親愛の力 神母女像㉓
心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。日々、研究に明け暮れているものの否定の力を使わず、肯定する力で活動しようとすると困難しかないことを痛感しております。脳細胞に限らず、体の細胞たちは否定されることより肯定されることの方が良いに決まっているものです。その為、自分を肯定することも、他人を肯定することも当然の答えであるので、そのように成っているとして研究を重ね、「成っていない部分」を、「成っていました!」と改めていく作業の中で気づきが得られ研究が深まるということをしています。悟っていても気づきの日々であります。(63/88)
“悟りを開く”とはどんな意味、定義かといえば「心という自我が形成された後に、その器となる心を『無を知る(受)』と『空を気る(想)』と『歓びを喜ぶ(行)』と『今を生きる(識)』ことだとわかっており『自ら然るべき姿である(色)』状態を維持する為に、わからないままでも生きて不都合さを感じないように調和に従っていくこと」であり、「『私を自認する“わたし(受)”』と『私と対話する“あなた(想)”』と『私を支える“みんな(行)”』と『私の姿を映し出してくれる“誰か”』が居て、『“私(色)”という存在を形作る大いなる愛の力により機能するものが異性』が同じもので出来ていることを心得ているもので、関わり合いにおける不愉快さがあれば愉快に至らせる全知全能のような要素で関わること」です。
“心を開く”とか、“心を解放する”とか、そういうわかり易そうな言葉で語られたりもしますが、私が説くなら以上のような言葉で要約されるものです。
Wikipediaでは、色々書かれています。
他にも調べればそのようなものが出て来ますが、私の表現にせよ、著書などから得られる情報を集めても、「悟り」には至らない『どうでもいいもの』です。
実践的に役に立たない「知識」を備えても価値はなく、娯楽としての「知的好奇心」を満たしているに過ぎず、実践的な智慧(ちえ・真理に基づく閃きの知識のこと)を持つには途方もない探求が必要になるからであり、易々と到達出来ない故に、「知識」で満足してしまう流れがあるのです。
そして多くは「出来る人は出来る」、「出来ない人は出来ない」と区別して認識するようになるものです。
その解釈は正しくもあります。
夜叉(大将)、天、明王、菩薩、如来の区分は、それぞれの区分の教えでなければ認識出来ない人もいるからです。夜叉から教えで救われ、大将に転じた価値観を持つ者は「最後には」といった部分が重要視されます。
天であれば「未来には」が大切になり、可能性を期待できることが重要です。
明王であれば「現在は」が大切になり、今何をするかが大事であり、常により良き判断が下せる道を教わりたいものです。
菩薩であれば「過去から」が大切になり、蓄積や歴史の重みを重視し、継続した中で得られるものを重視します。
如来であれば「最初から」が大切になり、取り組む意識の持ち方が重要になるので、「初めから到達している」とする“即身成仏”という価値基準から取り組まなければ得られないものがあるものです。
この5つの区分全部を学ぶ必要があり、身につけることですが、如来における「最初から結果に辿り着いている意識の高さ」が求められるのです。商売や技術開発においても、「最初の閃きのアイデアを出す人が凄い」のであり、その閃くことが出来る「天才タイプ」は成長していくのではなく、成長しているところから始まるのです。
これが「即身成仏」としたイメージです。
もう、仏そのものになり、至っているのです。その立場から物事を考えてみる時、認識は変わります。
これは認知行動療法などでも見られるもので「ゴールから考えるやり方」と差異はありません。
自身が「如来だったら?」という想像力で、目の前にある課題に取り組むことです。
自身が「夜叉(大将)だったら?」という想像力を働かせるなら、「最後にはどうなったの?」と、結果を重視する着想になり、その事実を前にどのような判断を下すかをイメージ出来れば「今やっているところ」「努力しているのに」という経過を重視する発想は消し飛びます。
経過を重視するタイプは「現在は?」という「明王なら?」の問いかけに、「やるべき事はやっている。結果を気にせず自分を信じて貫いていけ」とする方がよいイメージが保てるもので、「努力を重ねても報われないときがある」と指摘するのもNGになります。
経過や歴史となる「過去、どこまでやって来たか?」という「菩薩だったら?」という着想を持つなら「これだけ継続しても成果が出ないが、この部分は成果が出ているから方向性を改めよう」といった判断が持てるようになるものです。「やってみないとわからない」というものに逃げ込みやすいところがあります。
これが「如来だったら?」と「やるときに、わかるでしょう?」という最初の問いかけが全てというイメージが抱けるものですが、悟っていない者がこの問いかけに答えられる人などいる筈もなく、全ての事柄は「最初は悪くても最後には幸せに至る」という右肩成長のことを指します。しかし、如来の発想は「最初から最後まで幸せであり、未来も良く、現在も楽しく、過去も辛くなく幸せだった」という状態であるため、こんなものは悟っていなければ言えないものです。
そして「最初から」が大切である以上、「最初から悟っている」として「最後も良好」「未来も良好」「現在も良好」「過去も良好」「最初から良好」で、苦しみなどありはしなかったというイメージが持てることが答えであるのです。
立体曼荼羅の大日如来が他の二十体全てが大日如来の化身だと表現されるのは、その為です。
千手観音坐像や千手観音立像が1001体ある、三十三間堂をどのように解釈し、どうイメージすれば、千手観音の意識の在り方を実践的に使いこなせるかが重要なポイントです。
使いこなせなければ、仏像の意味も価値も消失します。「結果は?」と夜叉(エゴエゴ)に言わせれば、鼻で笑われてしまうような「誰も悟っていない仏教界」など、ゲラゲラ笑い転げて馬鹿にされても仕方がないものですから。
「これからだ!」と天からすれば、未来に期待しようとしても「いつ悟るんだよ!」と夜叉(大将)は、結果や過去の経緯を見る限りは、未到達である以上、けっちょんけっちょんになじられるものです。
「今やっているところ」と明王からすれば、現在の立ち位置はそれでいいし、「これまで積み上げてきた修行の成果は着々とある」と菩薩からすれば、十二分な成果とも言えるし、「これからも諦めることなく鋭意努力する所存」とでも言えば済みますが、夜叉(大将)からは、やはり結果に繋がらない努力や「“鋭意努力中”と言えば許されるとでも思っている姿が許せん」とでも、批判しそうなものです。
知識だけは氾濫し、最もらしいことは並べ立てられていても、「悟りを開いた者」が続々と現れるようなものでなければ、宗教の信憑性など瞬く間に地に墜ちて然るべきもののはずなのに、そうならない不思議さがあります。
それは最初の起こりが普遍的なレベル(時代を越えていく力がある)から始まってるからです。
最初が優れたものであると、時代を越えて残るものでもあります。
時代を越える意識の在り方がわかると、千手観音という意識が使えるようになるかも知れません。
神母女像(じんぼにょぞう)㉓
ひときわ、異彩を放つ仏像があります。神母女像(じんぼにょぞう)です。
摩和羅女(まわらにょ)と紹介されたり、大力将軍女と訳されたりもするような仏であり、「どんな難解なものも諫(いさ)めてしまう」というニュアンスが込められているのが伝わります。
㉒〜㉘で紹介する仏像は五蘊(ごうん)における「識」の領域であり、第二チャクラに相当する7仏を分解したものです。
②乾闥婆「暴食(行)」
⑨阿修羅「不信(想)」
⑯大弁功徳天「終焉(受)」
これらの関わりがあり、それらを支える「識」の部分に㉒神母女「差別」があります。
人と人との物事は、「阿吽の呼吸」のごとく「ああ言えば」「こう言う」という反射的な反応現象で応酬するやり取りが想像できるかと思います。
人が「⑨不信感(想)」を思いついて、その気持ちのまま相手にぶつけると「⑯終焉(受)」となる終わった感で返事をしたくなるものです。
例えば、
「⑨少しぐらい手伝ってくれてもいいでしょ(不信の想い)」で話しかけると、「⑯こっちだって疲れているんだよ。そんな言い方ないだろう!(またこれかと終わった感覚に染まる受け止め方)」が出るようなパターンです。
「②またやっているし、終わらない(暴食(飽和しない)となる行い)」として夫婦のやり取りを見ている子どもの解釈があります。
「⑨手伝って欲しい期待が外れる不信感(想)」も他の温かな家庭と比較して、それが得られない「㉓差別されている感」が強く表れて批判してしまうのです。
「⑯頑張っているのに労いどころか、更に働かせる関わりに終焉感(受)」が湧き、こんな筈ではなかった当初の明るい未来を期待していた分、その努力虚しく批判される感覚が「㉓より多く働かされる差別感」が強く感じて警戒して素直に受け入れられないのです。
「②止めて欲しいのに止めてくれない暴食感(飽和しない感)(行)」があり、どうしても始まるし、止められない現実に打ちのめされるほど「㉓自分がここにいるから問題になるんだともっと消え入ることが出来ればと今以上に差を開いて別れようとする感」を抱き、どこにも逃げ場のない苦しみを持ち、我慢し続けなければならない現実に打ちのめされるのです。
「差別」が愛情表現であることに気づいている人は少ないものです。
母の愛は、他の子と差別して我が子に向けられるものです。
他(よそ)ではしないことを、内(うち)ではするものです。
その逆もあり、他の子には助けても、自分の子には助けずに自力でやらせようとするものです。それが子によってタイプがあり、関わり方を間違えて関わるところから始め、改める関わりによって成長するものとは知らないものです。
いずれにしても、「差別」しないことの方が難しく、どの家庭や親子でも「差別」は「特別感」に直結する優位性を与えてくれるものです。
優位性の相対に劣位性がもたらされることになり、第一チャクラの領域となる「⑮破壊(受)」「⑧犠牲(想)」「①強欲(行)」「㉒落第(識)」という劣位性が支えとなり、「⑯次こそ遊んでね(終焉にならないように努力する・受)」「⑨たくさん構って欲しい(不信を埋める為・想)」「②たくさん貰える(暴食が止まらない・行)」「㉓いっぱい構って貰える(差別・識)」が優位性として働き、少しでも自分や自分が大事にする者の為に積極的に関わりを保とうとしてしまうのです。
この上下の構図が見えないため、「特別感」が「差別感」を引き出している現実は見つけようとしても見つけられないのです。
自分がされて嬉しいことは、相手にもするものです。
自分がされて嫌なことは、相手にもしないようにすることです。
辛い思いをしてきたから、楽しい思いをさせてあげたいという優しさは、辛い思いをしたから優しい気持ちが育っているという感覚はわからないものです。
楽しい思いをさせてあげているのに、辛い思いばかりに至ることは「その方法では間違い」だと気づかなければ成りませんが、「自分がされて嫌で辛いことは相手にもする」などという発想は浮かばないものです。
よく、過食症など「②暴食(行)」という行為が見つかり、治そうにも治りにくい問題があります。
食べることを過剰にする「②暴食(行)」は、「大事にされすぎる差別(or 大事にされなさすぎる差別)が苦痛(識)」である場合があります。過食に対する家族の気持ちは「⑨なんでそうなの?(と、言葉や態度には出さない不信感・想)」があるものです。言葉では「大丈夫?」「病院行こうか?」などと、丁寧な口調などで本心を誤魔化していても、注意しても過食を止めない姿を好意的には受け止められないものです。あまりに過食が繰り返される(暴食だと認める)と、「⑯言っても無駄だ(終焉)」という諦められてしまうという内面が生じる為、過食に苦しむ者からしても「裏で見放された感」が得られてしまうため、また不安を補うために過食に走るものです。
「暴食」が「暴力」に置き換えれば「集団暴行」や「ヘイトスピーチ(憎悪、嫌悪、反感)」に繋がるものでもあります。
心の根底には「㉓差別意識(差別された記憶)」があるものです。
優性は善良で、劣性は悪辣という解釈で物事を習い、教わってきた経緯があるだけでも、「差別意識」は生まれます。
差別の意味や定義は、「心が傷ついた者と、心が傷ついていない者と、平等に扱うことで発生する感覚のこと(識)」であり、「状況、立場、関係性、風習文化において、価値観の相違があっていいとする不干渉の場合と、融和性や友好的な関係性を望む以上、同質の価値観の相違が無くなることを求める干渉することが、同居する場合に起きる認識のこと(受)」です。「価値観や概念の違い、育ち方や、気持ちの抱き方など、客観性になれる筈だど断言する側と、客観性は主観性に内包される為、客観性に入れない閉鎖的視野に追い詰められる場合があると弱者を擁護する側とが同居する場合に発生する事案のこと(想)」であり、「相対する解釈と、相補しようとする解釈とが、互いの主張を譲ること無く絶対視してしまい、相手を尊重しているように見せかけつつ否定している事実を見落としている場合に陥る事象のこと(行)」です。
差別を真理に問いかけて、持たらされた智慧(ちえ)から判断するに、「絶対避けては通れない衝突事象」というほど、回避困難な関係であることがわかり、「差別を無くそう」というスローガンそのものが「差別を誘発する行動」に基づいている事実を見誤っていることがあります。
「差別を無くしたければ悟ろう!」とでも表現するならば実現可能性があるものです。
母が子を思う差別意識(特別感)もあれば、子が母の理想を押しつけて差別してくれない(特別感を与えてくれない)不平もあります。
子の方に差別を引き起こす問題行動を抱かせる場合もある為、親がまともでも子がそれに従わなければ、「差別された」と僻むことを正当化して虐待を受けたと問題化出来ます。
神母女(じんぼにょ)は、「行動を慎みなさい(行)」と教え、「精良なる清らかさで関わりなさい(想)」と教え、「美しく気品高く自分で自分を惚れ込み、好きでいられる優雅さを保ちなさい(受)」と教え、「忌み嫌われようとも(解釈)、悪態をつかれようとも(恩恵)、反感を抱かれようとも(意図)、きっと辛いことや苦しさに負けてしまい、自分を見失っている愛された感覚のない人と想像してやりなさい(記憶)」と教え、それでいて自分の姿を示して実践して見せて真似ることでしか人は学び取れないものだとわかっている仏性です。
子どものいる前(見えない場所でも)で繰り返し夫婦喧嘩をしてしまうなら、それは確実に子どもも、妻も、夫も、どこかの記憶の中で「愛された感覚がない差別された寂しさを抱いている人」であるのです。
繰り返し問題行動が発生するものは「貪り、怒り、愚かさ」によって現れてしまい、スピーカーとマイクが近づいてハウリング現象が発生する問題と同じような構造です。家族の中に存在していると、「常に貪り(暴食)」、「いつも怒っており(暴言、暴力)」、「どんな注意も聞いて貰えない愚かさ(暴妄)」が存在して、制御不能に陥るのです。
ハウリング現象を止める方法は、引き離すことです。
想念を断ち切れれば良いですが、断ち切れないなら距離の問題ではないので、解決しなければなりません。どれだけ熱心に親身に話を聞いても、五蘊(ごうん)の関わりを同時に取りかからなければ、治る道も開かれないものです。
神母女(じんぼにょ)は、愛する伴侶や、我が子の為なら、死中に活を見出すようなギリギリのラインで物事に飛び込んでいくのです。全身全霊で事に臨むのです。
自分に非があると教わるなら100%自身の解釈の持ち方が間違っていると捉え直します。100%自身の恩恵として抱く気持ちが間違っていると感情の歪みは相手の問題ではなく自身の問題として改めます。100%自身の意図が異常であると扱い直し、根本原因である真因を見つけ出し気づきます。100%自身の生い立ちや記憶違いが問題を引き起こしているとして、全部治すと臨みます。
1%でも、「自分は悪くない」とした価値観や、0.1%でも「喧嘩両成敗」とした相手側にも非があるのではないかという発想が無くならない限り、我が子や最愛の伴侶が「差別に殺され(識)」「何もかも救いの無い終焉の暗闇の中に閉じ込められるとしたら(受)」「目の前に居る伴侶や家族や両親や我が子のどこを取っても不信にしか感じられない世界で生きているとしたら(想)」「目の前にあるものを貪り、怒り、愚かになって見せることでしか表現方法が見出せない盲目の境地にいるとするなら(行)」居ても立ってもいられないほどの必死さで、問題解決へと挑む姿が神母女像に現れているのです。
間違ってはならないのは、神母女(じんぼにょ)は、「⑧自己犠牲(想)」で、愛する人を救済しようとはしないのです。
神母女(じんぼにょ)は、「⑮自己破滅(破壊・受)」されてでもいいからと、愛する人の為に尽くそうとはしないのです。
神母女(じんぼにょ)は、「①自己顕示欲(強欲・行)」となるような母だから、妻だから、女としてなどの肩書きや、周りからの評価欲しさや、常識論から照らし合わせて動かなければいけないからとした認知から行動しないものです。
神母女(じんぼにょ)は、「㉒自堕落(落第・識)」を繰り返してしまうくらいに、自分の劣位性や、愚行や、無知や、無関心の過去が問題を引き起こしている可能性を知りつつ、相手の貪りや怒りや愚かさは自分の姿に違いないとして、今こそ自分を救い上げるとして全てをかなぐり捨てて未熟なままの自分を救済しに行くものです。
掛け値なしの誠意で取り組むのが神母女(じんぼにょ)とした仏性です。
その言い訳もしない、あの時出来なかったことを、今なら出来るとして改まった自分の全身全霊を賭けて関わる優しさは「我が子に限らず誰の子でも同じ」となり、「身内に限らずどんな立場の他人であっても同じ」となり、身分(貧富の差、能力の差)を越え、人種を越え、関係性や歴史を越えて関わると決めた瞬間に差別は消え去り、不信が拭い去れ、終焉の闇として閉ざして心が開かれ、暴食などの貪りや怒りや愚かさが消失してしまい、ここに愛があったのだとわかるのです。
そんな愛の人などいないと嘆く前に、ずっと傍らにあなたの人生を共に生き続けている「身体」がここにあることに気づいてください。
心に寄り添う身体があるのです。
心の痛みを一身に引き受けてくれている存在が「身体」です。
胸が痛むのは、心では無く身体が痛みを訴えているのです。
精神が病んでいると言いますが、神経伝達など身体機能が低下しているのです。
その低下した身体機能に従って、精神活動が緩慢(かんまん)になり、やる気がない無気力さを訴えるものです。
「こんな身体なんて」と嫌い、「ああいう身体が欲しかった」と自分で自分の差別する発想を持つと、とてつもない苦しみを背負い込むことになるものです。
これ以外にない身体を嫌わないように、これ以外に無い心も嫌わないように努められるとよいものです。
それをコツコツと丹念に丁寧に教えようとしてくれる仏性が神母女(じんぼにょ)です。
「大切なものの為なら全身全霊込められるイメージ」が持てるなら、それが神母女です。そこに自己犠牲(想)や自己破滅(受)や自己顕示欲(行)や自堕落(識)さに呑まれず、仮にそれらがあったとしても偽物の心だと横に置き、救済に取り組んでください。
ワークを教えます。
神母女をイメージします(全身全霊で掛け値なしで取り組む一心不乱に取り組む姿勢)。自分は「されるがまま無気力でよい」状態をイメージします。神母女と自分を重ねます。そして自分の制御能力や人生の権限の全てを神母女に渡してしまいます。神母女に乗っ取られている状態をイメージ出来たら「自分でヘソを曲げている理由を説明しなさい」と命じられると、ポツポツと全てを語り出す自分がいるとして、思い浮かぶまま話し出してみてください。話し終わると、終わった感が訪れますから、終わるまで続けてください。
「差別」というものは、自分がその中にいる状態は「特別扱いの当たり前」だという認識であり、大勢の味方がいるものです。それと相対に「普通の扱いがされない状態」があり、誰も味方のいない少数派がいるものです。
少数派が多数派に牙を剥くときがあり、それが「ヘイト(憎悪、嫌悪、反感)」などに繋がり、深く傷つく現実を生み出すものです。
「差別」は、個人個人の問題もあれば、仲間の問題でもあり、組織の問題でもあり、国レベルの民族の問題にもなるものです。意識の持ち方、広げ方により捉えるところ、治せるところが変わります。繋がる場所が一致しないと変わりません。
「客観性」という自分を客体的に扱う意識の動かし方が多数派を占めると、「単一性」という「没頭して周りが見えなくなる人」が存在しなければならない相対の力が働くと知っていてください。
全員で「客観性」は持てなくなることが起きることもあるのです。
誰かが「単一性」の偏見に染まるような真似を引き起こし、「その方法では上手く行かないよ」と教える存在が出てくることがあるのです。その人、一人のせいで「差別された」と嘆いたり、「差別するなよ」と擁護して正義を振りかざせたり、「差別していないのに」と悪者扱いされるという役割が発生し、どの立場でも「誰も平和になっていない事実」を知らなければならず、距離を置いて互いを批判し合って「問題に取り組みつつ未解決な現実」しかないのが「差別社会の実態」です。
「差別を真剣に無くしたいと訴えたいなら、悟りを開け!」
という程に、この問題は根深く、深淵で過去世の出来事にも直結するほど「識」にまつわる様々な事象を紐解ける精神力が必要です。
それはもう神母(じんぼ)と評されるほどの精神性の高さや崇高な使命感でも持たなければ、到達不可能なものぐらいに考えていただきたいものです。
それでいて神母女(じんぼにょ)は、誰にも持ち合わせていて無条件に今すぐ即身成仏と化せば取り組める力を授かることが出来るのです。
自分の為、愛する人の為、誰でも無いみんなの為に、悟りを開いて救済に加わってください。
お願いします。
「はい」
と、言葉に出して応えることで始まる世界があります。
最初に決めることで差別のない世界は始まるのです。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。