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20231007学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第21章-1 日露戦争は革命のきっかけになる

20231007

『三つのインタナショナルの歴史』


【第21章 1905年のロシア革命】


《日露戦争(1904-05年)は、中国の北部地方(満州)を分割、占領しようとして対立していた二大強国のあいだの帝国主義的衝突であった。1904年2月8日、日本は、真珠湾の方式をすでにおもわせるようなやりかたで、宣戦を布告することなく最初に攻撃をかけ、旅順にいたロシアの艦隊に足腰たたぬまでの損害をあたえた。これは、ツァーリ・ニコライ二世の軍隊にとって、海陸でうけた一連の災難の最初のものであった。無力で腐敗しきって尊大なロシアの高級司令部は、打撃につぐ打撃をこうむった。

旅順は1904年の12月に陥落した。1905年2月(太陽暦の3月)には、奉天(いまの瀋陽)で破滅的な敗北をこうむり、30万のロシア軍のうち、12万があるいは戦死傷し、あるいは行方不明になった。1905年5月には、ロシア艦隊が対馬(日本海)海戦で一掃されてしまった。こうして1905年8月23日(太陽暦の9月5日)、セオドア・ローズヴェルト大統領が議長となって、ニュー・ハンプシャー州ポーツマスで講和条約が調印され、ロシアは旅順、南樺太、朝鮮の勢力範囲、南満州の全部をうばわれた。これはロシア帝国主義にとって悲惨な敗北であった。》


[高まる革命の波]


ロシアの労働者は、この帝国主義戦争になんの興味も寄せていなかった。戦争が引き起こす残忍な虐殺、飢え、そして装備もろくにない兵隊を送り出している無慈悲なツァーリ政府と軍将校に対して、革命の雰囲気が大きくなっていた。戦争の痛ましい悲劇は、抑圧されている労働者の苦しみを一層募らせた。1905年の大革命は、こうした中で起きたのだ。


革命に至る運動は、ストライキから始まった。1904年2月、ボリシェヴィキの指導する石油労働者の大ストライキがバクーで発展し、労働者側が勝利した。スターリンは「バクーのストライキは、ロシア全土にわたる1月から2月の栄ある進展のあいずとなった」と言った。


ペテルブルグでは、ロシア労動史で最も悲劇的な事件の一つである「血の日曜日」といわれる虐殺行為が行われた。これは、1905年1月9日、ペテルブルグの冬宮で繰り広げられた。秘密警察と関係のある僧ガポン導く14万人のデモは、平和的なものになるはずだった。大衆は「大赦、市民の自由、正常な賃金、土地を漸次人民に譲渡すること、普通・平等選挙権にもとづく憲法定義会の召集」を要求した。しかし、ツァーリの将校たちは軍隊に発砲するだろうというボリシェヴィキの警告通り、ツァーリは非武装の大衆に銃を向けた。冬宮広場は恐ろしい屠殺場と化し、千人以上が殺され、約2千人が負傷した。

暴力で労働者を脅すツァーリの行為に労働者の怒りは爆発し、革命運動はさらに燃え上がった。1月中に44万人の労働者がストライキに参加した。これは、それまでの10年間に起きたストライキを大きく上回るものであった。


日本との戦争が続く間でも、ストライキは全ての工業中心地に広がった。レーニンによれば、このころストライキに参加した労働者の延べ人数は約280万人(労働者総数の2倍)に上ったという。

ポーランドのロッジでは労働者が市街にバリケードを作り軍隊と戦い、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク(重要な繊維工業の中心地)では長期にわたる激しいストライキにより、全県代表者ソヴィエトを創設した。これは、ロシアにおける事実上の最初の労働者代表ソヴィエトであった。


革命運動は農民の間にも広がった。1905年の秋には、農民は約2千の地主屋敷を焼き払った。そして貴族どもから食糧を奪い返し、農民の間で分配した。

また、学生はツァーリの肖像やロシア語の教科書を引き裂いた。ポーランドの生徒たちはソヴィエトを要求した。6月には黒海で戦艦ポチョムキンの反乱が起きた。


革命が発展していくことに驚いたツァーリは、8月19日、ロシア国民に帝国国会(ドゥーマ)を認めることとした。しかしそれは、高揚する革命の潮流を逸らす「譲歩」でしかなかった。


[二つの戦術——ボリシェヴィキとメンシェヴィキ]


大きな大衆的高揚の中で、数百人の党員しかいなかったロシア社会民主労働党は、突然数千人の党員数に成長した。その社会民主労働党の内部は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂していた。1904年9月のロンドン党大会で、ボリシェヴィキは分裂を統一させようとメンシェヴィキを引き入れようとしたが、メンシェヴィキはこれを拒否した。そしてメンシェヴィキはジュネーブで自分たちの大会を開き、二つの対立する政治路線はこれで確立したのだ。


ロシアでの闘争を、メンシェヴィキは単に「古い型のブルジョア革命」と見ていた。ブルジョアジーが闘争を指導し、労働者階級の役割は、ブルジョアジーがツァーリ専制を打倒するのを助けることだと言った。労働者階級が革命的な行動を取ればブルジョアジーを封建的な反動側に追いやることになるから、労働者階級は革命運動をしてらならないとした。この見解はトロツキーの見解であった。


ボリシェヴィキはメンシェヴィキの見解に大反対だった。プレハノフは、「我が国では、反政府的な、もしくは革命的な連合がよりどころとすることのできるような社会的勢力は、ブルジョアジーとプロレタリアートの他には見当たらない」と言った。レーニンはロンドン大会の後に書いた『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』でメンシェヴィキの立場を攻撃した。ブルジョアジーは革命をしっかりと指導していることはできないし、またそうするつもりもないこと、労働者階級をおそれる彼らは、ツァーリズムと妥協するようになるだろう、ということを明らかにした。また、農民をプロレタリアートの指導のもとに前進する革命の同盟者とみなした。


革命に対するボリシェヴィキとメンシェヴィキの見通しは全く違うものであった。

メンシェヴィキは、まず古典的な型のブルジョア政府が確立され、そのあとに社会主義に先立つ数十年の不確定な時期があり、やがて社会主義になってゆく、というものであった。

これに対してボリシェヴィキ、特にレーニンの見通しは、プロレタリアートと農民の民主主義的独裁をただちに確立するというものであった。資本主義の枠組みにあっても、社会主義体制への移行は比較的急速に進むであろうとみていた。「われわれは民主主義革命からただちに社会主義革命に移行しはじめる、しかもまさにわれわれの力におうじて自覚した組織されたプロレタリアートの力におうじて、移行しはじめるだろう。われわれは永続革命を支持する。われわれは途中でたちどまりはしないであろう。」


革命は武力闘争を通じて勝利するのである。このレーニンの一般的な革命方針は、基本的にはマルクスがはるか昔に打ち立てた原則に基づいている。第2インタナショナルの一般的な理論と政策とは相反するものであり、革命の大道であった。この道はやがて1917年11月の勝利へと向かうのである。

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