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〜沖縄…戦争と平和〜 その1 「糸洲の壕」小池勇助軍医と積徳高女学徒看護隊 (2025年1月)

 2025年1月、私は沖縄県那覇市と南部の糸満市を訪れる機会を得ました。その時に訪れた沖縄戦に関わる場所について、書いてみたいと思います。
 今年は戦後80年の節目の年になります。過去の戦争での大きな犠牲の上に私たちの今があるのだと思う時、私たちは本物の平和を希求していかなければいけないと考えます。そして、今も沖縄に犠牲を強いている現実を重く受け止めています。


1  積徳学徒隊(ふじ学徒隊)


(1)大典寺にある慰霊之碑

大典寺(那覇市松山)にある
「積徳高等女学校慰霊之碑」

碑に刻まれた言葉は次の通りです。

 ここに積徳高等女学校慰霊碑に刻名された方々は、去る沖縄戦で戦死なさった教職員 在校生 卒業生 当時の四年生で 学徒看護隊に動員された 戦没者の皆様です
 御霊(みたま)よ 永遠(とわ)に 安らかに お眠りください      合掌

  積徳高等女学校 ふじ同窓会
     平成十二年十一月吉日 建立

(2)積徳高等女学校のあゆみ

大典寺にある「積徳高等女学校のあゆみ」2015(平成27)年 6月23日ふじ同窓会、大典寺共同設置

積徳高等女学校のあゆみ(説明板より抜粋)
・1918(大正7)年
「沖縄家政実科女学校」創立(4月22日)     那覇市「大典寺」内に開校(5月1日)
 職員10名 生徒22名 校長 菅 深明(すが しんみょう)
・1932(昭和7)年 
 美栄橋2丁目38番地に校舎新築移転
・1941(昭和16)年
 寄宿舎「花園寮」を大典寺境内に設置
・1943(昭和18)年 
「積徳高等女学校」に改称 生徒数480名
・1945(昭和20)年
 7月2日米軍沖縄戦終結宣言
 沖縄戦により、28年の歴史を閉じ廃校となる         

 大典寺内に開かれた家政実科女学校が積徳高等女学校の始まりでした。戦前の沖縄県唯一の私立の高等女学校として、多くの女子学生の学びの場となっていましたが、戦争により廃校となり、その歴史を閉じることとなりました。


(3)積徳高等女学校看護隊と小池軍医

 沖縄戦では、1945年2月から積徳高等女学校4年生56人全員が看護教育を受けるために東風平(こちんだ)国民学校に送られ、3月半ばまで実習訓練を受けました。卒業式は行われませんでした。
 1945年3月23日、積徳高等女学校の学徒たちは豊見城村(現豊見城市)にある陸軍24師団第二野戦病院に配属されます。動員に際して、軍医小池勇助隊長は全員に入隊の意思を確認し、その結果31名が除隊、確認の取れた25人の学徒が看護動員されました。看護隊の女学生の仕事は、けが人の看護、傷口にわいたうじ虫をとったり、手術の助手、砲弾を避けて水くみ、切断した手足を夜に外に捨てに行くなど過酷なものでした。
 5月28日、米軍が第32軍司令部壕のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は豊見城から南部糸洲(いとす)の野戦病院壕(ウッカーガマ)に移動しました。移動する際、負傷兵は豊見城の壕に置き去りにされました。
 移動先の糸洲でも学徒隊にとって過酷な日々は続きました。6月17日からガマは米軍に馬乗りされ、1日に2,3回、米軍によって壕にガス弾がまかれるようになりました。壕内の学徒隊はぬれタオルを口にあてて、必死で自分の身を守りました。
 6月23日、牛島司令官自決、沖縄戦の組織的戦闘は終結します。しかしながら、司令官により戦闘継続が命じられたため、戦闘はその後も続きます。
 6月26日の夕刻、糸洲の壕では学徒隊全員が集められ、小池隊長から解散を告げられます。その際、小池隊長は、動揺する女学生たちを落ち着かせる態度で切々と諭すように「敵兵は女や子どもを殺すことはしないから2~3人で行きなさい」と細かい指示までしてくれたと元看護隊の女性は証言しています。隊長は「生き残って親元に帰りなさい。こんな悲惨な戦争を二度と起こしてはいけないと語り継いでほしい」と学徒たちに伝え、一人ひとりと握手を交わしました。
 積徳学徒看護隊では犠牲者は少なく、25名のうち22名が生きて戦後を生きました。これはひめゆりをはじめとした他の学徒隊が、解散後に多くの犠牲者を出し、悲劇的な結末を迎えたことと対比して語り継がれています。
 学徒看護隊を解散したあと、小池勇助軍医は、壕の奥で青酸カリにより自決しました。享年54歳でした。

(4)小池勇助軍医について

小池勇助軍医

〈小池勇助軍医プロフィール〉
・出生地 長野県佐久市野沢
・ 生年月日 明治23年7月25日
・人柄  愉快で温和。しかし気が短い方。患者には優しく、義侠心があり、信仰心も厚かった。趣味は釣り。
・経歴 旧制野沢中学校(現野沢北高校) 
    第3回卒業
    大正3年 金沢医学校卒業
    陸軍医学校では眼科を専攻
    大正14年 軍医となる
    昭和3年 佐久市中込駅前で開業。
       内科と眼科の看板をあげた。
・出征の経緯  
 シベリア出兵 大正7年〜大正11年
 日支事変 1回目 日中戦争
                       2回目 満州
                       3回目 沖縄戦昭和19年8月〜
・戦死年月日 昭和20年6月26日
・戦死の地  沖縄本島南部糸満 糸洲の壕
・辞世の詩  南の孤島の果まで守りきて
       御盾となりゆく吾を
       沖のかもめの翼にのせて
       黒潮のかなたの吾妹に告げん


(5)2025年1月30日 糸洲の壕(ウッカーガマ)学習環境整備竣工式

 糸洲の壕は、2002(平成12)年頃、元積徳学徒隊の方の案内により、中まで入って見学することのできる環境でした。その後、壕は見学ができない状態になっていました。
 小池軍医の地元、長野県佐久市が準備を進めてきて、今年度、案内板設置、階段の手すりと滑り止め設置、周辺の草刈り美化等の学習環境整備を実施しました。地権者の了解や糸満市の協力を得ながら、整備事業は進められ、2025年1月30日には、現地で佐久市主催の竣工式が開かれ、沖縄県知事、長野県知事、糸満市長、佐久市長、小池軍医の遺族を始め、両県の関係者約70名が参列し、壕を活用した沖縄戦の史実継承を誓いました。
 竣工式については、沖縄、長野両県のテレビ局、新聞各社が取材し、取り上げられました。


壕入り口に建立されている「鎮魂之碑」
玉城沖縄県知事
阿部長野県知事
参加者全員による献花がおこなわれました

(6) 関係者のことば(竣工式挨拶とその後の取材による新聞記事から)

〇柳田清二佐久市長
「学徒と同じ若い世代が修学旅行で訪れ、雰囲気を肌で感じることで、沖縄戦の悲惨さや命の尊さを学び、次世代に伝える学習の場となることを期待する」
 式典後、日本軍に対する沖縄県民の複雑な心情について、報道陣に認識を問われ「認識している。そうした沖縄の人たちの思いも学ぶべきものと思っている」
〇玉城デニー沖縄県知事
「未来を担う世代が平和学習を通じて恒久平和への願いを強くし、世界に広がることを祈念したい」
〇阿部守一長野県知事
「若い世代が沖縄戦の悲惨さを学び、次の世代に思いを伝える場となることを期待する」
〇小池清志さん(小池勇助氏の姪孫・約40年ぶりに壕を訪れた)
 墓に供えるため小石を一つ拾い「不戦の思いを語り継いでいきたい」
〇井出佳代子さん(沖縄戦の継承に取り組む平和ガイド)
「多くのガマが入れなくなっている中で、糸洲の壕が整備されたことはありがたい。美談にするのではなく、起きたこと全てを伝えることで沖縄戦を考える契機にしたい」
 命を落とすかもしれない命令を部下の日本兵に下さざるを得なかった小池氏の側面を語り
「このような立場の人が再び生まれないためにも、なぜこのような戦争が起きたのか学んでほしい」
〇城間あさみさん(ドキュメンタリー映画「ふじ学徒隊」を製作した海燕社代表)
「沖縄戦を見る際は、住民の視点を忘れないで」
ドキュメンタリー製作中に「生き残ってしまって申し訳ない」と壕の前で語る元学徒の声を聞いた。戦後、生き続けた元学徒が、亡くなった学徒の遺志を背負い続けていると感じた。
「そこにも思いをはせてほしい」

 

今回長野県佐久市が設置した案内板
糸洲の壕ー小池勇助少佐と「ふじ学徒隊」

 6月23日、日本軍の組織的な戦闘が終わりました。第24師団司令部から戦闘続行を命令された小池は、敵包囲網を突破し友軍と合流して戦闘を続けるよう部下に命じました。しかし、「積徳学徒隊」に対しては、戦闘が沈静化するまで解散させませんでした。
 6月26日、小池は、「絶対死んではいかん、生き残って、親元に帰りなさい」と述べ、学徒に解散命令を出しました。学徒は、数名ずつ連れ立って洞窟から出て、猛攻撃なか、傷を負いながらも米軍に収容されました。学徒を送り出した小池は、青酸カリで自決、54歳の生涯を終えました。
 
 沖縄戦では、多くの学徒隊が悲惨な最期を遂げました。しかし、小池部隊長の教えを守り、戦死者がわずか3人にとどまった「積徳学徒隊」は、非常に稀な事例であると言われいます。
 糸洲の壕には、このような歴史があります。沖縄戦の歴史を語り継ぎ、戦争の悲惨さや命の尊さを未来に伝えていくことは、現代の私たちに託されています。

長野県佐久市が設置した案内板より後半を抜粋


糸洲の壕の中から外を撮影


壕へ入る階段に手すりと滑り止めが設置された

 竣工式が終わった後、出席者は、整備された壕の中へ入り、ガイドの井出さんの説明を聞きながら見学をしました。


(7)最後に

 手すりと階段の滑り止めが設置され、壕への出入りが安全になりました。周囲も、草だらけだったということが嘘のようにきれいになっていました。
 糸洲の壕は、中に川が流れていて、敵のガス攻撃を受けたときなど、川のお蔭で助かった面もあったようです。当時学徒隊がいた壕の奥までは今は入っていかれません。看護隊が看護に従事した壕、戦争の舞台になった壕、戦後、遺族や生き残った関係者が遺骨収集に訪れた壕。今は訪れる者に静かにその歴史を語り掛けているようです。のどかで自然豊かな風景の中に、悲惨な戦争の爪痕が残っています。
 戦争がなければ青春を謳歌できたはずの女学生が、暗い洞窟の中で自身の生命の危機と隣り合わせの中、負傷兵の看護を懸命におこないながら地獄のような光景を日々目の当たりにしていたことを思うと、胸が痛みます。そして、戦争で負傷してこの壕に収容され、無念の死を迎えた犠牲者の方々、沖縄戦で犠牲になり命を落とした多くの方々のことを忘れてはなりません。
 多角的な視点から戦争中にここで起こったことをもう一度見つめ直し、けっして戦争を繰り返してはいけないことを次の世代に伝えていかなければいけないと思います。

※「ふじ学徒隊」・・・海燕社製作の短編ドキュメンタリー映画。48分。2012年 海燕社製作 監督 野村岳也  
◎映文連アワード2012文部科学大臣賞受賞
        DVD版で購入可能です👇️

※「沖縄平和学習の記録」

2002年に作成された長野県佐久市内の高校の
「沖縄平和学習の記録」 

 この記録集では、高校生が元積徳学徒隊の方に直接聞き取りをし、メッセージを受け取っています。2001年の沖縄修学旅行では、豊見城の壕と糸洲の壕を元学徒隊の方の案内で訪れ、那覇市内にて元学徒隊の方の講演を聞いています。冊子の内容は、こちらから閲覧できます👇️


沖縄戦
 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸して始まった。その後米軍は4月1日に沖縄本島読谷山村渡具知海岸付近に上陸。5月下旬、日本軍は南部に撤退。6月23日、日本軍の組織的戦闘は終結したとされているが、戦闘はその後も継続する。
 沖縄戦の犠牲者は、住民94,000人、日本軍(沖縄出身者を含む)94,000人余、米軍12,000人余とされている。 
 本土では、秘密裏に長野県松代への大本営移設のための工事も急ぎ進められていた。大本営は本土決戦に向けてかじを切っており、沖縄は本土決戦準備のための「捨て石」に位置づけられていた。



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ジャスミンティータイム
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