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「半自伝的エッセイ(48)」将棋における背後霊的カンニング

プロ棋士のTさんはタイトル挑戦に失敗してからもチェス喫茶「R」に時折顔を出した。チェスを指すこともあれば、将棋を教えてくれることもあった。常連と顔見知りになってからは将棋界の裏話的なことを話してくれるようになり、それはそれは面白い話題ばかりだった。存命の人もまだいるのでここでは書けないことが多いのだが、これは書いてもいいだろう。

タイトル戦や棋戦の準決勝・決勝でもなければ東京か大阪の将棋会館で一斉に対局が組まれるのが常である。
「それでね、席を立って他人の対局を見にいくのが好きな棋士がいるんだよ」とTさんは話を切り出した。
「それってカンニングしてるってことですか?」その日来ていた山根さんが尋ねた。
「まあ、そういえばそうなんだけどね、将棋指しは誰だって十数手先は読んでるわけで、よほど自分より進んでいる対局じゃないと参考にはならないんだよね」
「じゃあ、どうして人の対局を見にいくんですか?」
「次に当たる相手だったり、勝ち上がったら当たることになる相手の背後に回って、『なるほど』とか『そんな手があったか』みたいなことを呟くわけ」
「褒めてるんですか?」
「いや、ろくに局面も見てないでしょ」
「それで感想が言えるんですか?」
「どんなことでも後ろで呟かれたりすると嫌な気になるんだよね。特に次に当たる相手に言われるとこの手は次に使えないなとか考えちゃうわけ」
「へえ。そうなんですね」
「それが奴の狙いでさ、そうやって集中力を削って今やってる対局も負けさせようという算段でね、それで調子を崩して自分に当たるといいわけよ」
「ずるいですね」
「ずるいと言えばずるいのかもしれないけど、そんなことで調子を駄目にしたらプロだとは言えないという風潮もあって、まあどっちもどっちかな」

チェス喫茶「R」では三分、五分、十分切れ負けのルールで指すことが多かったので、途中で席を立ってわざわざ他人の対局を見にいくという人はまずいなかった。しかし、私を含め自分が指していない時には他人の対局を横で見ていることはよくあった。もちろん呟いたりはしない。呟いたりはしないが、人の対局というのは自分では指さないような手を見ることができて、とても参考になった。そのことをTさんに尋ねてみた。
「奴は『背後霊』なんて呼ばれてるんだけど盤外戦術だけじゃあれだけは勝てないわな。だからあいつは人の対局からものすごく吸収してるんだと俺は睨んでる」
当時は現在のように対局がインターネットで中継されるようなことはなく、棋譜がすぐにネット上にアップされることもなく、もし人の対局を知りたければ棋譜をコピーしなければいけなかった。
「だけどね、あいつが棋譜をコピーしてるのなんて見たことあるやつ誰もいないのよ」
「記憶してるってことですか?」山根さんが尋ねた。
「たぶん、そうなんだろうね。奨励会員に頼んでコピーさせる棋士もいるけど、あいつに限ってはそんな話も聞かないからね」
「そうだとすると、その棋士の人は他の人とよく似た指し方なんですか?」
「あえて言えば、誰にも似てなくて、誰とも似てるかな」
「どういうことですか?」
「特徴がないんだよ。棋風がないって言い方でもいいかもしれない。癖がない相手って指しにくいんだよね」
「どうしてですか?」
「とっかかりみたいなものが見つからないんだよね。うまく言えないんだけどさ」

「すみません、その背後霊さんですが、もしかしたらYさんではないですか?」と、門倉さんが尋ねた。Tさんは驚いたように門倉さんを見返した。
「いや、うちの会社、ほら、代々木にあるでしょ。近くの喫茶店にたまに油を売りに行くんですけどね、そこにYさんが来ていることがあって、いつも熱心に小さなノートになにか書いていて、ある時ふと覗いたら、将棋の符号だったんですよ」
TさんとYさんは同年代で子供の頃からライバルと言っていい関係にあった。
「あいつ、そんなに研究してるのか」とTさんがポツリと言った。
Tさんのこれまでの話では、棋士は例外はあるものの結婚して子供ができるとどうしても将棋の研究が後回しになり、現状維持が精一杯になりがちになるという。おそらくだが、Yさんは人の対局を見て覚えておきたい内容のものは家に帰る前に喫茶店でメモを残し、自宅にはなるべく将棋を持ち込まないようにしていたのかもしれない。
「私も負けないようにしないとな」とTさんが言った。

それから何年か後、二人がなにかの棋戦の準決勝に勝ち上がり、別々の相手と当たることになった。後日、たぶん『週刊将棋』だったのではないかと記憶しているが、対局の棋譜が載っていた。その棋譜がチェス喫茶「R」で話題になった。なぜかと言えば、五十数手まで多少の手順の異同はあるものの、二人がまったくと言っていいほど同じ手を指していたからであった。違う相手と将棋を指してここまで同じ手順になることは確率的にも心理的にもそうあるものではない。合法手が将棋に比べて少ないチェスでもそんなことはまず起こらない。
「あの二人はそれぞれ自分で研究して同じような結論に至ったということですか?」と誰かが尋ねた。
「そうとしか考えられないよね」と誰かが答えた。
「この形は見たことがないな」と将棋でアマ五段だかのHさんが棋譜を見ながら言った。
現在のようにAIが発達していれば初手から五十数手先まででも定跡化することは可能だろうし、実際にそのように指されていると思われる対局もある。だが、あの時代にしかもほぼ同時期に同じ手筋を考えた棋士がいたことは奇跡的なことだったのではないだろうか。この二人が決勝で対局するところを見たかったがそれは叶わなかった。

(この回終わり)


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