お遍路ー総括①
お遍路から帰ってきて久しぶりに実家に帰ってきた。
やっぱり実家はいいという、在り来たりな感情は私の心に浮かび上がってこなかった。確かに実家にいれば上げ膳据え膳で、風呂も沸かしてくれ、居心地はいいのだが、何かが足りない。心にぽっかりと穴が空いた訳でもない。ただひたすらにやる気が起きない。何に対するやる気かと聞かれても、明確に答えることはできない。まるで、私の生命それ自身に対するやる気がなくなったかのようだ。
今日は晴れ渡った小春日和の素晴らしい日であった。その青空を見ていると、すべてが満たされた感情になり、同時にすべてがどうでもいい、取り留めのないものに思える。
一年前の私は立身出世を夢見て、肉体的な情欲に突き動かされ、若い生命の溢れ出る活気に満ち溢れていた。しかし、今の私は流れる雲のようなものだ。風の吹くまま、気の向くまま悠々自適な、資本主義の消費文化とは対極にいる、自然主義的な生物になった気がする。
これが仏教でいいう悟りの入り口のようなものなのだろうか。
ただ、別に悟りに至りたいという欲望すらない。
野に咲く花と共に生きたい。野に咲く花に囲まれて生きたいのではなく、共に生きたいのだ。
この穏やかな気持ちは長続きしないだろう。そのような人間をこの社会は許してくれない。ゲーテのウェルテルにあったように、差別的な表現になるかもしれないが、知的障碍者の方が幸せに思え、彼らしかこの社会では、そのように生きられないのかもしれない。
だから彼らが羨ましい、彼らはズルいとも思わない。
彼らの存在は我々が簡単に干渉できないほど高貴だと感じる。
まぁ生き馬の目を抜くようなこの世の中では、私もその毒気に侵されていくしかないのだろう。その毒で衰弱しきったら、またお遍路にでも行こう。
社会に出て、社会の洗礼を浴びるというが、そのHoly Waterには毒が入れられているのだ。