【短編】雨の秘境
夕焼けは煮え崩れる玉ねぎのように甘く溶けだして、降り止むことを知らない雨を黄金に染めた。
千年もの間、雨が降り続けている街・深水(シンスイ)は、区域全体の九割が水の中にある。この永い雨災に見舞われるようになってから、深水の民は水に浮く建物を造るようになり、その中で暮らすようになった。人間の「慣れ」というのは凄まじいもので、百年も経てば皆、この不思議な暮らしぶりにすっかり適応した。それから千年経ったとなれば、言うまでもないだろう。
「初めまして、翠蘭(スイラン)と言います。深水出身です。どうぞよろしく」
彼女は十三歳になって初めて、生まれ故郷の深水を離れて別の街の学校に通い始めた。そして初めて、自分の故郷が周辺地域でどう思われてるか知ることになった。
「『呪われた土地』の子らしいよ」
最初は何と言われたか分からなかった。けれども繰り返し囁かれる中で、嫌でも気がついてしまった。
〈深水が、呪われた土地?〉
確かに、世界的に見ても雨が永遠と降り続ける土地は深水を除いて存在しない。翠蘭だって当然そのことは知っていた。
勿論、雨が鬱陶しいと思うことはある。深水を出て初めて気がついた雨災都市ならではの苦労もある。けれど、水面に浮かぶ家々の趣深さ、他の地域には咲かない花々の美しさ……彼女にとっては自慢の街なのだ。その素直な郷土愛が、初めて揺るがされた瞬間だった。
その日の帰り道、バスを降りてからは、あまり記憶が無かった。小舟に乗り換えて湖の中を進む途中、深水でしか育たない年中咲き誇る蓮の花が、なぜだかくすんで見えたことだけを覚えている。夕焼けの黄金は、とても目に染みた。
「おかえり、翠蘭」
翠蘭の母はエプロン姿で娘を迎えると、浮かない様子に気がついて「どうしたの」と心配した。
静かに首を振る娘に「新しい学校で悩みごとでもできたの?」と優しく背中をさすった。温かい手に誘われて、彼女はとうとう涙を堪えきれなくなった。
「『呪われた土地』の子だって……悪いことしたから雨が降るんだって……」
嗚咽で絶え絶えではあったが、母は娘に何があったのかをよく察した。
「よく聴いて、翠蘭」
母は鈴のように澄み渡る声で娘に語りかける。
「確かに、かつてこの街が『呪われている』と言われたのは事実かもしれない。でも、そこに住まう人たちが悪いことをしたから天災が起こるなんていうのは間違っているわ」
翠蘭は心から同意して頷いたが、
「でも、もう学校には行きたくない」
母は少し目を見張って考え込み、やがてふたつ、みっつと頷いた。
「……ええ、分かったわ。でも誤解を解かないまま学校を去るのは悔しくない?」
翠蘭は胸中は逃げたい気持ちでいっぱいだったが、確かに悔しい気持ちはあった。そんな娘の心境を母は見抜いていた。
「……大丈夫、心配しないで。お母さんにいい考えがあるの。幸せな復讐をしてやりましょう」
それから数日後、六名のクラスメイトが深水にやって来た。翠蘭が担任に提案して、街のことを知ってもらい少しでも誤解を解きたいとイベントを企画したのだ。その中には『呪われた土地』と悪口を囁いた者もいた。始めは乗り気でない様子だったが、翠蘭に深水を案内されるうちに、
「また来ようかな」
自然と零れたこの言葉こそ、『幸せな復讐』が成就した証だった。翠蘭の深水ガイドツアーは瞬く間に学校中で話題となり、『呪われた土地』と口にする生徒はいなくなっていった。
夕焼けが雨を甘く染めるとき、翠蘭はいつも、この出来事を思い出す。
彼女が、深水を一大観光地にするきっかけとなる『雨の秘境』を著すのは、まだ十年も先のことである。
#シロクマ文芸部 の #お遊び企画 に参加しています🐻❄️
今回は珍しく少し長めの #短編小説 となっております。
皆さんの日常にちょっとだけ空いた隙間の時間に読んでいただけたら嬉しいです。
それでは、良い週末を〜👋