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「Why型思考トレーニング」を読了した

今週はWhy型思考トレーニングを読み終えた。
なぜ?系の本は先月からかなり読了した。

自分が読んだのは、2024年3月に増補改訂版された新書を読んだ。
Why型思考は、Whyから始めよも読んだので最近はWhy型思考の本をたくさん読んでるような気がする。
他のビジネス書でもWhyの思考は重要視されており、その上でのトレーニングは必要だと改めて感じた。

増補改訂版のWhy型思考トレーニング

増補改訂版では、昨今の生成AI時代におけるWhy型の考え方が「はじめに」追加されていた。

2020年代は、「ネット検索」の時代から「AI」へと変わってきた時代なのかなと個人的に思ってる。
「なんでも調べられる」時代から、調べること思考することすらも停止していく時代になっていくのかな感じた。
そこで二極化されていくと書かれていた。

「考えなくてもなんとかなる」世界というのは、裏を返せば「考えている人と考えていない人のさを広げて残酷な二極化を生み出す」世界とも言えます。

Why型思考トレーニング

そのとおりであり、考え続けること自体は今も昔も変わらないのだろうと思ってる。
それは、人間関係の会話や駆け引きといった場面ではAIはまだまだ使える場面が限定されている。

考えて、それの解像度を高めて物事のなぜを理解していくことがもっと必要になっていくのだろうと自分は感じている。

仕事においての目線でいくとWhat型で仕事をしている人が多いような気がする。それは自分も含めてだけど。

Whyを息を吸うくらいの感覚でやっていくには、やはりトレーニングは必要だ。継続はして考えて言葉を選んで深ぼっていく必要がある。

部下や上司の立場はそれぞれあるけども、相手がなぜそれを話したのかを深堀りすることが大切だと思った。


Whatは目に見え、Whyは目に見ないものであり、明確に形にもなっていないものである

Whatは具体的になにをするのか。という部分になっていくため目に見える。
やることになっていくるので目に見えるというよりゴールへの流れがわかる事柄。

人からこれをやってほしいと言われた工程・作業(なにを)に対して、なぜそれを行う背景・理由というものを理解する必要がある。

背景や理由を理解しなければ、本当にその作業は必要かどうかさえも分からなくなってしまう。

背景や理由を聞き出すことで、次に何をするべきかを明確にアドバイスや実行に移すことができる。

  • Whathは操り人形・Whyは人形師

この関係は腹話術のような気がした。

WhyとWhatは1対1ではない

Whyは1だがWhatは複数のルートが存在することから、WhyとWhatは1対Nの関係になってる。

WhyがあるからWhatが存在し、Whyと密接な関係である。

そのため、見えてる部分のWhatはコロコロ変わることがある。
しかし、根幹となるWhyは変わるものではない。

Whyが変わるとWhat自体も大きく変わるからだろう。


Whyの一貫性

Whyの一貫性は、軸がブレない人。Whatの一貫性は単なる頑固者。

やり方をこれじゃないと駄目という感覚のことだと思う。自分も思う所がある。
やはり人間は、こだわりたい部分のWhatを一貫するとただの頑固者だ。
手法は可変だと思う。最終的なゴール(Why)が変わらなければ、やり方にこだわる必要性もない。


企画からみるWhy型とWhat型

「今売れているもの」から発想するのがWhat型の企画。
「今ないが売れそうなものはないか」と発想するのがWhy型の企画

流行ってるからやるという感じで進めるのではなく、ニーズを理解した上で考え今ないものを作りだすのがWhy型の考え方。
流行ってるからやりましょうで本質を決めないままに進んでしまうような気がする。
仕事においても、よくあることだ。予算があるからとか。流行ってるからやりたいとか。
本来必要とされるものではないのにやることが決まってることはたくさんある。

なぜやるのか?それがないのはどうなんだろうとは常に思うこと。

流行りを作り出すのが目的ではないが、流行りをつくれるくらいニーズにあった企画を作りたいと思った。

「そのままくん」の原点はWhat型教育にあり

そのままくんが生まれるのは、知識詰め込み型教育が作り上げたものである。
たしかに学校の教育は知識を埋め込むような形のような感じがしてた。
教えるほうは、ひたすら話すという教育のやり方が定着している。
最近の教育はどうかわからないけど、自分が学生時代は知識埋込み型教育だった。
とにかく聞いてるだけがあって、テストで考える場面と対峙する。
そうではなくて、授業の場面から考える場面を作ることが教育のあり方なんじゃないかなと感じた。

人材育成でも同じようなことが言える。
教えると登壇するとでは、そもそもが違う。
登壇はただ自分が思ってることを話すだけ。聞き手のアクションはない。どちらかというと登壇を聞くの知識埋込み型教育のような感じがしてた。
ただ登壇している内容を、ただ聞いてるのではなく自分の考えをSNSでハッシュ付きで発言したりして、考えていることをアウトプットすることはWhyにちかいかもしれない。

相手の思考回路を刺激して「考えさせる」ということが、登壇・教育する側は必要だと思う。
これができることで、相手も前のめりに考え自分の答えや行動をかえていけるような気がする。

What型教育が、なぜ知識詰め込み型なのか。
それは、立場が上という形になっているからだろう。先生とついたら自分より目上の人という印象がある。要するに上から目線という感じ。

Why型教育は、思考を刺激することから相手と同じ目線で会話や促すため上から目線という印象はない。
考えさせる・いっしょに考えることがチームにおいても一緒に考えることを念頭においておきたい。

指導するから若手よりも偉いとかない。
とにかく一緒に考え、どう感じたかどう答えを考えさせる環境を用意することが指導者や先輩の役割だろうと思ってる。

まとめ

Whyから始めよからWhy型思考へ読み進めてるが、教育という目線の章は自分にとってよかった。
子供に勉強を教える立場だから、これを意識したい。
答え言ってよーっていってくる息子の考える思考をもう少し養いたいと思う父である。

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