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ピンク色の運動着

私には、五歳の息子がいる。

まだもう少し小さかった頃、【どんないろがすき?】の楽曲にのせて「ピンク!」と答えた彼を、私は絶対に否定しないと決めていた。

だから、入園時に購入する運動着も、息子の希望通りのピンク色と白色を選んだ。だが、そのピンク色の運動着に袖を通したのは、恐らく年少の夏頃まで。挙げ句の果てには、入園から半年足らずで、緑色を買ってくれとせがまれる始末だ。

「あんたがピンクがいいって言ったんじゃん…!」その言葉を、何度飲み込んだことか。

彼に聞いてみたのだ。どうしてピンク色を着ないの?と。一番好きな色じゃなかったの?と。

彼は「ピンク色はおうちで着る」と答えた。

咄嗟に、お友達にからかわれたのかな?と不安が過る。好きなものは好きでいいんだよ、なんて言葉を胸の中に用意していたが、それは杞憂に終わった。

「○○くんも○○くんも、ピンク着てないもん」
「△△ちゃんとか△△ちゃんは着てるけどね!」

そう言葉を続けたからだ。

私は、彼を見くびっていたようだった。

名前を挙げた女の子たちは、息子の仲良しさんだった。だから余計に驚いたのだ。仲良しのお友達でも、彼女たちは女の子で、自分は男の子なのだと、理解していた。自分のことを、客観的に理解し始めていたのだ。

そして私は、ピンク色が好きな息子を尊重しているつもりで、そうではなかったかもしれないことに、気付かされる。

『ピンク色が好きな息子』を尊重することと、『ピンク色が好きな男の子』を尊重することは、似ているようで、少し違う。

男らしさ女らしさに囚われない、そのことばかりに目が向きがちだが、『らしさ』に憧れることだって、当然、同様に尊重されるべきだし、本質は目の前のその人自身を尊重すべきだということを、当時三歳の息子に教えられた気がした。

誰もが胸を張って、好きなものを好きだと言える未来。そのために私ができることは、息子の好きを、息子自身を、尊重し続けることくらいだ。

そうして彼も、誰かの好きを当然のように大切にできる子に育ってくれたら、少なくとも彼の周りくらいは、多少生きやすくなったり、しないだろうか。

ピンク色の運動着は、たしかにそこにあった、小さな息子の純粋な気持ち。

それが社会と関わり変わりゆくことは、必然なのかもしれない。これからだってそうだ。それを成長というのだと、私はこれから先も、この運動着を見ては思い出すのだろう。

ほんの少しの寂しさと共に。

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