水谷里恵人生ヒストリー② ちとながめ
こんにちは!水谷里恵です。
今日もご覧くださりありがとうございます!
本日は、先日から始まった人生ヒストリーの後半です。
後半は、看護師国家試験へ挑むところから看護師を辞めてカウンセラーになるまでの人生を書き記していきます。
ちとながめのヒストリー、読んでくださってありがとうございます。
今日もお付き合いくださいませ。
国家試験合格!晴れて看護師に。
叔父さんに最期のお別れをし、地獄の実習も何とか終了!!
いよいよ、看護師国家試験に向けて突き進んでいきます!
私の受ける代から、看護師国家試験には【必須問題】という項目が増えました。その必須問題を1問でも間違えると国家試験不合格!!はじめての採用された形式だし、そんな難しい問題はは出ないだろうとの周りの予想でしたが...
不安でしかなかった...
ほら、ね。赤点とりまくってたしさ…笑
毎日毎日机に向かい、勉強勉強これまた勉強....
この頃も、もちろん勉強は好きではないですが(笑)
目的や目標が少しずつ目に見えてきているので、2年目の赤点事件の時より
しっかり身が入っていた様に思います。
学校での対策の時間の他にも、図書館へ行ったり喫茶店に行ったり。場所を変え膨大な量の科目とにらめっこしながら、試験勉強に打ち込んでいきました!!
そして、国家試験当日、一緒に住んでいた姉が駅まで一緒に行ってくれて
手紙もくれました。バスで会場まで向かい試験開始!!!
はい。
全く、試験のことは覚えていません(笑)
覚ているのは、試験が終わってバスの中で友達とホッとして笑って話している情景だけ。肩の荷が降りた瞬間でした。もう何もやり残したことはない!全部出してきた!!
人生の中で1番、全身全霊を向けたのでしょう。たぶん。
結果無事、合格!!!
晴れて4月から看護師として働けるようになりました。
やっとやっと!!!
看護師になることができました!!
お母さん!お父さんやったよ!!
お爺ちゃん、おじちゃん、やったよーー!!
何よりも、役に立てる自分になれたのが嬉しかったです。
色んな気持ちを感じながら、大切な仲間と出会い、恩師に支えられ必死に頑張った看護学校の 3年間でした
念願叶って脳外科病棟就職 / 未来を自分で掴んでいく
看護師国家試験にも合格し晴れて、看護師の道の第一歩を踏み出すことに!!
遡ること半年前、
病院の入社試験の面接のため、事前に配属先希望を調査する用紙が配布されていました。配属希望先は3病棟書き込む欄がありました。
実は私、その用紙に1つの病棟しか書きませんでした。
その病棟は、脳神経外科病棟。私が看護学生1年の看護実習で行った病棟でした。
色んな病院へ行き、色んな科の看護を見てきてもどうしても忘れられなかったあの病棟。あの病棟で、脳神経外科で看護がやりたい!!!
面接でもそのあつーい熱意を伝えてきました。
この病棟にどうしても就職したい。働きたい!!と、確か実習での学びを熱く話したと思います。その熱意を伝えたことが功を奏したのか、見事!その病棟への配属が決まりました。
それを知った時、飛び上がるほど嬉しかったです!!
うっしゃーーーー!!!って思った(笑)
けど他の同期には、自分の希望が通らなかった子もいて、
「やっぱりね。りえは、希望通りになると思ってたけどね。」
「気に入られてそうだもんね。」
「いいよね、希望の所に行けて。」
と言う、どストレートな言葉をもらったのでありました(笑)嬉しさとともに少し胸がチクっとした記憶です。
けれど、今考えると自分の心が震える方に正直に動けていたのだ、と思います。
私は、面接の時から自分の未来を掴みに行きました。たとえ、それが誰かの批判の対象になることがあっても、自分の気持ちに正直に行動する。
その自分の気持ちを、伝えられていた自分がいました。
自分の気持ちに正直に動くということは、万人の人に受け入れられることをしていても突き詰められないんだ。自分らしく生きる時には、嫌われる勇気も必要!!!
と、念願の看護師になった希望に溢れていた純粋なあの頃の私が、教えてくれたように思います。
脳神経外科病棟に配属されたのは、私含め3名。この3人で、すったもんだバッタバタ!泣き笑いの新人時代からの脳外科病棟勤務3年間を超えていくのでした。
必ず思い出す、15年以上前の患者さんと類友の病棟同期
念願の脳神経外科病棟に配属され、同期3人ですったもんだの新人時代を過ごしていきます。
自分が何か失敗したり知らないことを指摘されるのが怖くて、ベテランの先輩ではなく2、3年目の先輩にコソコソと聞いていた、こすい私(笑)
ええ、バレていたでしょう。
1番、何が大変だったかなぁ...と、考えても全てが大変すぎてあまり覚えていません。
仕事終わりに勉強会
レポート提出
疾患の自主勉強
器械を覚える
業務を覚える
薬を覚える
カルテの書き方(当時は紙カルテ)
他職種とどうやって連絡しあうか
どの先生が、何先生か?(名前含めて)
患者さんの名前と顔を一致させる
勉強、勉強、勉強.....
そして、先生のクセへの対応w
まぁ、とにかく頭パンパンでしたね....
座学の嫌いな私も嫌という程、勉強し始めました。必要性を感じたんですね。はい、痛い目見ました(笑)けど、「そうか!そう言うことか!」と患者さんが自分の中で一致していく感覚が嬉しくて、勉強が楽しくなりました。
はじめての夜勤デビューはめちゃくちゃ緊張したなぁ...
夜勤前は、緊張しすぎて眠れませんでしたね。
同期の夜勤明けのヘトヘトの顔を見ては、心の中で「お疲れ!!」って見守って、自分もキリキリ日勤をこなしていました。
怒られては、その先輩の言い方をマネして笑いに変えて、そのマネが誰が1番上手いかをつまみにして同期3人で飲んでいました。
ええ、最低な新人です(笑)
この激動の新人時代を一緒にくぐり抜けた同期と私。
3人で、何年も経って話をするときに必ず出てくるのは、1年目に出会った、患者さんなんですよね。不思議なことに名前も顔もはっきり出てくるんですよ。
私が新人の頃なので、今より入院している日数も長かったので、ゆっくり看護させてもらえていたことも関係しているのかもしれないですが、たとえ忙しく覚えることがいっぱいの毎日でも、患者さんと過ごす時間を私たちは大切にしていたんだと思います。
大切にする部分、価値観が一緒だったんです。
あの3人組はいいね
西6病棟は、あの3人組だね
3年目くらいになると、
他職種や、医師から言われるようになっていました。
いろんな経験をし3人で成長していきます。
話の最後に決まって言います。
「大変だったけど、あの頃は楽しかったよねぇ...」って^^
類は友を呼ぶ
同じ志を持ってる同期と辛いけど楽しい毎日を過ごし、お互いのことを共有し合えて、刺激し合えて過ごせた新人時代。素晴らしい同期に出会えたことを本当に幸せに思います。
患者さんにとって私は辛い通過点 / 回復看護で私が大切にしていること
新人時代から3年間、脳神経外科の病棟の看護師として従事することとなった私ですが。
脳神経外科の看護でいつも思っていたのは
当たり前は、当たり前じゃないと、いうことです。
これは、看護学生の実習の時から感じていたことです。脳神経に関係する病気の方は(一概には言えませんが)病気になる1秒前まで、ごくごく普通の生活を送っていた方が多く、それまで当たり前にできていたことが一瞬にしてできなくなる場合が多くあります。
手を動かすこと
歩くこと
笑うこと
話すこと
飲み込むこと
噛むこと
座ること
目を閉じること
目を開けること
物を持つ
相手が知っている人と把握すること
目の前にあるものは、時計だと認識すること
.......
当たり前って思っている以上にたくさんあります。
それが一瞬にしてなくなり、そこからのスタートです。
そんな患者さんへの看護として私が意識的に行なっていたのは、
1.失ったことへのストレスの軽減
2.病院の当たり前を、当たり前にしない
この2つでした
1は、いわば先回りの看護です。
特に病気になって直後の患者さんは、失った所に目が行きがちです。当たり前ですよね、今までは無意識にできていたことが、意識してもできないほどの変化と苦痛を感じている。
だからこそ、患者さんのやりたいこと、望んでいるだろうことを考えて先に声かけするようにしました。
例えば...
〇〇さんは、何時にトイレに行くことが多いから少し前に声かける。
ご飯の時にテレビを見るからお膳の横にリモコン置いておこう。
リハビリの前に髪をとかして行かれるから鏡の前を通って行こう。
寝る前にお水を飲まれるから手の届く所に水飲みを置いておこう。
などなど...
ほんの些細なことなんですけどね。
リハビリ開始直後は、できない部分も多いため意識的に先回りの看護を行い、リハビリの進行に合わせて、徐々に行ってもらう部分も増やしていきました。
私はここにいますよ
大丈夫ですよ
1人で頑張らないで
そんな、無言のメッセージも込めて。
あ、リハビリ進んできた方には厳しかったりもしましたよ〜笑
2は、病気になったけど病人になって欲しくなかった
それが、理由です。
入院中って、ベッドに食事が運ばれてきてベッドで食事を摂るでしょ?
もちろん安静にしてくださいねと指示がある人や、座るだけでも血圧が不安定になる方、動くとめまいがする方など、患者さんの状態に合わせて行うことは大前提にありますが、
看護学生の実習の頃から、病気になると家でやっている 当たり前が 当たり前でなくなることに違和感を覚えました。
何で病気になったからって、病院にふさわしい病人にならないといけない?毎日、ベッドで食事する?布団やで?
そんな違和感はあちらこちらで感じました。
なので、患者さんの状態をみながら、少しでも今までの生活に戻っていけるようリハビリ以外の病棟での生活でも意識して看護していました。
回復期看護の基本だと思っていました。
あつい看護師すぎて患者さんにはウザがられたことも(笑)
自分で起き上がり車椅子に乗るだけでも患者さんにとっては大変なことですから。
そんな中、ウザがられてでも続けるのは、
患者さんにとっての人生は、この入院で終わりじゃないから。
私は、患者さんにとって、「病気になって間もない時に色々言ってくる看護師のいる入院生活」という辛い通過点でしかないです。
でも、辛いながらも少しずつ進んでいる患者さんのできている部分に気づく一助になれればという、ただただ真っ直ぐな気持ちだけでした。
当初は、できないことが辛くてリハビリをすることも苦しかった方が、目に見えて回復しリハビリ病院へ転院する姿や、退院後に病棟に顔を出してくださる方を見ると心が震えました。
もちろん、泣きましたよぉ(笑)
看護師やってて良かったって思える時間です。
失ったところから、人生を生き直す。
そんな方をサポートする回復期看護が、私の性格にもあっていたような気がします。基本ネガティブな私ですが、ポジティブな自分全開で、気力も体力もバリバリ元気な(20代前半だし!)回復期看護師時代でした。
3年目の重圧に耐えられなかった / 退職し他の病院へ
大変なことや辛いことがありながらも、やりがいを持って看護師として働き、あっという間に看護師3年目になりました。
3年目になると私の時代は「プリセプター」という新人看護師のいわば、お姉さん役を担当します。
1人の新人に1人のプリセプター、ペアのような感じで仕事に関すること、勉強会や、悩みの相談、月々の振り返りなどなど、1年間サポートしながら新人看護師だけではなく3年目看護師も一人前の看護師としての自覚を養っていく。
そんなカリキュラムになっています。
それに加えて、3年目からは緊急処置室(ER)の担当もありました。
私が働いていた病院は3次救急の総合病院だったので
※3次救急
1次救急や2次救急では対応が困難な重篤疾患や多発外傷による医療
いつどんな患者さんがくるか...
目の前の患者さんにちゃんと対応できるか...
脳神経外科領域だけではない患者さんへの救急看護も必要になり、勉強してもしても不安が押し寄せてくる毎日でした。
新人の子へ指導をしていても、自分がこんなに不安なまま自信もなく看護してるのに何を偉そうにいってるんやろう....
私だってまだまだ怒られてる状況やのに...(事実w)
新人さんにも呆れられてるに決まってるわ。
私はちゃんと教えられてるんやろうか...
自分の自信の無さと、毎日の仕事の重圧に苦しむようになっていきました。
病棟での仕事も、ミスしないようにという意識が大きくなり過ぎて、以前のように純粋に看護を楽しめなくなってきている自分がいました。
そんな中、病棟夜勤中に新人教育担当の病棟師長さんが夜勤の見回りに来られました。夜勤の状況を報告してまたバタバタと仕事に戻ろうとした時。
「〇〇さん(担当新人さん)ね、
あなたの様な看護師になりたいってこの前言ってたよ。尊敬してるって。」「頑張ってるね。」
と、サラッと帰り際に伝えてくれました。
あまりにも突然の告白!!!
私は、何ができてるんやろうと悩んでいた時だったので、交換する点滴を持って全身身震いがしました。あの感覚は、忘れられないです。
「あ、ありがとうございます」と言ってまた仕事に戻りました。
もう、嬉しくて嬉しくて何度も頭の中で師長さんの言葉を繰り返し、必死に涙を我慢し仕事していました。
病棟師長、新人教育担当師長、
病棟の先輩や同僚、そして新人の看護師たち。
いろんな人がちゃんと見ていてくれてていました。
1人で悩む必要はなかったのかもしれません。
でも、その時はそれしかできませんでした。
弱音なんて吐けず、正直、頑張る先輩でいたかったんだと思います。
はやく一人前になって認められたい一心でしたから。
できない自分を認められなかった。
その時はそれで精一杯でした。
嬉しい反面「また、頑張らないと」と自分を鼓舞し、自分を見張って、周りの目を気にした結果、先輩からの「他の病院へ一緒に行かないか」という言葉に押され、あんなに大好きな看護ができて、大好きな同期がいる病院を辞めるを選んだのでした。
病棟師長からの説得にも耳を貸さず入社試験を受け、4月から新しい病院で働くことが決まりました。
安全第一だからこそ、必要なもの? / 今までが通用しないジレンマ
いろんな人が支えてくれていたと今となって気づくことも、当時の3年目の私は仕事の責任の重圧に押しつぶされそうになり、弱い自分と向き合うことができず、その代わりに選んだのは病院をかえる選択でした。
今までの病院はいわゆる、国・公の病院で、公務員看護師をしていた私ですが、次に就職したのは某鉄道企業の総合病院でした。
病院といってもそれぞれの病院理念や、方針も違い、公立、私立だけでもあり方が全く違います。細かくいうと直属の上司によっても、病棟のカラーは変わってきます。特に、2つめの病院はその企業カラーが色濃く出ていると約9年勤めてよく感じることでした。仕事をする中で、理念ばかりを追求する部分に違和感を持つこともしばしば。
ですが、就職したての私はそんなことも全く知らず、いろんな洗礼を受けることになります(洗礼って笑)
脳神経外科を希望しましたが希望どうりにはいかず、呼吸器内科・循環器内科の混合病棟に配属。肺と心臓の病棟です。
初めての完全電子カルテと検査や、処置、疾患の勉強。
またまた勉強の日々が始まりました。
ある日、呼吸器科の患者さんで状態も不安定でご家族には、担当医師から長くはないことが伝えられていました。私がその方の担当看護師で、奥さんが24時間付き添われています。
ずっと旦那さんの手を握っている奥さん。
長い間お風呂にも入れていない患者さん、その手には垢が溜まっています。
私は、状態を見ながら奥さんと本人さんと相談し、一緒に温かいタオルで体を蒸して拭いて、足湯と、手湯をしました。終わったあと奥さんは「お父さん、気持ちよかったねぇ」と、石鹸の香りをかいでは笑顔で手をさすっていました。
本人も、そんな奥さんを見て微笑んでいました。
終わって、ナースステーションに戻り、報告。
すると上司に言われました。
「あなた、何やってるの?」
「あなたがやったことで、患者さんの状態が悪くなったらどうするの?」
「こんなことやって、訴えられたらどうするの?」
「こんなことで看護師人生棒にふりたい?」
「1番困るのは、あなたよ?」
コイツナニイッテルノ?
一瞬、何言われてるのかわかりませんでした(笑)
この人、看護師か?とさえ思ってしまった...
よくよく聞くと、
状態が悪いんだから清潔ケアも最低限でいいとのと。
マスマスナニイッテンダ、コイツ…
いや、状態が状態なのでもちろんできる範囲です。
ですが、患者さんの状態変化も、ない。
手が汚れているからキレイにする。
今までの病院ではそうやってやるのが当たり前でした!!!!
......なーんて、言えるはずもなく(笑)
「はい、すみませんでした」で、その場は終わらせました。
そのクソ上司← の言葉は忘れもしません(笑)
この病院の理念の第一に掲げられているのは安全です。
もちろん医療を提供する上で大切です。ですが、安全を損なうと訴えられる!そんな恐れも感じるほどの徹底ぶり。保身が全てと思わせるくらい母体企業のカラーが色濃く出ていたのでした。
今までの私が学んできたことは、ここでは不必要なのかもなぁ。
病院を辞めたから戻ることもできないし…
どうにかしてでも頑張らないとな。
看護師としての環境をガラリと変えて進み出した私でしたが、その環境に少しでもはやく慣れるためにと、自分の色さえも徐々に消していってしまうのでした。
全く違う看護 / 終末期看護とは
転職した病院で、今までの経験が通用しないジレンマを抱えつつも日々奮闘していた中で、新しい看護に出会います。それは、終末期看護です。
以前の、脳神経外科で1番意識していた看護は、先回りの看護と可能性を拡大させる看護でした。そして、呼吸器内科に勤務し始めて終末期の患者さんに必要だと感じたのは、ただただ聴く看護でした。
検査をして病気の名前が分かって患者さんは治療を始めていきます。
病気による痛みが出現すれば、痛みをコントロールしながら治療を受け、状況に応じて治療内容が変わっていきます。
そして、全身状態を考慮して抗がん剤治療が終了になることもありました。痛みや呼吸苦などの苦痛をコントロールをして最期を迎える準備をしていきます。そんな方が心の内をポツリポツリと話される時、腰を据えてただただ聴く。
回復期看護は、回復していく様子が少しずつでも見えます。ここまでというプラスの目標を計画に立ててもいきます。けれど、終末期の方への看護は回復するというよりも大切なのは、その方の意向に沿って苦痛を取り除き、少しでもその方が心穏やかに過ごす方法を計画立てていくこと。
看護と言っても、こうも違うものかと感じることばかりでした。
そんな看護の違いにも気づけたのも、半分逃げのような感じだったけど、病院を変えて新しい場所に踏み出したからだと、今は思えています。
終末期看護は私にとって、特に答えが見えないものでした。答えというか、看護師時代見えなかったものは看護師を辞めて後々、一本の線となって見えてくるようになります。つくづく、看護って答えがなくて奥が深い。。。
頑張れているかなんて自分では分からない / 後頭部の円形脱毛症
転職した病院で今までとは違う看護に戸惑いながらも、自分の看護師としての役割を模索しながら、3年と少しが過ぎました。
そこに、自分の結婚、病棟での役割、研修、看護研究、人間関係…いろんなストレスが積み重なった毎日で、体にある変化が出てきました。
朝の出勤前に鏡を見て髪を束ねようとしたところ
なんか、皮膚が直で当たる...
なんか違う...
後頭部に10円玉くらいのハゲが1つ出来上がっていました。それを見つけた時に1番に思ったことは、「あ、私。頑張れてるのかも」
どんだけドMやねん!!笑
でも、自分が頑張れているなんて到底思えなかったし、周りの人が良く見えるし、以前の病院での力強い看護はこの頃にはとうになくなっていて、自分は何やってもダメだって思っているから、体に症状として出たことで「私も人並みに頑張れているのかも」と思いました。
体に出るほど頑張ってナンボくらいに思っていました。
すぐ皮膚科に行き飲み薬を飲んで塗り薬を塗ったら、少しずつ良くなっていたんです。
すると、こう思いました。
こんなすぐに治るから大丈夫やわ。
私のしんどさ大したことないんやわ。
何個もできてる人もいる。
だから、また頑張ろう。
当時の私は、誰かに認めてもらえることが自分の価値基準だったので、誰かの評価を求めるしか選択がありませんでした。なので、体に症状が出るほど頑張れば誰が見ても頑張っていると判断されるだろう。と、思っていたんです。完全に無意識ですが、その自分でしか看護師は続けられないと信じていました。
そんなあの頃の私にかけてあげたい言葉は、ただ1つ
いっぱい頑張ってきたね
そうやって頑張るしか知らなかったよね
と言ってあげたいです。
絶対に逃してなるものか! / 野生本能で夫ゲット
他者の評価で頑張り続けていた当時の私ですが、野生本能むき出しで狩りをし(笑)結婚という人生一大転換期を迎えます。
ある日、以前の病院の先輩に忘年会に誘われました。
まぁ、いわゆる合コンです(笑)
そこに来ていた1人が旦那さんでした。
見たからに真面目そう…なのに、テンション高くホノルルマラソンに出場した時のことを楽しそうに話しています。お土産のクッキーを出会って2時間ほどの人に振る舞っています。何だか面白いぞ?
優しいし、ガツガツもしていないし、何より真面目そう〜。
そんな風に観察していた私、たぶん、旦那さんに一目惚れだったんだと思います。
当時の私の周りの同期は着実に結婚し始めており、私自身も自分の幸せな家庭・幸せな結婚と進んでいくのが1番の幸せだと信じて疑わなかったので、
逃してなるものか!!!
そんな気持ちもあったと思います。ええ、ありました(笑)でも、あの時の私の嗅覚(←おい)は間違いなかったと今でも思います。
2人で出かけた日の最後に意を決して言いました。
お付き合いできないんだったら私、
年を越せません!!!
見事なプッシュ...凄まじい...
返事しないとは言わせない圧…
お分かりでしょうか….
忘年会ではじめて出会って、このままじゃ年を越せないと告白。当時の私はきっと時間の感覚が少しおかしくなっていたようです(笑)
当時の彼は、困惑...いや、超困惑しながらも、見事、私の圧に負けまして。
お付き合いをすることになりました。
っしゃーーー!!!
そんな私の圧はお付き合いしてからも続き。
お付き合いし1年ほど経った時、言いました。
私には何年も付き合ってる時間はないです。(謎すぎる)
ズルズルと付き合うつもりは、ないの。
はい、またしても圧!!自分のことなのに書いてて怖くなります。
男の人にとって人生最大の決意の場面にも圧をかける女!
そして、またしても困惑しながら?そこは分からんですが、その後何年も経たずしてプロポーズをしてくれたのでした。
今考えると、あの猪突猛進は誰とでも良かったわけでもなく、私の奥底の直感が「この方は逃すまい!!」と思ったからこそ、あんな訳わからんスピードで突き進んだのでしょう。
そして、コツコツ石橋を叩いて叩き割るタイプの旦那なので、猪突猛進の嫁を楽しんでくれているのではと、想像します(笑)あくまで想像
結婚当初は、意見の違いや生活の違いが受け入れられず、夫の無表情は私に興味がないんだと、勝手に判断し姉の家に家出を何回もしましたが(笑)
今となっては、私のことを心配しながらも応援してくれている1番の理解者で1番の居場所だと思えるようになりました。
彼は私とは正反対のタイプで、かなーり冷静に見てくれる部分が私にとって安心にもなるし、また私のハチャメチャに振り回されながらも見守ってくれる彼を見て、何だかんだ私は彼の手のひらで転がされながら、彼の手のひらごと振り回して、2人で笑いながら幸せな家庭を築けているのかもな。
そんな風に思える今があります。
どんな自分も出せる存在の人と、
伴侶となれて良かったとしみじみ思い、感謝でいっぱいです。
私は職場のお荷物 / 妊娠と切迫早産から突然の休職
研ぎ澄まされた嗅覚を使って猛プッシュでお付き合い、結婚を迫り、新生活を旦那さんと一緒にスタートしました。そして、結婚生活が1年と少し経った頃、待望の赤ちゃんがお腹の中にきてくれました。
つわりもありつつ、なんとか片道1時間の通勤で名古屋の病院で勤務を続けました。帰りのおじさんの酒の匂いが強烈のなんのって….
日勤、夜勤をこなしながら過ごしていたある日の帰り道、あまりにもお腹が痛くなり念の為、翌朝病院にいくことに。
すると、
「仕事は、禁止だね。」
「1時間通勤なんて、絶対だめ。」
「今は、体を動かさずに寝ること。それが、1番の仕事。」
エコーを見てすぐに先生から言われたのは切迫早産でした。お腹の張りを抑える薬と、家での絶対安静を指示されました。食事、トイレ、シャワー以外は動かずにとにかく、横になること。
看護師の切迫流早産率はかなり高いらしく、けどまさか自分がなるとは思ってもみませんでした。
え?仕事休まなあかんやん…
突然の休職...
どんどん重くなっていく体に正直、少し休めると思うとホッとした気持ちもありましたが、先生から産休に入るまで仕事禁止の御達しが出てしまい、安心よりも不安が強くなっていきました。
急に休んでしまって他のスタッフに迷惑がかかる。
ズル休みしてるって思われないだろうか...
根性なしって思われてるかも…
頑張ってる自分が認められていると思っていた私にとって、こんなことになって申し訳ないと思うと同時に、お腹の子どもにとってもしんどいになっている。全てダメのレッテルを貼られたような感覚になっていました。
看護師としての自分の居場所がなくなってしまうことを1番に恐れていたし、自分から辞めた方がいいのか、なんてことも考えていました。
そんな時、当時の師長から言ってもいました。
「うん!!大丈夫だから!!」
「なんとでもなるのよ〜!!」
「休みも、有給使ってなんとかなるわよ!!」
「元気な赤ちゃん連れて病棟に来てよ、待ってますからね〜!!」
当時の上司は、超!元気などんな時も笑顔を絶やさずにリードしてくれる師長でした。
めちゃくちゃ忙しい病棟で、若手の私に師長の代行が回ってくるほど人が辞めて足りないのも知っていました。どんな気持ちでこの言葉を言ってくれたんだろうと思うと、感謝しかありません。
でもこの時の私は、居場所がなくなることが怖くて師長の大きな優しさを受け取れていなかったんですよね。今ならよーく、よーくわかります。
そんなこんなで寝たきり生活を続け、順調に太り(笑)
先生に怒られながら臨月を迎え、約2日の壮絶な陣痛に打ち勝ち、元気な男の子を出産しました。
幸せな家庭、夢にまで描いた自分の居場所!
私が1番欲しかった自分の家族。
しかし、現実は全く真逆のものが待っていました。
え?赤ちゃんって、寝ないの? / 理想とかけ離れた育児の始まり
突然の休職と自宅での絶対安静に苦しい気持ちもありながら、周りの支えのおかげで、無事に元気な男の子を出産しました。
よし!!夢に見た私の幸せな家庭!!
幸せな 子育てが待っている!!!
と、大きな大きな理想を膨らませてい他のですが、現実は全く真逆の生活が始まりました。
まず出産して激しく思ったこと、それは。
え?赤ちゃんって…
自分で寝るんちゃうの?
赤ちゃんって、寝ないの?
私の中で、赤ちゃんはベビーベッドでスヤスヤとずっと寝ているイメージが強かったので「大変だよ、寝ないよ」なんていう情報は一切、見てなかったんでしょうね。
た○ごクラブさん、書いてくれていましたか?w
いや、自分が苦しくなるなんて思ってもなかったんだろうなぁ...どんだけ自信があったんだろう…
産院で学んだ、授乳は2時間間隔をきっちりマニュアル通りにこなそうとする私ですが、私も産まれたての息子もお互い、超!授乳初心者(笑)
乳は出ないわ
咥えさせるの下手だわ
吸うの下手だわ
乳首は切れるわ....
タイマーで時間を決めていても全くその通りにいかないし、2時間なんてあっという間に過ぎて、またたく間に次の授乳時間が来ます。
え?私、何時間授乳させてるの?状態(笑)
授乳の前後にはオムツを確認してくださいねと言われれば、そのマニュアル通りに、
オムツ
授乳
オムツ
授乳
泣く!
抱っこウトウト
時間きて授乳
泣く!
オムツ
泣く!
泣く!
泣く!
正直、途中で何やってるか訳わからなくなってくるんですよね。
何で泣いてるかも分からない、次は右乳なのか左乳なのかも分からない。オムツ交換したのかも忘れた。焦ると、それもちゃんと息子みは伝わっているようで、これまた焦る。
いつ寝ていたのか覚えもなくらい、毎日毎日、早朝の新聞屋さんのバイクの音を聞いて抱っこしながら途方にくれていました。
里帰りしていたので母も、たくさん手伝ってくれました。
「あなたがしんどくなるから、ミルクを使いなさい。」と、言ってもくれました。
けれど、完全母乳育児が良しと心の中で思っていたし、手伝ってもらえばもらうほど自分のできなさや、母親になれない不甲斐なさを感じて、母の助言も受け取れずにいました。
産んで2週間ほどの超新米ママができるわけないんだけども…
今は思います。
ママは出産するだけで100点満点
本当に100点満点
だって、尊い命をこの世に誕生させたんだから。
だから、他は助けてもらっていいし、できない自分で大丈夫って、思えていたら、あんなに1人で苦しまなくても済んだかもしれないです。
けれど、あの時の私も精一杯でした。
いやあ、はじめての育児、頑張ってたなぁ...
何であなたが私の子どもなの? / 逃げるように育休繰り上げ復帰
理想とは真逆の育児が始まり、どんどん自分の不甲斐なさできなさに絶望していく新米ママの私。
夜泣きがある息子への対応で、夜間もぐっすり眠れることはなく、常に睡眠不足の状態が続いたまま育児をしていました。
眠りの浅い息子を見ていつ起きるかと毎日ハラハラし、帰ってきた旦那に何を喋るでもなく、ただただ、イライラをぶちまけていました。可愛いと思える時ももちろんあったけど、気が休まる日はなかったと思います。
6ヶ月くらいから噛み癖がでてきた息子は、腕や、肩、足など色んな所を噛んでしまうので、口が近づいてくると反射的に避けてしまうようになっていました。
気分転換のために支援センターに行っても、お友達の手を噛みに行ってしまうので常に何かしないかハラハラ見張るような状態でした。楽しむ暇なんてなく必死な私には、周りのママさんたちがすごく上手に子育てしているように見えて、そのママと自分を比べてはいつも心も体もヘトヘトになって帰ってきていました。
噛み癖を保育士さんに相談すると
「そういう時は、分かるように強くいうのよ。」
「ちゃんと、お母さんの気持ちが分かるように悪いことだって分かるように伝えてあげてね。」
そうアドバイスされてやってみるものの、治るはずもなく...アドバイス通りできない自分をまた責めました。子育てができてない自分を否定されるのが怖いし、子供の噛み癖が治らないのも私の育て方が悪いんだろうと、思うと同時に、
何で、私の所にこの子が産まれてきたんやろう。
何で、私の子供がこの子なん?
そう思ってしまうひどい母親で愛情のない母親な、母親失格の私をまた自分で責めて人前ではニコニコ笑っているけど、心は殻に閉じこもる状態になっていきました。
そんな日々を過ごしてきた私が出した結論は、最大3年間の育児休暇が取れるところを1年2ヶ月で終わりにして病院へ早期復帰する、でした。
会話のできない子供と2人っきりで、自分の育児全てに自信が持てず、今まではなんとか頑張ればできていたことが、全く通用しない。そんな私はダメだと思う毎日から逃げ出したかったんです。
そして、ちゃんと愛してあげられない自分が子供の近くにいない方がいいんじゃないか、そんな気持ちもありました。長男の寝顔を見ては涙がとまらない日もありました。
私は、ダメだと思わななくて済む居場所を求めて動き出しますが、自分の子供から逃げた母親になりきれない自分を責め続けて仕事と育児の両立を始めるのでした。
逃げたら結局両方しんどかった / 私の存在価値って
初めての育児に疲れて、自分の子供から逃げた母親になりきれない自分を責め続けながらも、少しでも自分をダメだと思わない安心できる居場所を求めて仕事と育児の両立を始めた新米ワーママの私。
復帰した病棟は、出産前に働いていた病棟でした。忙しい病棟で人でも足りなかったのですごく喜んでもらえました。
出勤に1時間かかるため、朝の息子の保育園へ送るのは旦那にお願いしました。息子が寝ている間に保育園の物品や朝ごはんを準備しセットしておきます。時々、出発前に起きてしまいくっついて泣く息子を引き離して仕事へ向かっていました。
復帰当初は、電車に乗る、食事を摂る、トイレに行く、ケータイを見る、大人と話せる、会話が成立する、などなど、1人でできる色んなことが久しぶりで、自分だけの時間を取り戻した感じがしてすごく新鮮な気分でした。
入院リピートされている患者さんもいらっしゃって、その方に名前を覚えてもらっていたりすると「私は、忘れられていなかった。私がここにいてもいいんだ!!!」そう感じました。
しかし、忙しい日々が過ぎていく中で、時短勤務ではどんだけ頑張ってもできないことや、お願いしなければいけないことがたくさんあり、それに加えて保育園のお迎えの時間が迫ってきている焦りをどんどん強く感じるようになっていきます。
そして、1年と少し前までは新人で何もできなかった後輩がどんどん成長して、後輩の指導にも当たっている姿を見ては、
私は、この一年何やっていたんだろう...
子育てもうまくいかないし母親としても成長してない。
仕事も時短で、迷惑かけているし...
私は、何も成長してないんじゃないかな。
そんな虚無感に押しつぶさそうになっていきます。
その気持ちを埋めるために、余裕がなくても他の時短ママさんが休んだ時は、
「私に振ってください」
「大丈夫です」
と、自ら仕事を増やし、こうやって頑張れば病棟で役に立っていけると自分を鼓舞していきました。
後々、当時一緒に働いていたスタッフからは、
って、言われたこともありました。そんなバカなと思いながら、そんな風に他のスタッフには見えていたんですよね…どれだけ自分のことがわかっていなかったのか笑
しんどさを表情や態度には出さずに、ニコニコ平気なふりしてやっていたけど、心は焦りと緊張と、ミスややり残しはないかといつもピリピリしていたので家に帰ってからの疲労感は凄まじかったです。
そして、感情に蓋をしながら頑張る私で一日過ごすので、家に帰ってからの反動が大きく、息子の泣き声や抱っこをせがみ足にまとわりついたり、些細なことで始まる癇癪に、常にイライラしていました。
子供の寝る時間が迫るのに終わらない家事に焦り、怒りながら「早く食べて!」と、子供にご飯を食べさせ、ヘトヘトでカラスの行水のように風呂に入れ、子供の寝かしつけながらも、明日の準備、洗濯、書類の確認と頭の中は休まることがありません。
あー、ここで寝たらあかん....
まだ...やってないことある...
ZZZZZzzz...
疲れには勝てずに寝落ちし、夜中に起きたり朝まで寝てしまって焦りながら1日がまた始まる、そんな毎日を繰り返していました。
もちろん旦那も
「そんなやらんでいい、いい」
「いい、いい。」
「残しといてくれたら、やるから。」
と、言ってくれていました。
けど、その時の私は
いい、って言うけどやらなかったら誰がちゃんとやってくれるのよ!!そう言っても最後は確認しやなあかんし、忘れてることもあるやん。
簡単にいいって、言わんといて!!!!
目の前の人にさえ甘える、助けてを言うことができていなかったし、してもらうことに対して感謝を感じることもできませんでした。その余裕は私には全くありませんでした。
逆に、
私は仕事も育児も頑張ってるもん。
あんたには負けへんねん!!!!
みたいに、旦那に対して敵対心を持っていました。周りは信じられないし、私の周りは敵だらけだから、「すごいね」「ありがとう!」って言わせてやる!!そんな気持ちだったのだと思います。
そんな毎日を送り続けた私は、
私って何やってるんやろう...
子供に怒鳴ってるし、仕事もちゃんとできないし。
私、何がしたいんやろう...
何のために仕事復帰したんやろう....
と、ぐるぐる考えて解決できない重い苦しい気持ちの中をさまよい続けるのでした。
もう頑張れません、ごめんなさい / 2人目妊娠と退職
仕事と、育児との両立がどんどん苦しくなっていき、何のために仕事復帰したんやろう....と、解決できないループの渦の中をさまよっていた新米ワーママの私。
2年と少したった時、2人目を妊娠します。
育児をしながらつわりと戦い、仕事をこなす毎日でした。この時、人手も少なく時短勤務でありながら新人指導のスタッフにも入っていました。
新人スタッフが受け持つ患者さんの情報を把握したいし、座って通勤したかったので朝は6時20分に家を出て電車に乗り、残業もしていました。なんのための時短勤務なんだ状態...
保育園に間に合わない場合は、義父母にお迎えを頼んだりしていました。帰りの電車に乗るとすぐに睡魔がおそってきて、あわてて最寄駅で降りる。
疲れた体に鞭打って保育園に行き、子供を乗せて必死で自転車をこいで帰りました。
帰ってからもゆっくり休めませんでしたね〜。頭の中は、家に帰ってからやること、次の日の仕事の段取りでいっぱい...そしてまた、次の朝も薄暗い中、家を出る。その繰り返しの日々でした。
金曜日、仕事が終わって家に着いたとたん玄関でしゃがみ込んでしまい立てなくなりました。緊張の糸が切れて、息子を抱きしめてワンワン子どものように大泣きしました。
そんなママの姿を見て2歳の息子は「ママ!!ママ!!」と言いながら、私の頭をなでてくれて。情けないやら、嬉しいやらでまた泣きました。
もうだめだかもしれない。
私は、ここでもやっていくことができないかも。
どう頑張ってももうやれない。
私は、根性なしのお荷物。みんな頑張ってるのに仕事も子育てもまともにできない。いつも頑張りきれずに辞めてしまう。ここにも私の居場所はないんだな…でも、こうやって泣き出して息子に頭撫でてもらうような母親ではダメだ。
何か変えないとと、退職を決意しました。
今回も誰かに相談できず、夫に伝えても「里恵のキャリアやから好きにすればいい。」のひと言。反対もしないけど言葉も少ない夫に、「家族のことだからもっと話し合ってくれればいいのに…」と、当時の私は思いました。
夫は、何も言わなくても大丈夫だと全信頼をおいてくれていたと、今はわかります。けれど当時の私は、自分の決断に自信が持てないあまりに、「どうすればいいか教えてよ。」と、夫に自分の人生の決定権を委ねようとしていました。この時の私にとっては、自分が選択したことを答えにしていくことはスーパー超級に難しく、それは全て自分への信頼が育まれていないからこそでした。
出産後は復帰せず退職したいと、当時の師長にそう告げました。退職の時は、盛大に送別会も開いてもらいました。
頂いたメッセージには、自分が思っている自分の姿と正反対の嬉しい言葉が並んでいたけれど、嬉しい反面「みんな上手に書いてくれるなぁ」なんて、素直に受け取れない自分が正直いました。言葉をそのまま受け取れません。
だって、人が少ないのに迷惑かけ続けて結局、辞めてしまうから。そんな私だから何を言われても受け取れない。そんな気持ちでした。
子育てから逃げるために仕事に復帰し、両立が辛くてまた仕事から逃げた私。(当時は逃げたと思っていました。)
何もできない自分
根性なしの自分
踏ん張りがきかない自分
そんな自分のイメージをより一層強くし、自分を責めて10年近く務めた職場を退職しました。2人目妊娠中、笑顔の仮面を被って殻に閉じこもった人生どん底の時期でした。
「ライフ」ワークから「ライス」ワークへ / 諦めの病院探し
自分を責めながら長く務めた職場を退職し、2人目を出産しました。
退職したしゆっくり過ごせばいいし、仕事のことはまた考えればいい。今は子育てに専念すればいいと思う反面、始まった2人育児への不安と、長男の保育園問題、貯金はあるのに消えないお金の不安と、相変わらず「悩み」とセットで過ごしている私だったのですが。
そんなことを考えているうちに、看護師の求人を見るようになっていきました。
今思えば、焦ることんなて何もなかったんです。今は扶養に入ってやっていけるし正社員で働いていたから貯金も少しはありました。なのに、この頃はいつも通帳とにらめっこしてて、どんどんお金もなくなってるって感じていました。
私の居場所もなくなって、息子の保育園にいられる日もどんどん少なくなっていって、いつも何かに焦っている感覚でした。
そして、新しく働く病院を決める項目として今までは、福利厚生やお給料それと合わせて何より大切だったのは、
やりたい看護ができるかどうか
看護師としての強みを活かせるか
その病院の看護理念
ここを中心として見ていたのですが、この時はほぼ見なくなりました。その代わり、
子供の託児所があるのか
定時で帰れるか
休みが取りやすいか
休日の数
給料
ボーナス
これらの項目を重要視しました。もちろん家庭を持ちながら仕事をする上で大切です。けれど私は、どちらかに重きを置いて片方を諦めるような100かゼロでしか決められなかったんですよね。両方得られるなんて考えはありませんでした。
そしてお金がない不安からも逃れたくて、夜間託児と夜勤手当に目がくらんでしまい(笑)数年ぶりの夜勤もやることに決めました。
・長男の保育園を継続する
・子供との時間を持つ
・通勤が今までよりらく
・それでいて、稼げる
その選択の裏には、
・お金の心配から逃れるために
・不安な子育てから離れるために
・仕事ができる自分を取り戻すために
自宅に近い療養型の病院で、夜勤ありのフルタイム看護師での就職を決めました。この時の私の、色んなことを諦め今の生活に合った環境で働く選択は、看護師としての仕事がライフワークからライスワークに変える選択でもありました。
過去に出会った患者さんの未来 / 療養型病院での看護
私のやりたい仕事、好きな看護とは何か。そんなことを考えず、今の生活に合った場所で働くことを決めた、長男3歳、次男1歳の母だった私。
新しい病院に就職して衝撃だったことが2つありました。
今までの常識が覆りそして、今の活動に繋がる大切な根幹の部分を経験したのでした。
衝撃その1
それは、
これは、過去に出会った患者さんの未来なのか?と、いうことです。
私、病院見学の時、少し違和感を感じたんです。
何だろう???
古いってだけじゃないな...?
何だ??
それは、患者さんの生活くささがないことでした。
今までの病院では、患者さんや家族の声が聞こえて病室にも、その方の生活感が少し垣間見えたりしていました。仕切りのカーテンがあり、好きな花や絵が飾ってあったり、ラジオやテレビもかかっている。患者さんが歩いていたり検査に行ったりと、動きが見られました。
今回入職した病院は、9割の方がほぼ寝たきりの患者さん。私の病棟には約90名の患者さんが入院されていたので自分で動けるのは、たった9名。
駅からも遠い立地で平日の面会はほぼなく、寝たきりの患者さん同士の会話はもちろんありません。
看護師がつけないとテレビはつかないし、管理上の問題でベッドサイドに本人さんの物がほとんどありませんでした。
私たちのような食事の代わりに、決まった時間に鼻や胃からチューブで栄養を直接注入します。体の向きを変えるのを医療介護者がお手伝いし、オムツ交換、寝衣交換、顔を拭いたり、ヒゲを剃ることも全て介助します。
体拭き以外には、決まった日に横になったまま入れるお風呂に入ります。
定期検査と、毎日の全身状態の観察を本人の意思とは関係なく、毎日毎日繰り返されていました。
その毎日を知った時に思い出しました。
脳神経外科時代や呼吸器内科、循環器内科時代に出会った患者さんがもしかすると今こうやって過ごしているのかもしれない….
過去に出会った患者さんの未来をはじめて見た感覚になりました。ですが、この未来は想像もできませんでした。
以前の病院で医師とご家族との意思決定でなされた処置、胃にチューブを入れること、太い血管に点滴を入れ続けること、胃に穴をあけて直接栄養を入れれるようにすること。
当時はそれが最善だと思っていたけれど、二回目の転職先で見た患者さんたちを目の当たりにして、患者さんのケアをするたびに
「患者さん本人は、この今を想像したかな...」
「この方は今、幸せなのかな...」
「今まで何をやってきたんだろうな…」
そんなことを考えていました。
それと同時に、考えたところでどうすることもできないもどかしさと諦めを感じながら仕事をしていて、「迷惑かけたくないな…こうやって生きるのは、私はしたくないな。」なんて思いながらも、何かそのための行動をとることもありませんでした。
目の前の患者さんが、自分の命を通して教えてくれていることの本当の意味なんて考えもしないし、完全に他人事です。自分には絶対に起こらないような感覚でもありました。
寝たきりの患者さんに、看護師の私が看護を提供する。家族があまり来てくれなくて自分で体も動かせずコミュニケーションできない患者さんを、心の中で寂しい可哀想な人と思って、日々の看護を淡々とこなす毎日でした。
こうやって言葉にすると、どれだけ私は人に上下をつけて見ているのかがわかりますね。同情や憐れみから発して看護をしているような。そんな、自分の嫌な見たくない部分に愕然としますが...
こうやって、役に立つ場所、自分の居場所を必死に探していたんだと思う反面、患者さんの顔を見て「おはようございます〜!!」「また、明日来ますね!!」と、お話しすることは大好きな自分もいて。
「今日は、息子の誕生日なんですよ〜」
なんて、検温しながら自分のことをずっと喋ったり。反応が乏しくてもこの方は生きている、私と話しているんだもん。そんなことを感じる時間もありました。いろんな感情が混ざり合って看護をしていたように思います。
人に上下を作って役立つ居場所を探す自分と、ただただ人と関わることが好きで看護が好きな自分。そんな、表と裏の自分を知ることができた経験でもあります。
病棟で寝たきりで過ごす患者さんは、本当にこの人生を選んだのか?
こうなることを自分自身で想像していたのか?
この病院での看護を通して感じた疑問や違和感は、今後私に大きな大切な気づきをもたらしてくれます。
やはり全ての経験は全て意味があるんですね。苦しんだり悩んだりどんな道を進んでも、遠回りしても、考えることをやめなければありたい自分に辿り着けると思います。そう強く思える大切な経験でした。
嫌なもんはいや!常識が覆る療養型病院での勤務
新しい病院での勤務が始まった私の
衝撃、その2
それは、私の常識を覆すスタッフ達です。
他のスタッフ達も私と同じように、以前は総合病院でバリバリ働き、結婚・出産を機にセカンドステージとして働いている方々ばかりでした。
以前は師長代行などやって役割が上だった私が、1番若いレベルの立場大逆転。「30代!?まだまだピチピチね〜!!」なんて言われる状態。
中には親の介護をしながら働いている方や、子供の介護をしている方、出産で娘が里帰りしてきているおばあちゃんの方も!だからなのかな?適度に肩の力が抜けています。
病院としては、救急病院と違って患者さんの病態も落ち着いていて、時間の流れが全く違うことはありますが、1看護師に対する患者数は圧倒的に増えるので、中身は違えどバタバタ感、忙しさはどこに行っても同じだなと思いました。
そんな中でも、ここのスタッフは徹底していました(笑)
これはできるできないを、ハッキリ言う。
体調が悪いとすぐに申し出て早退し無理しない。
周りも早く帰れと急かす。
「ごめんね、ありがとう!」と、スッキリ帰る。
朝、休みの電話が入っても「お互い様」が、フツー。
休みの人の業務をさささと分担。
どんなに忙しくても残業はしない、休憩時間を削らない。
助け合って終業時間ピッタリに帰る。
帰り仕度がめちゃくちゃ早い(笑)風のように去っていく。
派閥とかもあったけど、基本みんなぼちぼち仲がいい。
そして、超絶お喋り!!会議でも、意見を出しまくります。
そして何より。
子育て真っ只中の私にも「みんな通ってきた道だから」と、とても温かくサポートしてくれました。次男が熱が出た時は、託児所なので病院の内線に子供の発熱で連絡が入ります。すると、すぐに私の担当が振り分けられて、「さっさと帰んなさい!!!」くらいの圧をいつもくらっていました(笑)
「すみません、何度もすみません」と言う私に「お互い様よ、大丈夫」と、サラリと受け入れてくれていました。
今思うと、スタッフに恵まれて本当にありがたい職場でした。あの職場だから夜勤もやってフルタイムで仕事ができていたと思います。
適度に力が抜けているからこそ、無理な頑張りを必要としていないし、周りにも求めることもない。できない部分は、必ずお互い助け合う。
だからこそ、人に対しても寛容になれる。
それに、人生で超えてきたいろんな経験が私と比べ物にならないほとで、それらがその方の寛容さや心の広さを形成していたんだろうなと感じます。
ですがこの頃の私には、全くない考えであまりにも衝撃でした。
頑張り続ける私でないと役に立たないしいる意味がないと頑固に(笑)思い続けていたので、スタッフの優しさに甘えながらも、心の中ではスタッフを心から信じられなかったのです。
迷惑ばかりかけてないか?このままじゃ看護師として何もできなくなる。だから、この状況に甘え続けてはいけない。この生ぬるい環境にい続けたら私はダメになってしまう。私は、このままの毎日で終わってしまうのは嫌だ。
と、また焦りを感じ始めるのです。
この時の私が何か違っていたら、もっと楽しく肩の力を抜いて仕事ができ、スタッフの優しさに素直に感謝できていたのかもしれません。
でも、頑張ることが自分にとって必要なことと信じて疑わなかったからこそ、受け入れられなかったんですよね。
その場所にいて甘えが出てダメになるのが恐怖と思うほど、昔の私は頑張ることをやめられず精一杯だったと思います。こうやって環境を変えても自分を責め続けて頑張るをやめられない地獄の日々は続きます。
産んであげられなくてごめんね / 3人目の妊娠と手術
私の常識を覆すスタッフと出会い、甘えられる環境なのに自分を追い込んでいく療養型病院での看護師時代。
このままではいけない、この生ぬるい環境にいてはいけない。と、過ごしていた時、3人目の妊娠が分かり、すぐに次男を産んだ産院を受診しました。木の香りがしてすごく心地のいい産院で、またここにこれたと少し嬉しく感じていました。
次男と一緒に絵本を読みながらワクワクしながら待合室で順番を待ちました。先生と助産師さんと「大きくなったなぁ!!」と、話しながら診察室へ。
その日はまだ小さく、赤ちゃんの心臓の動きは見られなかったので1週間後に再受診することになりました。ワクワクしながら1週間を過ごし、残っていた検査薬で再検査をし間違いないよね、と自分に言い聞かせたりしていました(笑)
そして、1週間後の受診日。
待合室に行くと、次男を産んだ時に一緒だったママさんが健診に来られていました。お腹は大きく、8ヶ月とのこと。何だか嬉しいご縁だなぁなんて思いながら診察へ。
けれど、内診の時から先生の様子がいつもと違うことに気づきました。エコーを見ていつも笑って話しかけてくれるのに、今日は表情が固い。
その後先生は、写真を見せながら
「うーん。赤ちゃんのな...心臓の動きが見えないんやわ。」
と、歯切れ悪く言いました。
看護師だとやですね〜。分かっちゃうんだもん。
エコー写真と、妊娠検査薬の反応、血液データと、姉が同じ状況を経験していたこともあり先生に伝えました。
「先生、姉が一度 胞状奇胎で手術しました。」
と、先生に伝えました。
胞状奇胎というのは、受精卵の中の異常細胞が増殖してしまう病気で、放っておくと癌化する恐れのある病気です。なので、手術して受精卵と異常細胞を全て取り出さなければなりません。手術後も、癌化しないか定期検査を続けていきます。
「そうか....よう分かってるんやね。」
「病院を紹介するから一度、受診してもらうわな。」
「血液のデータがデータやから、早く受診してな。」
「色々な、落ち着いたら顔見せにおいで。待ってるわね。」
先生は、少し冗談を混じえながら終始、暗くならないように話してくれたような気がしました。
顔見せに来ても良いんや。でも、来れる時が来るのかな...
私もただただ先生の冗談に笑うしかなくて、私の感情おかまいなしに動き回る息子を目で追っていました。
診察室に入る前と出た時の待合室が全く違いました。
私だけ、他の人となんか違う..
話をしたママさんもいて「お産、また頑張りましょうね!」と、言われた言葉にもニコニコと対応しました。
自分のことなのに、なんか他人事に感じる。けど、しっかり立って前を向けないほどのこの重たい気持ち。
ああ、もう私はここには来れないんや.....手術やもん。
産んであげられなくてごめんね。
と、思いました。
旦那にも連絡し、その日は早めに帰って来てくれました。状況を説明すると、涙がやっと出てきました。なるべく早く受診した方がいいと言われていたので、勤務先に連絡し翌日に受診し再検査の結果、週明けに手術をすることが決まりました。
持ち物、書類、食事制限...もろもろ説明を受けます。何だか、一患者の私として説明を受けるんじゃなくて、看護師として説明を聞いている感じというか。第3者として聞いている感覚が抜けきらないまま淡々と話を聞いていました。
今思うと、自分に向けた説明と受け取ると、苦しすぎて全部が崩れそうな気がして、感情に蓋するために看護師の私で守るような、そんな感覚だったと思います。
手術当日、手術室に入って呼吸をして眠って目を開けたら、手術は終わっていました。
変な感じやし、気持ち悪いし体がだるいし...めちゃくちゃしんどい...
ああ、もう赤ちゃんはいないんやなぁ...
姉と同じ病気になってはじめて自分ごとになりました。
私にはそんなこと起こらないとさえ思ってきていましたが、この経験から自分が生きてることも、子供を産むことも、子供が産まれてきてくれることも当たり前じゃないと体感しました。
このことがあって、長男と次男が元気に産まれてきてくれたことに心の底から感謝をしました。体のだるさと悲しみが続きましたが、2人の笑顔に何度も救われました。
当たり前じゃない今を教えに来てくれたのだと、思えています。
本当に変わるべきは私じゃないか? / 3人目の出産と看護師を辞める決意
胞状奇胎という病気を発症し、正常な妊娠ではないため手術をすることになり、術後は定期検査のため通院が始まりました。
術後の経過は良好で数ヶ月後には、無事に通院も終了。
さぁ!!また、夜勤もしてバリバリ働くぞ!!
とは、なりませんでした。
自分の中で何かが変わりました。
時短勤務を申請し、少しのんびり仕事をしたり、4人で海外旅行でも計画するか!?なんてことを考えるようになっていました。頑張る力もこの時には残ってなかったんだろうなと今となっては思います。
そしてそんな矢先に、これまたビックリなことが起きました。
そうなんです、3人目を妊娠しました。
予想外のことで...えらいビックリしました。ええ(笑)
そして、また同じだったら...という不安もあったので念のため通院した総合病院を受診しました。
ドキドキしながら診察へ。前回の時のことが頭に浮かんでくる...何回も深呼吸...
すると、エコーの映像にはピコピコと心臓のがハッキリと写って見えました。赤ちゃんの周りの様子も異常は見られないとのことでした。その後も、異常なく経過が進み元の産院での出産を希望し戻ることができました。
まさか戻って来れるなんて…
長男、次男の時のつわりとは比にならないほど、マーライオンの日々を過ごし(笑)2人の子育てと仕事に追われて嵐のようにマタニティライフは過ぎ去っていきました。
そして、私の最後になる出産は、旦那と長男、次男の付き添いの元、それはそれは賑やかな、産院に到着後1時間で産まれる超スピード出産でした。
何度経験しても、痛いもんは痛い。そして、すぐに忘れる。
私の人生にビックバーン!の様に
変化をもたらしてくれた長男
まだまだ頑張ってない?と、
優しく手放させるためにきてくれた次男
そして、
2人を出産しても1人で頑張るをやめない私に
生きてることへの感謝を
伝えにきてくれた経験と
その後
家族総出の最高の出産として
私の元へきてくれた娘
子供達は私に、
ママ。
自由に生きて良いんだよ。
好きを追求して良いんだよ。
自分を我慢しなくて良いんだよ。
そんなママが大好きだよ。
と、人の目を気にし、自分にも自信がなく自分さえ分からなくなって人生を半ば諦めている私に伝えるために来てくれたのだと思います。私が、自分の人生を歩くためにみんなが来てくれました。「頑固なママだな〜仕方ねぇなぁ〜」って来てくれたんだろうなと思います(笑)
5月に娘を出産した翌年の4月には、長男が小学校へ入学する時期でした。長男は、どんどん成長し私の手を離れていってしまいます。
私の元から離れていってしまう長男を私は不安ではなく、信じて見守ることができるんだろうか?見守るためには、私が何か変わらなければいけないんじゃないだろうか?子どもを変えるんじゃなくて、環境を変えるんじゃなくて、私を変えないといけないんじゃないか?と、考えるようになりました。
まー、「長男も変わってくれるといいな」という感情がなかったわけでもないです。とにかく、現状を変えたかったし、変えるには今までと同じことを繰り返しても変われないということを、どこか心の中で感じていました。もうやれるだけの失敗は繰り返してきましたから(笑)
とにかく長男が小学校に行くまでに心理学を学び、苦しい子育てから抜け出そうと動き出した時でした。そしてそれと同時に、看護師も一度、辞める決意をしますす。ここから私の人生は大きく変化し始めます。
変われるのかも分からないし、こんなに自分にお金を使ったこともない。けれど、現状を変えたくて5ヶ月の娘と一緒に心理学を学びに行くと決めた当時の私に、本当にありがとう!!と、今でも何度も思います。
心理学?心の仕組みって…うさんくさい…やん?
3人目を出産し、変わるべきは自分ではないか?と考えた私は、心理学を学び苦しい子育てから抜け出そうと動き出しました。そして看護師も一度、辞める決意をします。
旦那には、「心理学を学びに行く」とは言わなかったです。いや、言えなかったが正しいかな。そのまま伝えて、反対されても行くという選択がなかったんですね。まだまだ誰かに言われると揺らぐ自分でしたから。
そして、心理学やカウンセリングを学ぶ自分は弱い人だと思っていたんでしょう。そんな弱い自分を見透かされて否定されるのが怖かった。そして、学歴などで夫より劣っていると自分で感じていたからこそ、自分の選択を否定されることに対して悔しさもあったんだと思います。
なので、「子育てが辛い。だから、少しでも楽になるようにいい子育てができるように勉強しに行きたい。」と、確か言いました。旦那は疑う様子もなく、「そんなに辛いなら、楽になるならいいよ。」と、言ってくれました。
当時の私はウソついても、どうしても行きたかったんです。たぶん、今の私なら全て事後報告にすると思います(笑)自分の想いにウソをつかず、よく頑張りました。
心理学のコースに通い始めたのは、紛れもなく私の人生のターニングポイントです。
この時から心理学を今も学び続けているのですが、看護学生時代にも学んだことも多く(やっと座学で学んだことが結びついた!!笑)
看護と通ずることがたくさんあり、どんどん学ぶのが楽しくなっていきました。学べば学ぶほど心は全ての土台だと感じ、心のあり方で見え方も変わってくることを実践経験によって体感していきます。
病気であっても健康であっても、どんな人とってもまず必要なのがカウンセリングだと確信していきました。
病院という垣根を超えてできる看護、心の看護だと感じるようになっていきました。
どんな私も愛されている / オセロのように黒が白に変わる
5ヶ月の娘を連れて心理学を学び、自分と向き合うと決めた私。
ですが当初は、心理学を学ぶ!!カウンセリングを学ぶ!!という強い気持ちがあったわけではありません。
ただただ、子供にイライラし怒鳴って手を出し、それでも上手くいかない子育てと、私に興味のない気の利かない旦那にイライラし、仕事も全てうまくいかなくなった。そんな地獄の毎日をやめたい一心でした。
講座の当日、私は講座の合間で授乳がしやすいように旦那のトレーナーを借りて来て行きました。目立たないように、無難に、自分のことではなくちゃんと母親をしています。そんな風に見られるように。
6ヶ月間、心理学とカウンセリングを学ぶと共に、自分自身の心と嫌という程向き合って行くのですが、講座で潜在意識の具体例を説明されても全く理解できませんでした。
潜在意識レベルでは願いが叶っている。
あなたは、怒りたくて長男を怒っている。
これが、何度説明されても理解できないんです。
「え?そんな事あるの?」「そんな事あるわけないやん」「だって、それが起きてるから私は苦しいのに…」分からない自分が分からないレベル笑
今ではわかります。
私が怒っているのは息子が怒らせるから、私がイライラするのは旦那が何もやってくれないから、と、周りの環境・人に動かされている自分しか見えていなかったからです。それは全て、自分の中のネガティブな信念や価値観がその現実を作り上げていたから。
今は、潜在意識も含めて自分を見ることが当たり前になっています。
そんな過去の自分を思い出すと、ここまで進んできたんだなぁと自分の進んできた過程を労うこともできます。
毎日毎日、自分の心との対峙してきました。
何十年も自分自身の心を置いてけぼりにした分、それ以上に意識して自分を見ていく毎日でした。今までとは違う生き方、考え方は、当たり前になるまではすごく意識が必要で正直、楽ではありません。
けれど、自分の中の解釈が変わって、変化した現実を自分で見られたとき、オセロのように黒が白にパタパタパタパタパタ!!!!!と変わるような、ほんわかあったかくて嬉しくて幸せに包み込まれる感覚になりました。
今までの人生も全てを否定して生きてきたけれど、その過去さえも愛あるものに変わっていきました。
あー、心から幸せになるってこういうことなんだ。
心理学・カウンセリングは、すごく苦しかった私の人生を、幸せへとどんどん進めていってくれました。
講座の中で講師が、「あなたは、いつも楽しそうだなぁと思って。」と言ってくれたことがありました。やっと心から笑えるようになってきたんだと思います。その言葉を素直に受け取れる自分がすごく嬉しかったのを覚えています。
人生の点と点がつながった瞬間 / 人生のターニングポイント
心理学とカウンセリングを学び、嫌というほど自分と向き合って見える世界が徐々に変わっていきました。
それと同時に、カウンセリングを通して病院の外で心の看護をしたい。その気持ちが大きくなっていきました。
けれど何をどうやっていこうか…
看護師として組織の中、病院の中でしか働いたことのないため不安....けれど、それより何より希望や遥か先の夢を描いてワクワクする気持ちで溢れていました。そんなやりたいに忠実に進む自分になれたのも嬉しかったです。
そんな中、ある方のブログで気になることが書かれていました。
いっぺん死んでみる
なんじゃそれ!?
元の訪問診療医のブログを読めば読むほどさらに気になる。その方のブログを舐めるように読む日々が続きました。この先生は何者や...
直近でそのワークショップが開催されるのは、大阪でした。
行くしかない!!!
けれど、旦那に子供を預けること言わないと...
なんて言おう…
奈良の親の力を借りたらそんなに怒られないかな...
いや、お母さんにも何言われるかわからへん…
どうすんの?何て言う?どうする.....
............。
いやいやいや。
これは行くしかないでしょう!!
今まで仕事ではなく、楽しみのために子供を預けて1人で出かけるなんてやってきませんでした。せいぜい数時間、友達と食事をするだけ。それ以上は妻失格の、主婦失格の、母親失格になると思っていましたから。
でもいきたい。
これ逃したら一生後悔する!!
行かなかったら、後悔メーターがふり切れるのが想像できるほど行きたい。
当時の私にとっては人生かけた大勝負!!くらいの感覚でした。
結局、家族で奈良の私の実家に行き、私がワークを受けている間は夫が3人を見てくれて、奈良の家で帰りは合流することになりました。
そして、ワークを受けた結果。
今までの私の人生バラバラとした点と点がつながって一本の線になりました。バリバリバリ!!と、体に雷に打たれたような体の中に一筋の光が通ったような感覚でした。
自分が本当に大切にしたいものと、命の最期に向かっていく患者さんの気持ちを看護師を辞めて初めて知りました。
今までの患者さん、祖母、叔父さんが、大切な命を通して教えてくれていたのは、「あなたは?私を見てどう思うの?あなたはどうするの?」と、自分の人生を生きていない私に、問いをいつもいつも投げかけてくれていたんだと知ったのでした。
化粧が全て剥がれ落ちるくらい泣いて泣いて.....気づきがいっぱいで心が温かくなって、また泣いて….そんな私を優しく見守ってくれる先生の笑顔がとても嬉しかったです。
私、女医さんが苦手で、コソッと避けるタイプだったので(笑)こんなファンキーで温かい先生もいるんだという驚きもありました。
私の核となる部分だ。そう感じました。
認定講師の試験を受けて認定講師となり、今は自分が開催する側に立っています。講座生さんを中心に、このワークをお届けし続けています。
ひとの命は、有限です。
最期は全ての人に平等に訪れます。
そんな、一度きりの人生の最期にどう過ごすのか。
どんな最期を自分で選択するのか。
それを決めるには、元気な今から、どれだけ自分を大切に過ごし、周りの大切な人の幸せも願い、自分の気持ちを素直に差し出し、自分のやりたいに正直に行動できるかに尽きると思っています。
生き様は、死に様です。
この今精一杯生きている自分全てが自分の人生の糧となり、大切な人にとっての幸せになる。それを信じて進んでいく。
自分の終わりを知ることで今を生きることができると思っています。
何百人もの方の最期を見届けてきて、看護を通して命の最期を見せてもらえるそんな貴重な仕事に携われていたことを誇りに思います。
反抗期以来の反抗 / 自分の答えは自分で出す
いっぺん死んでみる〜今を生きるためのワークショップ〜を受講し、雷を受けたように、目の前が一気に開けた感覚がしたあの日。会場から出て感じた風や、においや、音、全てが受ける前と全く違って感じました。そんな気持ちで実家に戻った私。
ここで、ひと悶着、自ら引き起こしました(笑)
前日から私の実家に泊まりワークショップ当日は、実家から大阪に家族5人で出かけ途中で私は、4人と別でワークショップへ。旦那が、子どもたち3人を連れて過ごしてくれていました。
家に帰り着いた時には、みんな帰り着いて食事中でした。ワークを受けた後で、やや興奮気味でお礼を母に告げた私。しかし母は「はやく子供達にご飯食べさせないさいよ」と無愛想に言いました。終始、何だか不機嫌な様子....やっぱり好き勝手したから怒っているのか...
それでも、その日の興奮が収まらずワークでの感想を話しました。
すると母は言いました。
「なにを、大袈裟なこと言ってんの。」
「本当にあんたは、夢みたいなことばっかり。」
「はー、はやく子どものこと見なさいよ。」
私が期待していた言葉は、なに1つ返ってはきませんでした。楽しかった、幸せだった気持ちに泥水をぶっかけられた様な、ていねいに描いた幸せな絵をグシャグシャっと丸めて捨てられた様な、胸と胃のあたりがギューーーっと縮まる感じがしました。
もうここからは、ギクシャク。
そして、帰る時旦那に母は、「大変やったやろう、ありがとうね。」と、言いました。私も、切り替えて「今日はありがとうね、またね。」と、言いました。けれど、母はすぐに返事をすることもなく。そして、ため息混じりに「はいはい、さようなら。」と、吐き捨てるように言いました。そんな風に見えました。
ぷつーん…というか、
ブッツーーーーーン
緩んだ感情の蓋が外れて、一気に出てきてしまいました。
何それ?何なん?その言葉?
不機嫌な顔して私が喜ばん言葉言ってそれで、嬉しいんか!!!
ずっとや!!小さい頃からずっとそんな顔ばっかりしてそれを見る度に苦しかったんや!!!
親のそんな顔見るのどれだけ苦しいか分かってやってんのか!!!
お母さんに何の迷惑かけたんよ!!!
自分のやりたいことやって何が悪いんや!!!
......
覚えているのは...このくらい。
我ながら...やってしまいましたね。
母は、「またや、あんたはそうやって...」「またや...」と、言って終始、悲しい顔。その顔で何も言いませんでした。
またや、あんたは...
この言葉は、反抗期の頃によく言われていた言葉でした。何を叫んでも、何を言っても同じで返ってくるこの言葉。何にも通じないと思わせる言葉でした。
あの頃の私にフラッシュバックした様な、気もできなくなるような感覚でした。旦那が心配して私を止めに入り、そのまま振り払って実家を後にしました。
今は母の気持ちが分かります。
母は自分の父にも、自分の夫のにもいつも伺いながら生きてきた人です。だからこそ母は、夫に子ども3人を任せて自分の好きなことをしている私が理解できなかったと思うし、黙って3人を見てくれている婿に対しても申し訳ないと思ってくれていたのだと思います。
娘が夫から何か言われないように。
娘の家族が円満で幸せに過ごしてくれるように。
いつも私のことを想う母なりの愛情だったのだと思います。
それに気付いたらあとは、
母に心配かけない望まない道を選ぶのか
自分らしく幸せになる道を選ぶのか
決めるのは私自身です。
そして私は、その覚悟が今までありませんでした。
私に、いつも大切に思ってくれている人がいると信じて進む覚悟を、持つために起こった出来事だと今は、思えています。
自分でふっかけたケンカだけどね(笑)
ちなみに母とは仲良く過ごしていますし、日々感謝でいっぱいです。
もう誰かのせいにして、幸せにならない私はおしまいです。
人生の生き直し
心配かけるような人生でも、心配かける私でも、その私で愛されていると信じて進む覚悟。
母への反抗から、心新たに決意した私。
今考えてみると、自分でもびっくりするような決断をできるようになってきたなぁ...なんて思ったりします。
その1つが起業です。
看護師じゃない私では役に立たないと信じて生きてきた私。
けれど、本当はどう生きていきたいのか?看護師を辞め、起業して伝えていきたい思いは何なのか?この思いを誰に届けていきたいのか。
ここをじっくりじっくり考えて行動し、時に失敗したり思うような結果にならず悔しい思いをしたりする毎日を、今も過ごしています。
そんな中、前をいく人達や自分らしく輝いて進んでいる人達を見ていると、すごく自分がちっぽけで、無力で、私のしていることに何の意味があるのか
なんて思ってしまう時も多々あります...
けれど、今までと変わったところもしっかりあって。
ネガティブな気持ちの沼に沈んでしまうことなく、そう思うのはもっと自分を信じて進んでいきたい証拠で、この思いを伝えることを諦めず、この自分のままで今の精一杯でやっていこう。
小さな一歩でいいから進んでいこう。私は大丈夫。
と、誰よりも自分の味方となれています。自分の真ん中の軸がしっかりあることに嬉しく感じます。
そして、私の思いを伝えることを諦めなければ、その思いを私以上に信じてくれる人と出会い、「頑張ってるよ、素敵だよ」と、言ってくれる人がいることが、すごく嬉しく何よりものパワーになっています。
もちろん、家族との間でも心の絆が深まってきています。
家族が私のことを応援してくれて、私も夫や子どもたちのことを心から応援できる。私が本当に欲しかった自分の幸せを今、手にすることができています。
ありのままの私を受け入れてくれる世界がありました。心の力がホッと抜けて、ここにいていいんだと、思える感覚。こんなに心地がいいんだなぁ...
と、感じた瞬間でした。
そしてこれは、行動しないと分からなかったことで、怖くても少しずつ進んだからこそ現実が変わっていきました。
アインシュタインの言葉で
問題は、それが起こった時と同じ意識レベルでは解けない
という言葉があります。
生きづらくて、人のことを信じられなくて、人生を半ば諦めていたままでいたら、私はこの苦しさからは抜け出せなかったでしょう。
何よりも、ここから抜け出す。絶対に幸せになる、家族を愛して幸せにすると決めたからこそ動き出しました。
心から安心できる居場所を見つけた私だからこそ、今度は誰かの居場所を一緒に見つけていきます。そして、居場所を見つけた方が今度は、失敗して悔しくても、悩んで苦しくても、そのままでいいよ、あなたはここにいていいよ、よく頑張ったねと伝えられる居場所となるように。
終わりから始まる今を生きる
諦めの人生を、笑顔あふれる人生に生き直すと決めた私。
笑顔あふれる人生?私にとって、どうなると笑顔あふれる人生になるのか?そもそも、笑顔あふれる人生って何だろう…?
これを考えて1つの答えに辿り着きました。
それは、
自分の人生の終わりを思い描いて生きる。と、いうことです。
日々、仕事して子育てをしていると正直、色々あります。
ありますよねぇ〜(笑)
けれど、イライラしても、失敗しても、悲しかったり苦しかったり感情が揺れ動く出来事があっても、私は幸せだと周りへの感謝と共に思えるようになりました。
けれどその一方で、
この想いを人生の終わりにも感じていられるのだろうか…
とも思うのです。
いろんな痛みや絶望、悲観、嘆きなど、自身の人生の終わりに1歩1歩と向かって過ごされている方々の心境を、看護師としてそばで見させてもらって来た経験があるからこそ、どんな感情を感じてでもどうやったら、人生最期まで後悔なく生きられるんだろうか。
と、看護師人生、子育て人生を通して考えてきました。
と、思った時、
患者さんと同じように自分自身の終わりを思い描いてみました。
深呼吸をし、目を閉じて、私の終わりを想像する…
その時に出てきたのは、長男の顔でした。
長男が私に「いつも僕の味方でいてくれてありがとう。」と、涙を流しながらも少し笑顔で言ってくれている姿でした。
私の後悔ない人生、それは、
長男の味方でいる人生でした。
長男は好奇心旺盛で、喜怒哀楽を全身で見せてくれる人です。
人の顔色を伺い、誰かが良しとすることを選ぶ人が認められると思って生きてきた私が、ダメだと思うことを全てやってのけるような子です(笑)
そんな長男の味方でいるには、悩み、もがき苦しみ、時には嫌われ、批判され迷惑をかけても、助けてもらいながら楽しく進む自分。
時に動けなくなりそうになっても、失敗を恐れず好きをひたすらに追求し、その自分で周りも幸せにしていくと覚悟をもって進んでいかないと味方にはなれないんじゃないか?と思ったのです。
もちろん、長男が批判される人生を送るとは限りません。現に、長男はたくさんの人に恵まれて才能を開花させていっています。
けれど、長男のように自分全開で生きる自分を許していなければ、長男のもしかしての時の姿を理解することなんて到底無理だと思いました。
きっと私のことだから「あなたが悪いんでしょ。」とか言いかねません。
どんなことがあっても長男の1番の味方でいること。
これが、私の最高の人生です。息子の味方でいることは、ひいては自分の味方でいることです。そう考えた時、息子は私の人生の意味を教えるために、私の元へ来てくれたんだなぁと、胸が熱くなって涙が出て来ました。
息子の味方でいることを全うできた時、私は人生悔いなく終われる気がします。そんな最期を描きながら周りに感謝し、進んでいこうと思います。
これが、私の人生です。
【エピローグ】過去は変えられるとしたら…
ありがたいことに、長文のそれも二部構成の人生ヒストリーにたくさんのご感想を頂いています。
ここには書ききれないほど、たくさん反響を頂いております。
まさか、私自身も自分の記憶をたどってヒストリーとして綴るなんて思ってもなかったし、こんなに反響があるとは思っていませんでした。読んでくださり感想まで頂き純粋に嬉しいです。ありがとうございます。
自分の記憶を巡って文字にし自分と向き合うことで、また新たなことを思い出したり気づいたりすることが沢山あります。時には、新たな周りの愛情に気づいて胸が熱く感謝が溢れてくることも。
ただ、日々子育てや仕事や人間関係に頑張る人にとって、過去の記憶をめぐることは、後ろを向くだけで前に進んでいないように思えるかもしれません。
そもそも、今生きてるのに何で過去?今がしんどいのに、過去を思い出したとしても結局、過去は変わらないんじゃないかな?と、苦しい最中なら当然思うでしょう。私も過去なんて振り向かず必死に前を向いて進んでましたから。
けれど、今はそうは思いません。
なぜなら、過去の記憶を巡るということは、全ての自分をそのまま許すこと、つまり自己受容につながるからです。
それまで頑張ってきた自分自身を思い出し、過去の自分の消化できなかった気持ち、分かって欲しかった気持ち、それらを今の自分が迎えに行って分かってあげるということなのです。
自分自身が味方になること、自己受容こそが前へ進む第一歩となります。
飾らないそのままの自分で生きていけるようになります。
ここがなくては、過去の私のように環境などの外側を変えてどうにかしようとしても答えが見つからず、深い霧の中を右往左往して苦しむことになります。
ですが、なかなかそうは言っても自分1人で、自分と向き合うのは難しいです。何を思い出せばいいのかも分からないし、思い出すこともできないくらい深い底に置いてきていることもあります。
だからこそ、1人で悩まないでください。
言葉を選ばずに言うとしたら、とっとと幸せになってください(笑)
私のヒストリーのように、
1人で頑張り続けるのはやめましょう。
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