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88.異物のたわごと(2)‐苦しいのは心があるから‐
生まれた時から天理教の環境下にいて、教えの中で純粋培養されて育ってきた人の中には、“とてもいいひと”なんだけれど、いわゆる自己肯定感に問題を抱え、大人になってからもそれに苦しみながら生きている人が一定数いるように感じている。
幼い頃から求められてきたのは“素直でいる”ということ。
その素直さというのが、何か指示があった場合、すぐに「はい」と受け止められるかそうでないか。
結果、素直な彼等は、「我をなくす」という表現を用いて自分で考えるということをやめ、誰かの指示に従うのみの虚ろな生き方を歩んでいくようになっていく。
もちろん、全部が全部そうではないけれど、だけど確実にそういう人達はいる。決して看過することの出来ない暗部だ。
長年、神様を身近に、教えを定規に生きてきたのだから信仰的態度が自然に備わり、“徳のある”(と称えられもし、また揶揄されもし、まことに複雑な)人間へと成長していくのかと思いきや、現実はアイデンティティに不安を抱え、歪さをひきずり、心もとない灯りを頼りに暗がりをさまよい「自分とは何者なのか」という避けられない命題と向き合い続ける。
さがしたって、そんな簡単に見つかりやしない。
本当はもっと早い段階で芽生えていなければならない、とても大事なものだったのに。
そういった苦しくて険しい営みはいっそ全てを放棄し、心のスイッチをオフにして生きる方がはるかに楽かもしれない。
その先で待っているのは、死んでいるような言葉を巧みに用い、きれい事だけをただ並べ立て、内向きに閉鎖された世界のルールの中でしか通用しない人生だったとしても。
でも…。
それが間違っている解決策だと自分自身に対しシグナルを送るのは、多分、心がまだ正常さを失い切ってはいないからだ。
自分自身を騙したくない。
誤魔化したくない。
そうやって真摯さをなくさずに生きようとしたいからこそ、苦しいんだ。きっと。
暗黒へ行け
かつて、教祖40年祭へと向かう激動期に、時代が生んだ寵児・増野道興は
「暗黒へ行け、街頭に立て」
という檄をとばし、鬱屈していたその時の道の若者等の魂を揺さぶり動かした。使命感に駆り立てられた信仰2代の彼等が教祖40年祭の原動力となり、天理教新生へのうねりはそこから生じる。
…あれから100年。
天理教はいま再び試練の時代を迎えている。
心の奥から湧き上がってくるものが必要とされる、そんな時代が。
道の中に我が物顔で居座る、本当はそこにあるべきでない多くのそれらを、駆逐していく時期が訪れているのだ。
【2016.11 加筆修正】
これを書いたのは2016年秋、いまからちょうど8年前。
当時はまだ宗教二世というワードが取り沙汰されておらず、なのに不思議とそういうものを連想させるものがある。
「進撃の巨人」もまだ読んでいない頃だったのに、それをも何故か匂わせる不思議なコラム。
8年前、暗がりを直視し、心の在り方の大切さを問うていた。
現在は当時よりも確実にその方向へ向けて青年会も舵を切っているように思えるので、先見あったかもなぁ、なんてつい調子になってしまいそうにもなる。
…なんて。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた。