32.悪を抱えて生きる
地元の新聞の新書紹介の書評を読んで興味を抱き、手に取った一冊がある。
佐藤典雅著『ドアの向こうのカルト』という本だ。
「ものみの塔聖書冊子協会」に入信し、洗礼を受けエホバの証人となった母親の影響で9歳で信仰に触れた著者が、やがて35歳で脱会していくまでの過程を小説体で書き綴ったものだった。
読みやすく、スルスルと最後まで難なく読み終えてしまうと、読後に印象深く残っていたのは、かつて私が一時関連書籍を集中的に読み漁って感じていた、オウム真理教への共通点だった。
両教団の信者の心理状態や葛藤には類似するものがいくつか見られていた。
“いわゆるカルト”と呼ばれるそれらの宗教団体に帰依する人々は、自分達の信仰対象が破壊的・反社会的な思想を持った集まりだとは夢にも思っていない。
それどころかむしろ、教義上の厳しい戒律を遵守しようとする、純粋で真面目な信者の姿ばかりが物語の中に映し出されている。
反面、自らの信じる教えの中身を客観的・倫理的に咀嚼する姿勢に欠けており、故に信心深いとされるモデルの人ほど思考停止に陥り、独善的、狭いルールの中で頑迷に自己完結している傾向が強かった(という風に、書籍や資料に触れる上で私はそう感じていた)。
いずれも彼等は皆、二言目には“終末のとき”を言及し、短絡的に帰結する。
「正しい教えを信じて実行しているものだけが楽園に入ることができる」のだと。
そんな彼等を非難する側の人間はいずれも悪魔に取り込まれており、間違った道に誘い引き入れようとする哀れな者なのだとも見下していた。
そこには一切何らの自浄作用も働かず、選民感に陶酔し、そこから心が一歩も動かない。前述の著者はよくぞ脱会し、自らの家族の洗脳を解いてまとめて脱会まで導いたものだと、読んでいて感心していた。
その心に奥に、疑う心、考えることをやめなかったということが鍵だったように私は感想を抱いていた。
心の内側に“悪”を持つこと
日本のユング心理学の第一人者であった故・河合隼雄氏は作家の村上春樹との対談の中で次のように述べていた。
内側の悪を排出し、完璧な善でばかりあろうとすると、その反動で外側に敵としての悪をつくらなくてはその集団は保てなくなるのだという。カルトが抱える問題・独善性はここにあるような気がする。
つまり、胸の内側を清潔にしようと心がけるのは良いが、汚れを徹底的に全排除にしようとする思考は清潔からは遠ざかり、むしろ一種病的な潔癖へと変じてしまうようなのだ。
“清潔な人”は汚れが見つかればきれいにしようと掃除をする。
“潔癖な人”は汚れが見つかればそれを忌避嫌悪し、それを自分から遠ざけようとする。
天理教は飲酒や喫煙、食事や娯楽等は基本的に禁じられていることはない。
なにしろ戒律が存在しないのだから。
もちろん、過ぎたるは良しとしないけれど、だけど少々の必要悪は許容し、欲を消滅させようとするのではなく、時に応じて“一旦欲を忘れて”勇んで事に当たる、という発想だと私は感じている。
この加減が大切なことなのかもしれない。
誰かの飲酒、喫煙、ややもすれば堕落の体に「なんて不真面目な」「教会長なのに」「信仰者なのに」「お道の人が衣食住に贅沢して」云々…。
そんな風に、人の姿や行いに眉をひそめたり、心を濁したことはおそらく誰にだって一度や二度くらいあるだろう。
それは潔癖心がむくむくと内側に芽生えていたからだったのかもしれない。
当然、未熟な自身の戒めとして。
【2013.11】
おまけ
こんにちは、ピーナッツです。余談ですが、今回のコラムの元記事を編集していた当時、自身の人生最大クラスの難局の渦中にいた頃でした。
そしてそういう大節に揉まれに揉まれて、私の考え方は鋭利さを抱えていくことにもなります。布教おたすけ的なことにもガンガンでしたけどね。
最後に、今回の内容に関連性を感じる教話を引用させていただきます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
それではまた(^O^)