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ただの天才だと思ってた 3 大学受験

 私が何とか第一志望の県立高校に合格したころ、同時に兄の受験が始まっていた。
 その頃の家庭環境は、中学1年の弟T、高校1年のなおこ、高校3年の兄K、それを一人で育てる母の4人暮らし。「高校までの養育費は出す」と誓約したのに、養育費を値切ってくる父のせいでこの時期は家族みんながイライラを抱えていた。そもそも気分屋の父のために子どもたちは月に一度は無駄に外食に連れていかれ、疲弊するというルーティン。

 そのルーティーンで一番の要になっていたのは、筆者であるなおこである。これは家族の総意らしいのでしかたない。兄の特性も弟の特性も知らなかった時代に、いかに我が家の情報を漏らさず(父からお金あるじゃんと言われるため)兄と弟に失言させないか、場をコントロールする。そして、父に我が家がどれだけ経済的に苦しいか訴える。これは父が3人兄弟のうち、唯一手を上げたことのない子ども(女だから?)なら耳を貸すのではという作戦である。

 このルーティーンは離婚成立直後から発生していたが、最も家庭が疲弊していたのは、兄の受験の頃である。ここでは、兄と弟の困難さを示すために、その外食の一例を挙げる。

 ~中略~
 弟「それでこないだ携帯ショップに…」
 私(これお母さんがガラケーからスマホに変えた話(つまり我が家の経済状況の話)しようとしてる!?)
  「ババ(祖母)がね!ババがかんたんスマホにしたんだよね!?
   ね?お兄ちゃん」(弟の足元を蹴る)
 兄「え、それってババだっけ?」
 私(こいつもか!)(兄の足元を蹴る)
 兄「! あ、そうそう。そんな感じ」…

 ~中略~
 私「昔はテーマパークに行くとお父さんが席取りとか予約とかしてくれ
   て助かったよねえ」←ごますり
 父「そうだったかなー?あの頃はみんなも小さかったからね」
 兄「でも途中で怒られて帰るって言わ((」←地雷
 私「いやお兄ちゃんどんだけ昔の話してんの?自分が悪いんでしょ?」

 という感じ。端的に言えば「ごますり機嫌取りして来月もお金ください」の食事会なのだが、その主旨がわかっていない(正確にはどうすればいいかわからなかった)人が2人。そのフォローをすると私は大変疲れたのだが、帰宅後に兄から「なんで蹴ったの⁉」「僕が正しいじゃん」などの抗議が入り、大変面倒。


 というわけで、高校3年生の兄にはいくつか課題があった。まず、高3春時点で進路が確定していなかったこと。加えて教科の成績にばらつきがでてきており、理系にしては数学ができていない等。さらに提出物が滞っていたこと。進路指導で母親はまた複雑な気持ちで帰宅。

 また、兄は学業より優先しているものがあった。2年から所属したクイズ研究部だ。夏の高校生クイズまで家でも学校でも移動中も(これは私が見つけた)クイズ本に熱中していた。それだけでなく、ゲーム禁止の我が家で隠れてゲームをしていた。当時の私も最難関と言われる高校に通っていたため、予習・復習・自習ができなければ授業についていけなくなることは分かっていた。
 ただ、兄は天才なので多少問題はあれどついていけてるんだろう、と母とともに思っていた。

 夏の終わり、兄は言い出した。
「大学じゃなくて専門学校に行ってゲーム制作をしたい」
 ええええ!大学じゃないの⁉⁉
 これが家族の第一印象。しかし母は現実を見ていた。大学進学するための予備校にも通わせる費用がないのに、さらに専門学校はお金がかかる。しかも専門学校を出てちゃんと就職できるのか。
 今思えばどうやったって奨学金を借りるのだから本人の好きにさせてもよかったのかもしれないが、言い出したのが高3の秋。いやいやながらも、父方の親戚に経済的援助を求めたが、父曰く「そんなところにいって何になるんだ」。兄の希望はたった一言で消し飛んでしまった。

 兄は頭を切り替えて茨城県T市にある国立大学を目指し勉学に励んだ。しかし、こっそりゲームをしていたのがバレて母から家を出ていけ、と怒鳴られる日もあった。母は根性論で生きてきた人間なので、休息にゲームをするのは信じられなかったようで、高校受験中の私にも漫画を読むな、と怒鳴ることがあった。母の思う休憩は水分補給や食事で、それ以外は遊びだった。

 当時のセンター試験直前にも怒鳴られがあり、日常化している怒鳴りと兄の上がらない判定を知って「ああ、お兄ちゃんが悪いんだな」と私も弟も思うようになった。

 センター試験、1次試験、不合格、2次試験、不合格。

 こうして兄の天才伝説はようやく消えた。

 私が部活や行事に精を出し、兄とは似たルートで成績が落ちていたころ、兄の自宅浪人説が浮上した。母は、学校で管理してもらっても落ちたのに、自力でなんて無理、と言い、母の怒鳴り声を聞くのがつらくなっていた私は、ゲームもやめられないようじゃ無理、と母側に立ってしまった。それでも兄は粘り、結果、バイトをすること、家に3万いれること、模試代は自分で持つこと等の今考えると周りの浪人生とはかけ離れた地獄で浪人することになった。

 この判断をしたとき、兄が天才でないことをまた忘れ、一年あれば落ちた大学に入れると母や私は信じて疑わなかった。


 平成のゆとりど真ん中の兄は特性上当時の学校というものとの相性が最悪だったのです。そもそも周りの友人は私大を受けていたり2次は別の大学を出していたりするのを国立一本でやりぬいたことを評価するべきだし、本人の第一希望の専門学校は大人の勝手な事情で消えていったのです。

 また高機能自閉症の兄に集中できる環境を用意できるほど我が家は広くありませんでしたし、そもそも配慮が必要ということも知らなかったのです。
 別に連載を組みますが、同時期非常につらい思いをしていた母、弟は違う案件で苦しんでおり、今思い出しても兄の受験の年はつらいものでした。


つづく



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