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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉙
プーシキンは1824年8月1日までオデッサにいた。彼の人生においてこの短い期間は、最も矛盾した期間の一つであった。
皮相的な観察者にとっては、プーシキンは、キシニョフでの生活の田舎臭さとははなはだ対照的な、レストランや劇場やイタリアオペラ、豪華で多様な社会からなる大都市での生活の喜びに心を奪われていた。上流社会の交際やオデッサの劇場はペテルブルクを思い出させた。自由主義者の軍人たちの打ちとけた社会は ― キエフ、キシニョフ、カメンカを思い出させた、一方、海や、路上でのフランス語やイタリア語の会話、フランス語新聞の検閲抜きの許可やワインの関税のかからない入荷は ― ヨーロッパを思い起こさせた。ここでの生活はプーシキンをとりこにした。
当時私は 朝け方の号砲が
船から鳴りひびくやいなや、
切り立つ崖を駆けおりて、
すぐさま海へと出かけたものだ。
そして 熱いパイプを片手に、
塩からい波に活気づけられながら、
楽園にいるイスラム教徒のごとく、
東方の濁ったコーヒーを飲む。
散歩に出かける。客好きな
カジノがもう開いていて グラスの音が
そこで鳴りひびいている。バルコニーには
ねぼけた得点記録係が
手にほうきを持って出てくる、ポーチでは
もう二人の商人が会っていた。
きっと、広場もにぎわいを見せはじめた、
どこもかしこも活気づいてきた;あちこちで
用がある者も 用がない者も 走っている、
しかしたいてい用があるのだ。
打算と大胆の子ども、
商人は国旗を見に行く、
今日の空がつかわすかどうか
彼になじみの船を。
どんな新しい品物が
今日検疫所にはいったのか?
待ちかねたワインの樽はとどいたのか?
ペストはどうした?火事はどこだ?
飢餓はないか、戦争は、
それとも似たような事はないか?
聞きだしに行く。
だが私たち、悲しみを知らぬ若者たちは、
面倒見のいい商人たちのあいだで、
私たちは イスタンブールの海岸からあがる
牡蠣だけを待っていた。
牡蠣はどうした?はいったぞ!おおうれしい!
大食漢の若者が飛んで行く
かるくレモンをふりかけられた
脂がのって生きのいい海の隠者たちを、
殻からのみこむために。
大騒ぎ、言い争い ― 軽めのワインが
酒蔵からテーブルに
世話好きなオトンヌ¹によって運ばれた。
時は飛ぶように過ぎ、恐るべき勘定書が
気づかぬうちに増えていく。
だがもう 青い夕暮れが濃くなってくる、
私たちは急ぎオペラへ行く時間だ… (VI,203-204)
¹オデッサで有名なレストラン経営者(А.С.プーシキンによる註)
プーシキンによって描写されたオデッサでの彼の生活の光景はうそいつわりない ― 彼が暮らしていた現実はこのようなものだった。しかしこれが唯一の、言ってみれば、お祭り気分の、詩的な現実というわけではなかった。散文的な現実も存在していた、そしてそれは全く別の表情をもっていた。何よりも、プーシキンを悩ませていたのは金がないことだった、オデッサではキシニョフと比べてそれははなはだ緊迫していると感じられた。キシニョフでは彼へのサービスとしていつも食事はインゾフや、オルロフや、クルペンスキイや、ボロゴフスキイの家で出されていた、生活はより因習にとらわれ、誘惑はより少なく過ぎていった。また、半社交的な生活習慣によって弱められた貧しさは詩的な服装をより気軽に身にまとっていた。キシニョフでは貧しさはポエジーについて思い出させ、オデッサでは ― 未払いの請求書を思い出させた。プーシキンは弟に書いている:《父に説明してほしい、私は父の金がなければ生活できないと。現在の検閲下では筆一本で生きていくのは不可能だ;指物業を私は習わなかった²、先生のところへ行けなかった;私は神学と4つの法規は知っているが ― 自分の意志ではなく勤めている ― 退官することも不可能である。 ― 皆が皆、私をあざむいている ― 親類や血縁ではないとすれば、いったい誰を当てにすればいいのか。ヴォロンツォフの家に居候するつもりはない ― したくないしもう十分だ ― 窮乏は窮乏を呼ぶだけである。》(XIII,67)。
²指物業の教育を受けていないことについてのことばに隠されている、毒を含んだ向きのあるほのめかしは、М.С.ヴォロンツォフが幼年期に指物業を教え込まれていたことを考慮にいれるならば、あきらかになるだろう。彼の父親は、イギリス在住のロシア大使で、1792年9月2日から13日にリッチモンドからロシアにいる弟А.С.ヴォロンツォフにロシアにおける革命の不可避性について書いている:《我々はそれを見ることはないだろう、君も、私もだ;しかし私の息子はそれを目にすることになる。だから私は彼になにか手仕事を、金具の仕上げ工とか指物業とかを習得させることにした、彼の配下の者たちが彼のことをもはや知りたいと思わず、彼の土地を自分たちの間で分割したいと言ってきた時に、彼が自分の仕事で生活費を稼ぐことができるように、そして将来のペンザ州かドミートロフスキイ州の役人の一員になる名誉を得られるようにするためだ》。ヴォロンツォフ伯爵が指物業を教え込まれたことは、おそらく、オデッサに住む彼の取り巻きたちの間でとやかく言われていてプーシキンにも知られていたのだろう、彼はそのことに皮肉な態度を取っていた。
数か月後、また弟に宛てて書いている:《金があればなあ、だが私にはどこで手に入るのだろう?名誉に関しては、ロシアでそれに満足するのは難しい。ロシアの名誉はВ.コズロフ¹のような人物を愉快にさせるだけだ、彼にはペテルブルクの知人たちも媚びている、だがいくらかまともな人間はああいう輩を軽蔑しているのだ。Mais pourquoi chantais-tu〈なんのためにお前は歌うのか ― フランス語 ― ロトマン訳〉?このラマルティーヌの問いに答えるならば ― 私は歌った、パン焼き職人がパンを焼くように、仕立て屋が裁縫をするように。コズロフは書いている、医者は苦しめる ― 金のため、金のため、金のため ― 私の冷笑主義をむき出しにしたらこんな感じだ》(XIII,86)。
¹В.П.コズロフ ― 二流の文学者(有名な盲目のロマン主義者である詩人И.И.コズロフと混同しないように!)