思想は、現代社会を破壊した共産主義の残滓である。結局のところ、現代民主主義社会を破壊しつつあるのは共産主義の変異ウイルスか、平等という怪しげな言葉のトリックなのだ。
 民主主義が危機に瀕しているのは明らかだ。
 ウイルス拡散を防止するためのワクチンを準備したり、悪魔の囁きを拒否したりすることを恐れず、民主主義を守ることこそが、本当の平等を勝ち取ることではないか。

『歴史と教育』2013年11月号掲載の「日本とアメリカの真ン中で~布哇大島(Big Island)マハロ日記」に加筆修正した。

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