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餞(はなむけ)の一輪~『死神さんとアヒルさん』

『死神さんとアヒルさん』
作・絵:ヴォルフ・エァルブルッフ
訳:三浦美紀子

幼いころから「死」に興味が引かれていた。幼稚園での同級生の死を皮切りに、日常に突然ぽっかりと穴を空けてしまうその出来事が不思議で悲しくてたまらなかった。たまらないからこそ何度もいつまでもその「虚」を見つめて目をはなせずにいるのだと思う。その人がいたはずの空間が窪みがなって見える。いつかその「虚」が周りに馴染んで消えてしまうのを惜しんでいる。

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この本の原題は『Ente, Tod und Tulpe』。日本語だと『アヒルと死とチューリップ』だ。邦題からは消えてしまっているが実は<三位一体>だ。

アヒルは生きているもの、やがて死ぬもの、そして死から目を逸らしたいものの象徴。そのアヒルは物語の中で死神のことを「自分を死に誘う不吉なもの」から「必要以上におびえることなく共存できるもの」へと認識を変えていく。
一方、その死神は出会ったときからひっそりとアヒルに気づかれぬように一輪のチューリップを携えている。
「そのとき」が来たらそっとアヒルに添えてやるための花だ。

このコラージュ巧手のドイツ人作家ヴォルフ・エァルブルッフの死生観は「生」の反対側に「死」を置くような対概念ではない。むしろ死神はアヒルとチューリップの間をつなぐものとして描かれている。
それぞれが独立した<三位一体>であると同時に順番を持つ<三間連結>なのだ。
だとすると対概念ではない「死」とは、そして「死神」とは何なのだろう。

死神の仕事は、アヒルが生まれてからずっと気づかれぬようにそっと「生」の世界の中をついて歩き、「そのとき」のゲートをくぐったものには一輪の花を添えて見送ることだ。とても静かで孤独な務めだ。
これはきっと「伴走者」なのだ。死というゲートをくぐる瞬間を見守る伴走者だ。

死神がアヒルの恐れているような地獄の案内人ではないことは、死神がアヒルの体に一輪の花を添えて川へ流す様子からうかがえる。
死の世界には伴走しないのだ。

一方、アヒルは死神を置いて次の世界へ姿を消していく。
残された死神のことなど思い出すこともない。
あの一輪はアヒルへ対する餞であると同時に、置いて行かれた死神の声なのかもしれない。

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私は今もいくつかの「虚」を思い出しては見つめている。その窪みに見えるのはかつてそこにいたあの人と、その人に伴走し続けた死神の気配なのかもしれない。

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