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109.きれいごと戯言はどこまでも虚しい

NHKで定期的に組まれる特集や、民放の深夜に流れているドキュメンタリー番組を好んで観ている。

中でも、とりわけ興味を惹かれるのが、白昼大々的に報道され巷をにぎわせている事件などではなく、喧噪の片隅でひっそりと起こっていて、誰かがそれに眼をつけ衆目に晒すことをしなければ、あわや見過ごされてしまいかねないような、そんな隠れた弱者達が抱える深刻な物語だ。

救いようのない闇の中で、誰にたすけを求めていいのかわからず、何ら解決策を見出せないままもがいて、のたうって、そして諦めて…。
そうやって、誰の耳にも届かないような微かな声をあげて泣いて暮らしている人達は至るところに存在する。

状況は一様ではないとはいえ、その苦悩の原因を紐解けば、必ずしも当事者個人の努力不足だとか、怠慢だとか、自分で蒔いた種だとか、軽はずみにそうとは言い切れないような、社会が生み出した根深いなにかが横たわっていた。

ある時は、加害者として、世の中を震撼させる大事件を引き起こし世間から糾弾されていた人が、その別角度から捉えるや、人間性を決定的に損なうような激しい傷を負わされた過去を抱える被害者でもあった。

あるいは、その逆もまたあった。

いずれにせよ、暴力や憎しみ、愛情の欠落はまた新たな類似をどこかで生み出し、連鎖を繰り返し、それはまるでドミノ倒しの様相を呈していた。

そんなひずみを抱えて生きる人に、私達は一体、どんな言葉をかけてやれるというのだろう?

たとえこちら側に“救いたい”という意図があったとしても、そこで伝えるべきメッセージが単調で、シンプルであればあるほど、言葉は繊細さを欠き、浮ついてくる。その場違いな明るさが吐き気をもよおすほど気持ち悪いぐらいに。

“親孝行”…この世の真理なのかもしれない。だけど、気持ち悪い。

“夫婦仲良く”…誰だってそうありたい。そうなれないから苦しいのに。

“陽気ぐらし”…人が大勢死ぬ戦場でその言葉を用いる瞬間がもしもあるのなら是非とも教えてほしい。本当に。


私には、眼前に、暗がりそのもののうずくまる人影を捉えたとしても、そんなきれいな戯言を語れる気がしない。

容易ならざる難壁に立ち塞がれ、打ちひしがれる人達が、それでも“生きてみよう”と励みになるような、そんな勇気が湧いてくる言葉を、景色をいま、必死になって探し求めている。
陳腐で耳障りのよい、お約束の決まり文句等ではなく、胸の深奥に堅く閉ざされた痛みに肉薄し、それをいたわり、芯からあたため、氷解せしめ、救済し得るような、力のこもった言葉を。絶景を。


【2017.5】



おまけ

ちょうどいまXで「天理教を一言でいうと」という問題提起と、それに色々な方が言葉を寄せている模様を眺めながら、様々なことを考えていた。

これはたとえ話。

もしも、窓を開けると目の前に富士山の景色が広がっている立地の家に住んでいる人があったとする。この方はそうやって毎日いつでも富士山を眺めることができる。

その人が「私はこうやって365日春夏秋冬、いつも富士を眺めて暮らしているから、富士のことならよく知っている。私はこの富士を愛している」なんて言おうものなら、富士山の登山愛好者はどんな反応をするだろう?

「登ったこともない人間がなに言っているんだ」

そうやって怒られてしまうかもしれない。

宗教や信仰もこれに相共通する面が多分にある。

布教していると、時々こんなことを言う人がいる。

「色々な宗教を見聞きしてきたが、皆似たようなことを言っている。だからどれも同じようなものだ」

ふーん(・ω・)

この人は宗教という山、信仰という山を登ることもなく、窓からその景色をただ眺めているだけの人だ。そもそもその山そのものに関心がないのだから、どの山も同じように見えるのは、むしろそのためだろう。

あるいはこんな人もたまに見かける。

「天理教の話は〇〇からよく聞かされたし、教団で出している本も手に取って読んだことがあるからよくわかっている」

親が熱心な信者だったり、信仰者の知人友人がいたり、そういう理由で必ずこのパターンの人がいる。

それは、天理教という山を登っている親からの証言をきいたことがあるというだけで、天理教という山の登山ガイドを読んだというだけで、結局この人には登山経験は全くない。どこまでいっても見たこともないものを知識として頭の片隅にとどめているだけで、“わかっている”と思い込んで錯覚しているに過ぎない。

こういう「わかった気になっている人」「わかった気になろうとしている人」が欲しがるもんなんだ。

「天理教を一言で説明すると何?」

という、インスタントな理解を。


険しい山道を登る苦しみと、その先で眼前に広がる景色。
のども渇く、水分が欲しい。足も腰も痛い。

だけど、道中のそんな苦労。
山頂で吹く風の心地よさ。
これまでの疲労がぶっ飛ぶ瞬間。
そして視界に、五感に迫って来るもの。

これらを直接体感するということが大切であり、しっかりと体感した経験者であるなら、たとえそれがどんな表現であれ、どの場面を切り取った描写であれ、そのどれもこれもが“本物の生きた信仰者の言葉”だと私は思っている。

“わかりやすい説明”なんかじゃなく、“本物の生きた言葉”。

だからわかりやすい、耳障りのよいキャッチコピーを持って得意げに語り散らかしているのなら、そんなもの捨ててしまえ。

それはただ技巧に逃げているだけだ。
気の利いた表現に酔いしれているだけだ。

インスタントなわかりやすさでなまじお道をわかった気、触れた気になる人を増やすことはかえって性質が悪い。

そういうところで伝わっていくのは、ただ、その“言葉”だけ。

“言葉”の奥にある肝心なものを置き去りにして。


“言葉”で伝えるべきことは、“言葉”そのものじゃないんだ。




はあ? なに言ってるんだお前(^^)?
頭ちょっとおかしーんじゃねーの?

ってなりますよね(笑)

でも、ほんとにそう思っています。

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ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
それではまた(^_-)-☆

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