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言葉を失う 畢婆迦羅像⑫

心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。見えないものを見える化をして、文脈や行間などいい表せることのないものまでも表現することで、誤解や、認知の歪みを正すことをしております。最近は、六道輪廻からの救済などのカウンセリングメニューもしておりますので、興味ある方はフォロー、お問い合わせをお待ちしております。(52/88)

問題は解決出来ると信頼していないと答えは見つけられないものです。

高みを目指そうとする前に、高みに辿り着いた先のことを考えている方が、物事が上手く行くものです。

リーディングは、心理カウンセリングとして利用していますが、心のあらゆる問題を解消する先に、“世界平和”があります。世界平和の先にあるものは、『クリエイティブ能力の開花と、センスあるアイデアマンである』ことです。

心が病んでいるとろくな発想力を持ちませんが、心が開いていると美しいものを愛し、人に優しく、働き者になると信じています。それはとても慈愛に満ち、献身的で、あらゆるものに屈託のない笑顔で答えていく中で、喜びに繋がる創造性でのコミュニケーションを持つことが出来るはずです。それは同時に、素晴らしい発想力で限界を越えつつ,より良きものを与えようと出来る人たちで集まり、互いを高め合うことで協力体制を維持出来るものなのです。

それが叶わないのは、「嘘の教え」「教えの本質」だと教えてこなかった問題があります。

物事には「本当のこと」と相対に「嘘のこと」があると信じているものです。

それには区別出来る力が必要ですが、区別する最善の方法は「全てが嘘で出来ている」と定義すれば、自ずと自分の信じたいものしか信じない主体性を持つことが出来るようになり、「本人の訴えが、本当のことか? 嘘をついているか?」という判断基準を持つよりも、「全部嘘だ!」と断定してしまうと、そこに居合わせる人たちが自分たちの信じたい答えを生み出して、従うしかなくなるため、全責任がどの立場の人においても「本人」に帰属することになる為「人のせい」にすることが消え去ります。

「この人が言ったから、言ったとおりにした」

という、指示に従ったということで責任所在は「言った人」になるものです。しかし、指示に従う人も「言った内容が嘘なら従ったか?」という問いかけが来たとき、「嘘なら従わない」と、「嘘でも従う」と考える力を与えているなら、「本当のこととは自分で生み出すものである」と学び取ることが可能になります。

この考えは「最初から最後まで、生まれてから死ぬまで『嘘』に包まれている」前提になる為、「心が傷つく」経験は、物事を本当のことだと信じなければ引き起こされないものです。それは「こんな自分を変えたい! と思いながら変わらない時、深く傷つくもの」なのです。

そんな「自責」の念に苦しんでいる人も、『嘘でした』と、自責から解放されることを願います。

畢婆迦羅像(ひばからぞう)⑫

ひばから

人は「嘘」をつくものです。

それは、「恐いから」というもので、「短期的な楽な感覚を求める」事の方が、「長期的で計画的な楽な感覚を求める」よりも強いからです。

口が軽い人に、「一言多いと、口を塞ぎなさい」否定形で伝えたところで、それを守れるように変わることは困難です。守らせるには「言いたい気持ちを恐怖により凍結させる」ことや、「口を開いたら、恐ろしいことが起きると信じさせる」ことが出来ると、口の軽さを自分で責めるなどして改めます。

恐怖心で自分の心を制御することを教わるものなのです。

口を紡(つむ)ぐことを覚えると、今まで「思いついたら言葉にしている」とした人の思いは呑み込まれて、どこかに蓄積されます。

その蓄積された思いが多いほど、反発する思いを力が増大するものがあります。

それを司る意識の表れが「畢婆迦羅(ひばから)」とするものです。

蓄積された思いを一気に放出するもののことです。

「堪忍袋の緒が切れる」

とした表現の方が、解りやすいものです。

人は「自責」すると、自分なりに変化し、改めようと工夫に努めようするものです。「言われなくてもわかっている!」と自分が今取り組んでいる最中であることが伝わらないことに苛立ちを覚え、確認した相手を「忠告してきた」と勘違いして、喧嘩腰に反発することがあります。

あまりに「そういう言い方止めてって言っているでしょう!」と、自責しているのだから「解ってよ!」と、相手の言い分の全てを「自覚している!」って伝えても、相手は止めてくれないものです。止めてくれるときは、ブチ切れるなどして「もうこんな所、出て行く!」と、覚悟を決めた人は脅しや、宣告をすることなく「行動に移す」という行為に走り、結果的に「出て行ったまま帰らない人」を生み出すことになるものです。

それは、「注意していた側」「気になったからつい言ってしまっただけの人」からは、相手がそんなにも嫌がっていただなんて知らないという扱いをするものです。それでも、「出て行かれた現実」は、辛く冷たくのし掛かり、「言わなければ良かったのに」と、後から悔やむしかない現実を見るのです。

ずっと「そういう言い方止めてって言っているでしょう!」という言葉が突き刺さり、それを真正面に受け止めていなかった自分の責めることで、軽口を慎もうとするものです。

こうして、一定期間耐えに耐えた苦しみを、一気に放出することで関係が変わる瞬間があります。その苦しみの蓄積を見る力でもあるのが「畢婆迦羅(ひばから)」です。

畢婆迦羅(ひばから)は、畢(ひ)は、「際限なく続く、苦しみの連鎖のことを指しており、立場や力関係において覆すことが出来ない状況下に閉じ込められるもののことであり、正直に告げても取り扱ってもらえない会話の成立しないさまのこと」を指します。

婆(ば)は、「状況や立場が変われば、言い方や受け止め方が変わることを指しており、畢婆(ひば)とした関係での「婆(ば)」は、肩書きや上下関係の立場に甘んじて考え方を固定化してしまい、問題の本質に目を向けず、自分の持ち得る先入観を信じてしまい、そのまま自分の価値観を相手に押しつけるさまのこと」を指します。

迦(か)は、「考え方や価値観を変えられず、世間の見方はどうであれ、自分の価値基準で物事を判断し、その場の関係性で自分の価値基準を押し通せれば良いとしたものの見方のことである。状況は変化しつつも、価値観を変えようとせず、時代遅れになっている現実を直視しないことでもあり、様々な想念が抑圧されて溜まっているほど、劣悪な対応を繰り返すこととなり、自発的変化は望めないことを示すもののこと」を指します。

羅(ら)は、「考えの固執化を無意識下においてループを生み出しており、自分は間違っていないという理論を作り上げ、他者の意見を聞こうとしない状態のこと」を指します。

畢婆迦羅(ひばから)とは、「自責の念が強く働き過ぎることで、自閉的な価値観に閉じこもるしかなくなり、自分の身を守るために論理的に解説し、それ以上傷つけられないようにするものと、自分はこれだけ傷ついているのだからそれ以上傷つけて来ないで欲しいと自分から自傷行為に走るものがあり、その中から抜け出そうと道を探す意識の表れ」のことを指すものです。

多くは、強いストレスとなる負荷(この場合、自分でも解っていることを、繰り返し注意されることで、耐えに耐えなければならない状態のこと)が強いられ、その辛さから解放される状態があればよいものの、際限なく負荷が重なると、爆発してしまう力の源を捉える意識の使い方のものです。

事例として、畢婆迦羅(ひばから)の力で捉える負荷の高まりを調べる「誰も真実を見ようともしない」という抑圧が世界に対して確かめられます。

これは、「真面目な人ほど損をする」ことや、「正直者が馬鹿を見る」などのことで、「規律を守っている方が悪者に扱われる」ことや、「失礼なことをしてはならないと他人を躾けようと叱ると、悪者に扱われる」ことなどが起き、表ではいい顔を見せているけれど、裏ではどんな姿を隠しているか解ったものではないとした価値観を示すものです。

人と人とは共生し合う生き物としながら、その実態は圧倒的な力関係で成立しており、武力(知力、権力、統制力)で解決出来る力を有している方が世論を制御出来る世界であることを知らせようとしないものがあります。

「人生に対する希望が見出せず、諦めている姿さえ見せられないので『楽しく生きよう!』と笑って元気に頑張る姿は見せつつも、それもどこかで演技していることを知っている自分が居る」ことを隠せなくなっている力の高まりがあります。

自分の人生に、この世界の在り方に、「不満」なのです。

それも仕方のないことだと解っていながら、「どうすることも出来ない流れ」に対する憤りが「集まって」います。

誰もが「こんな世界」という価値観を隠し持っているのです。

その抑圧のエネルギーが弾け、「自己犠牲という自責の念」が放出されたとき「人を責める気持ちと自分を責める気持ち」が重なり合い、「みんないなくなればいい」という思いに世界が包まれることになります。

「自分の責任=みんなの責任」というように、個と全が一体であるように、自己犠牲は全体の犠牲を呼び込むものとして考えると、抑圧のエネルギーが溜まりすぎると、自己崩壊を始めてしまう流れを生まれることを知らなければなりません。

「みんながみんなに対する想念の流れ」は、止めようも変えようもないものです。

時代時代に訪れる崩壊の波は、「良かれ」と思った政策や価値観が、「悪かれ」として決着がつくものです。安定を求め、誰かの失策の責任を取らせて、間違えたりすることで責め、失脚を繰り返させたツケが払われるものです。

「息が出来なくなるほど、辛いことが起きる」

という流れが始まると、畢婆迦羅(ひばから)は、告げるものです。


畢婆迦羅像(ひばからぞう)真上にイメージして、その位置で対話を試みると、自分の溜めているツケを想像することが出来るようになります。


人は自分を責めれば、問題が解決すると思い込んでいることが多くありますが、厳密には、「責める」ことは「これまでにない手立てを何も見つけられない状態から、何かを見つけ出して形にして届けること」を指すものです。

閃いたり、改善の工夫を凝らす為の知恵を生み出す為、使っていない心も使い、失敗して塞ぎ込んでいる心さえも動員して、新しい発想に着手させるため「責める」ことをするものです。

「責める」ことはポジティブなものなのです。

「より良い方法を見出そう」と呼びかけているものです。

ですから、誰も責められていないものなのです。「いいこと思いつこう」と呼びかけられてきたと気づけば、心は軽くなり、思ったことをそのまま「口にする」ことが出来るように変われます。

諦めていた自分の心の頭上に、「呼びかけられるのを待っている自分」がいるのです。それが畢婆迦羅(ひばから)なのです。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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