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催眠音声とAEO

AEO体得の道として、「催眠音声」は有効な手段となる。

が、僕は催眠音声については実はほとんど使っていない。2週間か、長くても1ヶ月くらいの間で、日に数時間聴いていた覚えがある。

もともと瞑想していて変性意識状態に入れるようになっていたからというのが、あまり聴かなかったことの大きな要因だと思う。

あとは、僕は「誰か」の関与によって変性意識状態に持っていかれるのに抵抗があるというか、それだと不便だなと思っていた。考察録2にも書いたけど、「なるべく道具は使うな」というのが僕の信条で、何事もシンプルであればあるほど良いと思っている。だって、道具に頼っていて、もしその道具がなくなったらどうする?

こうした理由から、僕は催眠音声にハマることはなかったけど、その後、催眠学を学び始めたら、催眠が人類史に与えてきたと思われる影響の大きさに驚愕した。宗教への影響の大きさなんてオイオイオイオイって感じで身震いする。国家という概念の成立も、法律も、はたまた革命も、何もかも人間と人間がコミュニケーションを取るところ、そこにはいつも「催眠」「暗示」と言われるものが横たわっているのではないか? ちょっと恐ろしくなった。

それからというもの、瞑想能力はさらに爆上がりし、AEOもさらに自由自在になった。なぜかって?

AEO探求にまつわる学習によって頭の中を情報でパンパンにしていると、情報の小さな欠片同士がある日突然つながり、直感(確信にも近い)が発生する。「アハ体験」ってやつだ。点と点がつながって線になり、やがて画になる。知的快楽だ。

これまで定義できていなかったものが定義されて概念化すると、それは技術として実際に使えるようになる。国だってそうだ。どこにも国なんてないけど、概念化することで機能してる。催眠学の情報が僕のAEO体験の質を上げたのは不思議なことでなく、当然のことなのだ。情報が整理され、技術として使えるようになった、もしくは発想が広がったということだ。

と、いうことはだ。次のような問が導き出される。

知の快楽と身体の快楽はつながっている?

体感としては当然、「イエス」だ。

当たり前といえば当たり前なのだが、多くの人は「知の快楽」が「身体の快楽」に与える影響の大きさを軽視している。

とはいえ、「ではAEOによって、一切合切、何もかも不安がなく幸福になるのか?」 と問われれば、

「その発想は危ないからやめておけ」

が答えだ。

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