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50.もうこれからは、神の声はいらない

思いもよらぬ病気の発覚や、にわかに解決の糸口が見いだせない事情といった様々な困難の壁は、ある時不意に立ちはだかってくるものである。

立ち塞がっている時に、

「神様は何をおっしゃっておられるのだろう…」

とか、

「あぁ、もしもいま神様の声が直接聞くことができれば…」


そうやって思案に暮れながら、原因は一体何だったのかの明確な答えや、この後の正しい通り方を示してもらえたり、そういう具体的指示があるならどれほど楽だろうかと感じることがある。行き先さえ明示してもらえたら、いたずらに迷わず、悩むことももがくこともなく、ただただその案内に従って進んでいけばいいのだから。


しばらくはずっとそう思っていた。


でも、そうじゃなかった。
それはとんだ考え違いだった。
それが最近になってようやく気づけるようになって来れた。



神の声が聞こえたとしても

教祖御在世の時代。

人々はおやさまの肉声を通して、直接神様の思いを伝え聞かされ仕込まれていた。

だけど実際そこには、その言葉を神言として信じ切り、説かれたことをちゃんと胸の内で守って通った者と、そうでない者とがいた。
前者は今日、“先人”とか“先達”と呼ばれ、後世に名を知られ、語り伝えられる存在となっていった。

教祖お隠れの後、本席によるおさしづの時代。

おやさまに代わって言葉を取り次ぐ飯降伊蔵の声を神言として重く受け止め、時代の荒波に揉まれながらもそれにしがみついていった者と、そうでなく途中下車していった者とがいた。
前者もやはり、“先人”と呼ばれ、その時代を生きた気骨ある信仰者として、現在でも教史にその名を刻んでいく。

現存の信仰者達は、いずれの時も、信じて最後まで通り切ってきた者達の流れをくむ末裔とも言えるだろう。


現在、神の声を伺う手段はないけれど、だけどもしも未だに何代目かの本席と呼ばれる立場の方が教団上層に存在する、そんな世界を仮に想像してみて欲しい。

本席が出したさしづは、きっと毎月の機関誌「みちのとも」誌面冒頭に、「平成〇年×月、刻限のさしづ」といった見出しで、それ等全文が掲載され、広く道に繋がる信者に報じられていたとしたら、どうだろう?

さしづなき100年を通ってきた実際の私達と違って、その世界の信仰者にとって、さしづが継続しているのは当たり前のことだとしたら、それに対する受け止め方・重みはいかほどのものだろうか。

やはりそれを“神からのメッセージ”と真っ向から受け止めて、勇んで各々のおたすけの現場・実生活の中で活かしていく者もあるだろう。

一方で「神様はああやっておさしづをくださるけれど、だけど現実はなかなか難しいよね」と世間感覚で半々に受け取ってそっと流していく者だってあるかもしれない。

あるいは、「本来の教えと捻じ曲げられ、教団の上層部が巧みに内容を操作して都合の良いように改変している云々」と、陰謀論めいたことを唱える者だって出て来るだろうし、全く「みちのとも」誌面を開くこともせず、一切関心を寄せず見向きもしない者だって当然出て来る筈だ。

そうやって信徒の反応は様々で、いくらおさしづが現在進行形であろうと、その声に従って教内が一致団結するかといえば、案外そうもいかないのではないかと思う。

結局、おさしづがあったとする世界も、おさしづのない現在の世界も、それを受け止めている人々の様子は大して変わらないのではないだろうか?

むしろ、神の声がもうきこえなくなってしまった世界を生きる私達だからこそ、過去の原典を、おやさまが辿ったひながたの事歴を、逸話の数々を大切にし、定規として胸にあてていくという意識が強く芽生えているのだと私は感じている。


そう、神の声が直接きこえるか否かが重要なのではない。

おぢばや教会からの声を、それだけでなく見える世界、聞こえる世界、そのひとつひとつに神様の思いが宿っているという姿勢で物事を見つめていくことこそが尊いのだ。

もちろん、理想はそうでも、やはり簡単なことじゃない。

葛藤は常につきまとう。

本当にこれでいいのだろうか?

間違っていないだろうか?

時に己を疑い、自己嫌悪し、その至らなさに激しく自省する日だって何度もあるだろう。

たとえそうだとしても、わからないことがあればすぐに正解や答えを神に求めようとする安易な信仰ではなく、考え、迷いながらも自らの内側から答えを絞り出し、さがしていくそのプロセスをひとりひとりが歩んでいる姿を、神は殊の外楽しみに眺めながら、我々に望んでいるかもしれない。


だからもう、神の声はきっと、聞こえてくることはない。


私達ひとりひとりの心の中に神が存在し、絶えず、そっと語りかけ続けているのだから。


【2014.11】





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