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プーシキン伝記 第一章 青年時代⑯

 リツェイ時代の友人関係 - ツァールスコエ・セローの軽騎兵たちや、アルザマス会の文学者たち、カラムジンの《新文体》とジュコーフスキーのロマン主義の旗のもとに結集した若い作家たち、また、カラムジン一家 - との関係は、プーシキンの知識と視点の形成、彼の社会的かつ文学的立場のために格別に多くのものをもたらした。しかし、それらはまた性格にも影響を与えていた。軽騎兵のサークルではプーシキンは自分が大人になったと感じることができたし、カラムジンの家では - 彼自身は自分の家で知ることのなかった家族の雰囲気、家庭の居心地よさを、吸い込むことができた。プーシキンが彼より19歳年上(2倍以上!)の女性である、エカテリーナ・アンドレーエヴナ・カラムジナにおぼえた、思いがけない感動的な恋愛感情には、おそらく、まさに母親への愛情の要求が重要な場所を占めていたのだろう。この感情のなかに、深く秘められた情熱を見る根拠はない。Yu.N. ティニャーノフ - プーシキンのカラムジナに寄せる《名もなき愛》について言及された、詳細な仕事の著者 - は、プーシキンが死に際にまさに彼女に会いたがったことを特に重要視している¹。しかしながら、この事実を正しく解釈するためには、この最期の時に、彼に思い出されたすべての名前を挙げるべきであろう。
 意識があり重傷で死にそうな人間を観察することになった人は、その人たちの中で遠い昔の、一見ほとんど忘れられたような幼年時代の思い出が、思いも寄らない力で急に燃え上がることを知っているだろう。プーシキンは少し前に亡くなった母親のことを思い出さなかったし、父親も、弟も、姉も呼ばなかった。彼が思いだしたのはリツェイだった:
《今ここにプーシンも、マリノフスキーもいないのはあまりに残念だ、私はもうすぐ死ぬだろう》
《カラムジナは?そこにいるのはカラムジナ?》-プーシキンはたずねた²。彼はリツェイで過ごした日々の世界に帰っていた。
  
¹ティニャーノフ Yu.N. 名もなき愛-プーシキンと彼の同時代人たちより,モスクワ,1968,p.217 
²同時代人の思い出のなかのA.S.プーシキン, 第2巻,p.332,349

 リツェイはプーシキンにとって幼年時代の代わりとなっていた。リツェイを修了した - 幼年時代は過ぎ去った。人生が始まったのである。
 幼年時代との別れと《大人の》人生への始まりを、リツェイから厳粛に引き裂かれたプーシキンは理解していた。それは、ロシア文学騎士団へ叙聖され、今後自分の淑女の名誉のために戦う好機を探し求めていくという、女神アテナへの宣誓のように思われた。ヴォルテールやアリオスト、タッソのアイロニカルな詩のプリズムを通して騎士道文化を理解した青年たちにとって、このような《叙聖》は必然的に二つの世界に登場することであった:それは、一方では厳粛であり、感傷的ですらあり、他方では、諷刺的・道化的であったため、嘲笑と熱情は消去されず、むしろ互いに強調されていた。プーシキンはリツェイで二度、詩を叙聖された。最初の奉献は1815年1月8日の進級試験においておこなわれた。プーシキンとデルジャーヴィンの対面は、この日、リツェイの大広間で、余命1年半にある最も偉大な18世紀ロシアの詩人と、一般的にロシアの詩人の中で最も偉大な詩人とが出会ったということを我々は後に眺めて知っているために、不本意にも書き加えているのであるが、実際には、そのような約束事的な象徴的な(もちろん、それ以上に芝居じみているような)性質のものではなかった。デルジャーヴィンはこの時までにすでに何度か、若い詩人たちに自分の竪琴を《渡していた》:
 
  後継者たる君に、ジュコーフスキーに!
  私は使い古した竪琴を渡そう;
  そして私は棺のすべりゆく奈落のまえで
  すでに頭をたれて立っている¹。  
      
  ¹デルジャーヴィン G.R. 詩集. レニングラード, 1933, p.386.

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