お遍路ー総括②
お遍路では様々な格好で巡礼している人を見かけた。大抵の人は白衣に輪袈裟を着ていた。歩き遍路の人は、そこに管笠と金剛杖を持っていた人が多いように感じた。かくいう私は何もお遍路道具のようなものは買わなかった。
遍路道具は昔、車などが発明される前、徒歩でしか巡る方法がなかった時代の名残である。お遍路が、いつ野垂れ死かも分からない死地への旅路であった時代である。故も知らない四国で死んだ場合に備えて、白衣は死に装束、金剛杖は墓標としての役割を持っていた。
今の時代に歩きでお遍路を巡る人なら分かるが、車で巡る人にその危険性はほとんどない。
先人たちの死をも厭わない覚悟は消え去り、ただ単に表面的な格好だけが残っている。
私が疑問を抱いたのは、バスツアーで巡る人々に対してである。
バスから降りて白衣と輪袈裟を身に着ける光景を見たときに、彼らの浅ましさを感じた。
まるで私はお遍路を巡る、仏教への帰依心のある徳の高い人だと周囲にアピールするかのように集団で着替えるのを見て、吐き気を催した。
金剛杖まで持っている人もいた。
そして参拝が済むとそそくさと、それらを脱ぎ捨てて、そそくさとバスに乗り込んでいく。
ツアー会社のバスに乗り、添乗員に案内されてお遍路を気軽に巡る彼らに死への恐怖心などはない。
まだ、自分でハンドルを握り、細い山道を行く人なら分かる。運転を誤って、崖下に転落したらどうしようという恐怖もわずかながら存在する。
気軽な観光気分で表面的な格好だけを取り繕う彼らは、先人たちの覚悟を侮蔑しているように思えた。
ニーチェのニヒリズムしかり、お遍路しかり、死への対面なく生への欲望は生まれえない。
逆打ちは徳が三倍や、うるう年に巡礼すればご利益が倍増するなどの謳い文句に誘われる人は、何を求めて巡っているのか。
自己との対面、対話を怠けて、他者に自身の評価を委ねて何か得るものがあるのだろうか。他者に自身の評価を任せる者は、結局他者との比較でしか自身の価値を測れない。
しかし、上には上がいる。彼らが真の満足に至る日は永遠に来ない。
自身を見つめることでしか知足には至れない。