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108.普遍的な“救かり”を考える

◆教話「願う心ひとつに」
元来、このお道は、にをいがけ、おたすけが土台となって、今日に及んでいるのであります。これが私たちの使命でもあります。事情や、身上を通して、親神様の御守護を知り、教祖の温もりに接して、親神様の大きな、大きなお働きを得て、そのご恩のわかった人たちが寄り集まって、できてきたのが、教会であります。教会としての値打ちは、そこに引き寄せられている人たちが信仰に燃えているか否か、熱があるかどうかというところにあるのであります。
(中略)
建物、姿、形がどれほど立派でありましても、設備がどれほど整っておりましても、そこに引き寄せられている人たちの心の中に、信仰心が燃えていなければ、教会の値打ちはないのであります。
現在のお道は、布教力が低下しているために、活性化ということが盛んに叫ばれている昨今であります。特に最近では、珍しい神様のお働きを頂けない、おたすけがあがらん、という声をよく耳にいたします。世の中の常識が変わったからだとか、社会がどうだとか、理由付けとして、もっともらしく、種々と耳にするのであります。けれども要するにご守護があがらん、おたすけがあがらんということは、不思議な救け、珍しい救けがなくなってきているということに他なりません。それは、なくなってきている、言い換えれば、あまりにも結構すぎて、人間の感覚が麻痺してしまっていることを意味しているのではないでしょうか。

髙井猶久「いんねんの理合い」より抜粋



「いい加減、教会と縁を切りたい」と本気で言っている他系統のある女性(仮にМさんとする)とおつき合いを続けている。

彼女は幼少時代、親なし児だった為に縁あった教会に引き取られたのだが、そこでの生活はほとんど女中同然の扱いだったようだ。苦労ばかりの日々で、天理教に信者として帰属したとも思ってはいなかったが、それでも育てていた恩があったので、義理を欠くのも嫌だからと自立後も毎月欠かさずお供えを教会に送っていたそうだ。

だが、代がかわり息子が教会長となっていたその教会は、一度もМさんに対しお礼の電話も手紙もよこすことなく、非礼を重ねていた。

流石に愛想つきて教会に送っていたお供えはもう今月からやめよう、彼女はそう思い立った。

その時、インターフォンが鳴る。

玄関先に立っていたのはわたくしピーナッツ。

戸別訪問100軒まわって、「ここまでと決めてから更にラスト数軒、もうちょっとというところで神様がはたらく」というレジェンド布教師・大豆先生の指導通り、今日はもうここまでと決めて、終わる直前の最後の+1軒の訪問先がМさんのお宅だった。

ここから私とМさんとの関係がスタートする。

私は月に一度、彼女の家を訪れては話に耳を傾けている。
教会に対する不満不足であり、天理教そのものに対する「教えではいいことを言っているけれど、教会の人間はほとんどそれを実行しない。矛盾ばかりだ」という彼女の意見に、じっとどこまでも傾聴姿勢を貫いていく。

ただ、唯一説得しているのは、「教会に送っているお供えは切らさないように」ということ。それは彼女自身実感しづらいところで大きな救いになっていると感じたからだ。

「感謝されないところで御供えを続けるから、それがまるまるМさんやご家族を救けてくれる力になっているんだと思います」

ひとしきり彼女の不満を受け止めると、幾分話を聞く余裕も生じるようで、いつも最後にはそうやってつなぎを切らさないことをお伝えし、思いとどまってもらっていた。


ある時期、Мさんは不眠症に悩まされる。幼い頃の教会での虐待的な日々のトラウマが夢にあらわれ、毎晩うなされるのだという。

眠れずに苦しんでいると、彼女の息子さんがふと、
「母さん、ピーナッツさんが以前持ってきたあのチラシを枕の下に挟んで寝てみたらどう?」
なんてことを提案したという。

Мさんは試しにチラシ(リーフレット)を枕の下に敷いて寝てみる。

するとどうだろう。不思議にも、その日の晩から連日続いていた悪夢がピタリとおさまり、彼女は安心して眠れるようになったのだという。

おかげで、それ以来、Мさんから私に寄せる信頼は厚くなる。

体調が悪い時におさづけを取り次ぐとすぐに効き目があらわれる。

娘さんがアパートの引っ越しの際、部屋のお祓いを依頼され、承る。

そうやって何年も何年もベタベタな関係になり過ぎず、細々と、だけど切らすことなくおつき合いを続け、彼女の疑問、天理教への不信、不条理な出来事が起こって来る原因はなんなのか等、そういった問いを投げかけるキャッチボールのお相手をさせてもらって現在に至っている。

病気が治ることが救かりなのか?

否。

困り事が解消されることがご守護なのか?

否。

病気になればおさづけを取り次ぐし、困り事(主に人間関係のトラブル)があればその受け止め方、治め方はご助言する。

だけど、そういった嫌なことから解放されることが“救かり”なのだとは、私にはどうも思えない。
それよりももっと普遍的な、

「私は何のために生きてるのだろう?」

「私にはどうしてこんな境遇がおとずれてしまったのか?」

「これからどうやって生きて、そして死んでいけばいいのか?」


…そういった実存的な問いと向き合い、見つめ合う中で、彼女自身が納得する答えと出会っていくこと。そしてその答えは時とともに再び疑心に変り、新たな問いを生む。そうあっても、再度、何度も彼女がその都度、納得する答えが自身の中に立ち上がっていくよう、近すぎず、遠すぎない距離を保ちながらどこまでも私は伴走する。

こういった営みの連続の中に、“普遍的な救かり”を垣間見ることができるのではないだろうか。

「わからない」と「わかった」との間を何度も行き来しながら、いまここに存在していることの意味を深く、静かに、そして共に見つめていきたい。


【2017‐2024】




おまけ

なにが不思議かって、このМさん。

彼女、Fさんの家の隣に住んでいるんですよ(^_^;)

Fさんとの出会いエピソードはこちら↓

戸別訪問最後にМさんと出会ってその日は終わり、翌日、その隣の家からまた戸別訪問をはじめた最初に一軒目でFさんと出会ったんです。

だからおたすけの通い先が2軒並んで何年もおつき合いしていたんです。
もちろん、両方ともそれを知りません。
なにせ隣人同士のことですので、守秘義務として当然ですよね。

にをいがけってたまにこんな面白いこと起こりますよね。


では、今日はここまで。
おつき合いいただきありがとうございました。
それではまた(^O^)

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