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132.宗教ができるささやかな役割とは
日々、淡々と戸別訪問を続けていると、
「そんなことをして一体何の意味があるんだ?」
と訪問先で批判を受けることがある。
「人だすけ? ならもっと効率の良いやり方がいくらでもあるだろう」
そんな風に言われたりもする。
きっと、おかしなやつだと思われているんだろう。
だけど、“もっとこうした方が良かろう”とのご意見は、人によってそれぞれ千差万別。各自の立場、価値観、好みに合わせて皆思い思いのことを好きなように言ってくる。
こうなってくると、誰もが納得できるような最善の方法なんてないんじゃないかという気さえしてくる。
“天の法則”に則るには
もしも、宗教者が効率ばかりを重要視するようになったら、どうなる?
より小さな労力を持って、大きなパフォーマンス、宣伝性、対効果を目指してしまいやしないだろうか?
そしてより損得勘定重視の基準へと傾き、不確実な時流に同調し、迎合し、スマートさを求めていき…。
そんなことを想像していると、そもそも効率云々といった発想そのものが、目に見えない世界で起こっている“天の法則”から逆行した、目に見えることに重きを置いたことのようにも思えてくる。
対義的造語として“地上の常識”とでも表現すべきか。
社会的に見て非常識であったり、自己満足であったりするだけでは全く持ってよろしくないけれど、さりとて精神世界の理から乖離してしまっては、本末転倒な気もしなくはない。
では、改めて“宗教の在るべき姿・理想の役割”とは一体何なのか。
それが、布教に歩きながら、常に己の胸に問いかけ続けてきた命題でもあった。
ある時、ふと突然、答えが降りて来る。
光が射し、おぼろげではあったが、現状の結論のようなものに行き着く瞬間があった。
宗教とは、社会全体の幸福感をほんの少しだけ底上げしていく役割を担っている。
ああ、これだ。
スッと腹落ちする。
人間社会は長い歴史を積み重ねながら、少しずつではあるが成熟に向かっている。
近代へと迫っていくに従い、福祉という概念や、人権への意識も普及・
拡大しているようにも見える。
それでも、そのシステムにはどこかで必ず限界がある。
完璧といえる施策には程遠い。
人が数多く集まれば、そこには貧富の差が生じ、生まれ持つ能力に差もあり、思想・志向に様々な違いが広がり続けるのだから、万人が均等に恩恵を受けて、満足できるような仕組みはおそらく未来永劫つくり得ないだろう。
社会の巨大化は、そこに必ず歪みをも生じさせる。
その歪みの穴を、小さな力で、地道に、辛抱強く埋めていく。
きっと目立たない、評価されることの少ない作業であるに違いない。
でも、宗教ならば、それがやれる。(宗教に限ったことではないにせよ)
ましてや天理教は「ここではないどこかに理想を追い求める」ではなく、「いま置かれているこの場所で喜びを見つけていく」教えなのだから、構造の複雑化の過程でつくられてしまった穴を埋める担い手としてまさに適任な気がしている。
「急いて急かん道」という。
敢えて効率の悪い、人が避けて通りたがるいつ終わるとも知れない遠回りのような作業の向こうで、神様に会いに行く気持ちこそ大切なのかもしれない。
【2017.6】
余談
スーパーマーケットで買い物をし、冷蔵庫に詰め込んだ食材を、100%完璧に活かして食べ物としての役目を全うしてもらうということは、決して簡単なことではない。
心がけていても、冷蔵庫の奥に追いやれていることをすっかり忘れ、少なからず無駄にしてしまうようなことは時折どうしても起こってしまう。あるいは予定通りにいかず、やむを得ない理由でつい食べられなくしてしまい、「ごめんね」とお詫びして廃棄することも時には起こり得ることもあるだろう。
そんな時、“貯蔵”という人間が生み出した生活システムが持つ陥穽に、ひとり静かに思案をめぐらす。
太古の昔、狩猟や採集によって主な生活の糧を得ていた頃、人々の暮らしに貧富の差はなかったという。その日暮らしで生活は不安定だったものの、誰もが最低限必要な分だけを採取し、消費して過ごしていた。
やがて農耕が始まると、食べ物の貯蔵と保管が可能となり、生活の安定化と共に、徐々に貧富の差が生じる。後にそれが階級社会へと発展していく。
「貯め込むこと」から端を発し、平らかだった人間関係上のバランスに、ある種の歪さが生まれていったことのようにも捉え得る気がする。
薄きが天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという
“薄き”がいつまでも続く天からの与えだという。
また、健康長寿の秘訣は腹八分目とも言われている。
闇雲に求め、欲求のままに満たされ切るのではなく、少々の不十分の中に満足を見出すことが、いつまでも持続可能な健全な姿があるのかもしれない。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^^)