自己肯定感が低い故に常に起こり続ける謎のひとりフルマラソン
素敵な絵お借りしました。こういうの描けるセンスってどこに売っているんでしょう。人様が創ったものに触れると、人様の心象に触れた気になって落ち着きますね。
さて、
自己肯定感が低いと自覚している方による経験談や、自己肯定感を上げるための習慣、ライフハックなど最近よく見かけるようになりました。
ぼく以外にも自己肯定感が低くてなんかよくわからんけど人生がうまく回らない気がして苦しい人がいることに、驚き半分安堵半分という感じです。
安堵、というのが良いのか悪いのかわからないのですが(と、このように良い悪いですぐ分けようとしてしまうのも悪い癖なんですが)、自分が努力していないせいでこうなったのではないと思える要素としては良いのかもしれません。
ぼくは自己肯定感が低く自分のことが信用できない人間なので、なんとかして自分以外のものになろうとするところが昔からありまして。
自分そのものでは駄目だという確信だけが強くある(何故そこは自分の感覚を信用できるのか)ので、自分に出来る以上のことが出来てしまう(出来る、ではなく出来てしまう、というのがクソ厄介なポイントです)ように振舞ってしまう。
なんでもないような顔して、自分の本来の能力以上のことが出来てしまう自分に、ぼくはずっとなりたかった。
いやいやこんなの普通ですよ皆出来てることですから(ドヤ)みたいなことを言える人間になりたかった。
なので一生懸命無理をして、やりたくもないことをやってやれもしないことも無理やりやって。
上手く行けばほっとして、失敗すれば死ぬほど凹んで。
そんなことを繰り返してきたように思います。
けれど先日、
体調悪い中なんとか用意したおかずを、義妹ちゃんに「ほーがちゃんはお料理上手やんなぁ」と褒められたんですが。
ぼくはドヤるどころか、
「違うねん、これネットで見かけて簡単にできるから真似しただけやねん」
と謎の逆弁明をしていたのです。
言ってから気付いたんですが。
褒められるため認めてもらうため、他者からの承認を自己肯定に充てるつもりで必死こいて自分以外のものになろうとしてるくせに、
いざそれを褒められると「それは自分ではない」と否定するんですこいつは(他人事のように)。
気付くのが今になっただけで、多分今までもずっと、欲しくてしょうがなかった他者からの承認を受け取らずに来たんでしょうね……
そら、自己肯定感上がるわけもないわ……
どうして「なりたい自分」になろうと頑張ってるのにこんなにしんどいのか、
どうして褒めてもらいたくて必死こいてるのに褒められても上手く喜べないのか、
なんとなく分かったような気がしました。
「なりたい自分」として思い浮かべていたものは別に自分がなりたい姿ではなかったし、
それを褒めてもらったとて自分じゃないものへの賛辞を普通は喜ばないという。
oh......なんという、あたりまえ体操。
そして残るは無理の連続で無意味に疲弊した、すっからかんでペラッペラの自分であったと。無意味不毛の終わりなきフルマラソンを、ぼくはずっと給水もせず走ってきたのだと。
そら、病むわ。水くらい飲め。
という、
自分と向き合うとか、自分を見つめ直すとか、ほんとはもっと人生の早い段階で済ませておかなきゃいけなかったかもしれないことを、
なんとも笑えぬ年齢になってから、今更ながら、やりだしたのだなぁと思いました。
これも多分、前回書いた「骨に肉をつける」の一端なのでしょうね。
自分と向き合うだとか、自分を見つめ直すだとかいう行為は、痛みを伴うならやんなくていいじゃん蓋してあるなら出さなくていいじゃんと思っていたのですが、
蓋をして誤魔化していられる期間は限られていて、なかったもののように忘れてしまっていても、蓋から臭気が漏れだすようにあちこちで自分の歯車が上手く回らなくなるのだなぁと思うようになりました。
抽象的な物言いでアレなんですが(どれだよ)、
思いついたまま打ってるのでもうしわけねぇです。
さて、このすっからかんでペラッペラの自分に、これから何をしてあげようか。
すっからかんでペラッペラであることを「悪いこと」だとまずは思わずに。
上手くやろうとか、
そういうのも抜きに。
まずはこういう、一体何が言いたいのかよくわからんアウトプットから順番に。
やっていこうと思いました。
あと褒められたら普通に喜べるようになろう。
息してるだけで褒められたいし、毎日起きたらログインボーナスがほしい。
でも朝起きられるように先月くらいからやっとなったんでほーがちゃんえらい。
生きててえらいぞ。