「半自伝的エッセイ(36)」数式にチェスを代入する
チェス喫茶「R」にたまに来る人で、大学で数学を教えているという人がいた。皆から先生と呼ばれていた。年齢は五十代だったと思う。珍しい煙草を吸う人で、甘い香りがした。
ある時、先生が店内にあったホワイトボードに何やら数式を書き始めた。たぶん、こんな基礎的な式だったはずである。
(x+3)(x-3)
先生は「誰か展開できる人はいますか? というか、中学校で教わったはずなんですが」と言って店内を見回した。手を挙げる人は誰もいなかった。
「では誰もいないようなので、私が指名します」と先生は言って、富田さんを指差した。富田さんは二十代の看護婦さんだった。突然指名された富田さんはぎょっとしたような表情で、とても困ったというふうに「忘れてしまったと思いますが」と前置きしてから、「xを括弧の外に出して、両方に掛けて、真ん中がなくなるから」と自信なさげに出した答えが、それでも正解だった。
次に先生は、
x^2-xy-2x+2y
のような式を書き、「これを因数分解できる人は?」と尋ねた。また誰も手を挙げることはなかった。「では今度は藤井君に解いてもらいましょうか」と先生は私を指名した。私は当時学生であり、数学からは遠く離れていたとはいえ、まだおおよその記憶ぐらいはあった。とはいえ、口頭ですらすらと言えと言われても無理だったのでホワイトボードの前まで歩み寄り、分解式を書いてみた。
私の解答を見て、先生は「手間が省けました。ありがとう」と言った。
「みなさん、x^2-xy-2x+2yがチェスの現局面だとすると、いま藤井君が書いてくれた分解式は手筋です」
という先生の言葉に、店内に十人ほどいた人は、話が数学から離れてチェスに移ったことでほっとしたと同時に、何やら興味が湧いたようであった。
「因数分解というとなんだか難しそうに感じるかもしれませんが、実はみなさんがチェスでいつもやっていることと同じです。すなわち、こう指したらこうなって次にこうなればこうしてと手を読みますよね、それと頭の使い方は同じです」
店内からは「ああ」というようなため息にも似た声が漏れた。
「私が言いたいのは、今回のような数式であれば、手筋は数行で済みます。答えもすぐに導けます。しかし、もっと長くなると、何日も何日も必要になったり、時には何日かけても解けないこともあります。それが私にとってのチェスなんです」
さらに先生の話は続いた。
「今、分解式はチェスの手筋だなどと偉そうなことを言いましたが、分解式でも展開式でも、途中で記号が変わったりすることはありません。しかしながら、チェスでは自分が考えていた手筋を相手が外すことがあります」
店内の人はここにきて「うん、うん」と頷きながら先生の話を聞いていた。どうやらこのあたりで先生がホワイトボードに数式を書き始めた理由がわかってきた雰囲気が店内に満ちた。チェスには膨大とはいえないがよく知られた手筋が多数存在しており、そのレールに乗ってしまうと自分が不利になるとわかっている場合には、その手筋を外す。その外した手筋も別のよく知られた手筋となっていて、相手はそれをまた外す。そうなるとお互いの知識や研究から外れて、力戦に移る。
だったら、力戦に移ってからの局面をさらに研究を深めておけばいいではないかというもっともな考え方もあるが、それまでの分岐もかなりあってすべてを手筋として定跡化するのも大変なことだった。
さらに先生の話は続いた。「チェスは、言ってみれば、二次方程式がいきなり三次方程式になったり、方程式だと思っていたのに実は恒等式だったりする感覚があって、数学の知識だけではとても対応ができません。私の言い訳かもしれませんが。どなたかに伺いたいのは、チェスには答えがあるのでしょうか?」
店内にいた誰もが押し黙ってしまった。
そのことがあってからしばらくして、先生がチェス喫茶「R」に来る人に、おそらく紀要のようなものだと思うが、冊子を配った。そこには、先生が書いた「数式にチェスを代入する」みたいなタイトルの論文が掲載されていた。私は読んでみたがなんのことだかさっぱりわからなかった。記憶に残っているのは、数学における解かれていない予想はチェスのような考え方を導入しないと解かれることはないであろうという主張だった。その主張の有効性を私が判断する立場にもないし、そもそもその知識もなかったが、数式にチェスが代入されたことに対して、私はそれだけでなんとなく嬉しかった。
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