「半自伝的エッセイ(44)」チェス盤上のアリア
スライスしたニンニクを少し深めの鍋に入れ、そこにやや多めのオリーブオイルを被せる。そして火をつける。油が沸く間に、新鮮な玉ねぎを大きめのみじん切りにする。オリーブオイルにニンニクの香りが移った頃合いに(それはそんなに時間は掛からない)みじん切りにした玉ねぎを鍋に投入する。
玉ねぎの甘みが鍋全体を満たすように炒めたら、缶詰のトマトをドボドボという感じで二缶分入れる。そこにひとつまみの下塩をする。ここからは弱火でゆっくりと煮込む。あくまでもパスタソースの土台なのでバジルなどの香草類は入れない。
時折かき混ぜて20分ほどしたら火から下ろし、グラインダーでなめらかなに仕上げる。そのままパスタに和えただけでも十分に美味しいが、ベーコンや魚介などの具材を合わせることも簡単だし、冷蔵庫で保存しておくと味が馴染んでさらにいい具合になる。
などと専門家ぶってトマトソースの作り方を講釈したが、これは私が学生の頃しばらく手伝ったことがあるイタリアンレストランで賄いの時に教わったり、見て学んだりしたことのひとつである。このトマトソースだけでもいくつものパスタ料理に展開が可能で、他にもフレッシュトマトを使うレシピや、トマトを使わないレシピなどなど、だいぶ教えてもらった。
学生の時に住んでいた風呂なしトイレ共同のボロアパートは、六畳一間であったものの、どういうわけかキッチン部分がちゃんとあって、二穴のガス台が設置されていた。パスタのレシピをいくつか作れるようになると私はパスタばかり作った。なによりも安上がりだった。具材に拘泥しなければ一食おそらく100円台でできたはずである。あまり熱心にアルバイトに励んだりしてはいなかったから、パスタ料理は私にとって天恵にも似ていた。
ある日、たぶん昼食用にだったと思うが、パスタを作って食べようとした時のことである。食べながらチェスの手筋を検討しようと、盤の上に目をやると、駒が勝手に動いたような気がした。チェスにのめり込みすぎて頭の中で考えた手が盤上で再現されるようにでもなったのかと一瞬思ったが、そんなことがあるはずもないので再度盤上を眺めると、そこには駒ならざるものの存在があった。私はそれをじっと見た。トカゲに見えた。しかし、トカゲとはちょっと違った。トカゲでないとしたらこれは誰だ?
アパートの玄関の上にある街灯にはその季節になると決まってヤモリが止まっていた。それと背中の模様がよく似ている。すると、目の前の盤上にいるそれはヤモリに違いない。しかし、大きさは私の小指ぐらいしかなかった。だとすればこれはヤモリの子供だとほぼ断定できた。ボロアパートの部屋は入り口の戸も北側の窓も隙間だらけだったからヤモリの子供ぐらいであれば易々と侵入できるだろう。ということで、私は盤上のヤモリの子供を見ながらパスタを食べ始めた。ヤモリはまったく動かなかった。もしかしたらお腹が空いているのかもしれないと思い、パスタの端をごくごく小さくちぎってそれを人差し指の先に載せ、子ヤモリの目の前に差し出してみた。しばらくなんの動きもなかったが、30秒ほどした瞬間、子ヤモリは首だけを素早く動かし、パスタの端切れをパクッと口に入れた。咀嚼した後に、短い尻尾を左右に勢いよく振った。どうやら美味しかったらしい。また小さくちぎって子ヤモリの目の前に差し出してみた。今度は5秒もしないうちに食らいついてきた。
インスタントコーヒーを作って戻ってきてもまだ小ヤモリはそこにいた。お互い食後だということで、指の先にコーヒーをつけて少々冷ましてから小ヤモリの目の前に差し出してみた。なんの迷いもなく小ヤモリはコーヒーを舐めた。しばらくしてやはり尻尾を左右に振ったところを見るとコーヒーもいけるらしかった。
それから小ヤモリはしばしば盤上に現れた。現れる時は決まって盤上だった。ヤモリというのはてっきり夜行性だと思っていたが、昼間でも活動しているようであった。小ヤモリはみるみるうちに大きくなっていった。初めは小指ほどの大きさだったものが、中指ほどの大きさとなり、その頃になるとパスタの切れ端を指先につけて差し出すと手のひらに載ってくるようになった。これを馴れたというのかどうかわからなかったが、二人の距離が確実に縮まったような気はした。ある時、小ヤモリが私の手のひらの上で目を閉じて眠ってしまったようだった。眠気が私に移ったのか私もうとうとしてしまった。しばらくしてハッと目を開けると小ヤモリはまだ手のひらの上で眠っていた。
こんなに親しくなったのであればと、ある日シャツの胸ポケットに入れてチェス喫茶「R」に連れていった。手のひらに載せてお披露目すると、女性はほとんどが小さな悲鳴を上げて後ずさりした。男性陣は「へえ、ヤモリって馴れるんだ」と興味があるようだった。
「もしかして名前とかつけているの?」と、遠くのほうから女性の一人が私に尋ねた。そういえば名前をつけてはいなかった。
「いや」私は答えた。
たしかにもう名前ぐらいつけてあげてもいいかもしれない。
「なにかいい名前はありますか?」私は周囲を見回しながら聞いた。
「チェス盤に来るんだよね?」
「そうです」
「だったら、チェス盤上のアリアは?」
「えっと、バッハでしたっけ?」
「そう」
「ちょっと長いのでアリアにしてみます」
ということでこのヤモリの名前はアリアに決まった。
名前がアリアに決まってみると、その語感からなんとなくメスだと思えてきた。ただ、尻尾を含めると私の中指よりずっと大きくなり、その頃になるとアリアはあまり盤上に姿を現さなくなった。少々寂しかったがそれがヤモリとしての正しいあり方だろうからあまり気に留めないことにしていた。とはいうものの、一週間も姿が見えないとアパートの玄関の上の街灯にいないだろうかと探しに行ったりもした。ある朝目を覚ますと盤上にアリアがいた。しばらくぶりに戻ってきたかと目を擦ってよく見ると、倒れたルークだったということもあった。アリアが来るたびに作っていたさまざまなパスタもなんとなく作る張り合いがなくなってしまった。結局アリアはそれきり姿を見せることはなかった。無理なのは知っていたが、一度でいいからアリアとチェスを指してみたかった。