「軽井沢のセンセ」からの暗号(27)〜織田信長公は忌部氏?古代からの不屈の力強いよみがえり!!!
忌部氏の謎
忌部氏とは、古代において中臣氏と共に、宮廷祭祀・神事などに従事していた、名門氏族という。
日本においての古代という時期は、諸説あるがここでは広めに、古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代あたりの、だいたい3世紀頃~12世紀末頃とする。鎌倉時代前あたりまでだ。
「忌」という字は、決して不吉な意味合いがあるわけではなく、本来的には「斎」と同義語であるという。
とはいえ、実際に803年、「忌」を「斎」と改めることを忌部氏側から申請し、許され「斎部」とされたそうだ。
「忌部」とはすなわち、いやむしろ、「けがれを忌み嫌い」、「祭具の調達や製造や神殿や宮殿の造営」といった神聖な仕事をされていた集団、という。
ある日ネットを検索していたら、『一般社団法人忌部文化研究所』というHPを見つけてしまった。
「忌部」氏研究からはじまり、ひいては「日本創生」「世界平和の実現」という、ひろこにはとても言葉には出来ていなかったが、日本が目指すべき、壮大な研究や活動が行われているらしい。そちらで教えて頂いたところでは、
忌部氏は、有名な阿波忌部氏をはじめ、讃岐、紀伊、出雲、筑紫、伊勢など日本各地に点在し、その他、あの織田信長公は忌部氏と言われているそうだ。
当初は、忌部氏と中臣氏は同格となっていたが、684年に天武天皇による、八色の姓という制度により、変化が訪れたという。
八色の姓とは、天皇の地位を絶対的にし、中央集権国家の成立のため、豪族の家柄に上下をつけたもので、一番上から、真人、朝臣、宿禰・・・となる。
忌部氏は第三位の宿禰を賜ったが、ライバルの中臣家は第二位の朝臣となり、1ランクの差が出てしまった。
なお、第一位で最高位の真人は、天皇の一族、すなわち「継体天皇以後の天皇の子孫」に与えられたという。ここに、今回のキーポイントの継体天皇が登場される。
この時代あたりから、宮廷祭祀を中臣氏が独占するような流れとなり、
忌部氏はそれを良しとせず、朝廷に度々訴え出ることとなったという。
結局、806年、忌部氏の訴えが認められた。
勢いがついたのか807年、斎部宿祢広成氏により、かの有名な『古語拾遺』が編まれ、
時の平城天皇に撰上つまり、近い意味で言えば献上された。その時広成は80歳を越えていたという。
今の感覚であってもその熱意に驚くが、当時で言えばさらに凄まじいものであったのではないか。
こういった、忌部氏の、何としても、という不屈の精神が、内田先生の筆により、『遺譜…』の登場人物、「忌部」として生き生きと描かれている気がしてならない。
もとはといえば『古語拾遺』は、忌部氏の「祭祀権を求める」訴えと見られていたが、今や
『古事記』や『日本書紀』には見られない神話や古代祭祀・古代神祇制度などが書かれており、
研究の面からも大いに注目されているという。