四天王の耳となれ! 多聞天③
リーディングマスター・まさみちです。“見えないもの”を取り扱い、心理カウンセリングに役立てて、通常では認知出来ない問題を紐解いております。そんな仏像に宿る空海の意図などを読み解き、宗教の世界で語るに語られないものを伝えられないかと記事にしています。(20/88)
帝釈天には、四天王がついており、東西南北を守護する存在が仏として存在している者の、梵天にせよ、帝釈天にせよ、人の心を育て、導くニュアンスや方法論が説かれているものです。梵天が人が持つ純粋なる成長する意思、三位一体の概念「仏法僧」による力が秘められていたり、帝釈天という象ほどの絶対的に抗えない力さえも、最終的には御すことが出来る結びつける力(雷)が秘められているなど、道のりを教えてくれるものと、読み解けます。
ですので、神仏として崇めるとか、奉るものとは違い、自身の中にある心をどのように機能させるかの方法論が仏像とした姿で象徴化され、教えてくれるものです。
四天王の働きは、③多聞天が耳、④広目天が眼、⑤持国天が身、⑥増長天が舌というものであり、②帝釈天が鼻に相当し、①梵天が意識の働く傾向となり、六識に分類出来たりもします。心もどこに意識が向くかで、どの仏が機能するかが変わることを指しているのです。
この六識の働きが天部というものとなり、外敵という邪鬼から身を守る術として心が機能しているものです。
北に位置する③多聞天は、「よく耳を傾けよ」と、北の方角は冷たく、厳しさが伴う者の、それを伝える人は本質を伝えようとするもので、「厳しさの裏に隠された真意を読み分ける能力を磨け」といったニュアンスが込められています。
西に位置する④広目天は、「よく眼を見開いて、色々と自分で構造を理解せよ」と、豊かなところに位置できるメリットを有効に活用し、その「潤沢とした環境下で得られる情報は、尋ねずとも全て眼から入っている事実を見落とすな」といったニュアンスが込められています。
東に位置する⑤持国天は、「その身で体感し、全身全霊が一つに機能しなければ何事も為し得ないもの」であることを教えてくれるものです。「身体で解ろうとする前に、知識で納得した気持ちでいる以上、自分の世界(国)を持つことなど不可能だ」といったニュアンスが込められています。
南に位置する⑥増長天は、「味をしめると、そればかりにハマり込んで得意になる反面、視野が狭くなる欠点がある故に、自分を見失うな」と、諸刃の剣であることを伝えてくれています。南には望み通りの環境という意味合いもあり、「舌先(試験に合格したこと等)で味わった気になってもいけなれば、(大会で優勝したからと)舐め腐ってもいけないもので、上には上がいると知りつつ、上に立ち後輩を育成出来なければ何も得られない」というニュアンスも込められています。
③多聞天
多くの知恵知識を、多くの人から聞ける立場でいることを重視するものです。たくさんの先人たちに愛され、可愛がられる存在でなければ、知恵知識を見聞きできる環境を整えることも不可能です。ネット時代である現代においては、興味のあるものにしか検索の意識が向かず、生身で触れ合い、先輩や大人たちの呼びかけで専門世界に触れる機会は減っている現実があります。その中でも、率先して外に出ること、ネットでも話しかけるなどコンタクトを取り、情報を聞き出そうとすることなど、見識を広め深める切っ掛けを見出せる能力が不可欠です。自分自身の心を見失っている場合は、自分で自分の声を聴かなければならず、その言い出せなくなった自身の心の声に耳を傾ける集中力を示せるのは、周りの情報(雑念や煩悩の声)を遮断する力も必要となります。何が解り、何が解っていないかが解る働きもあり、自分の興味ある気持ちや、関わる人たちが示す興味の中身に対する関心の高さを与えてくれるもので、関心が薄くても薄い理由を教えてくれるものです。好きほど好きな世界を構築する知恵が閃き降ろされ、嫌いや無関心になるほど、全体の知恵が総合的に低下する欠点を抱えており、あまたなものに興味の耳を傾けられている全方位に聞き耳を立てるような意識でいると、心の問題箇所の座標を瞬時に言い当てることも出来る力が授かります。索敵能力を具現化する存在です。
足下には邪鬼が踏みつけられており、「聞いているフリ」「聞こうともしない(興味ない)」「関心を装う(無関心)」「どうしようとオロオロする」などの姿で見られ、これらの行為をする者は邪鬼に意識が乗っ取られていることを教えてくれるものです。
繋ぎ方
多聞天の手の平に乗る「宝塔」の中に自分が入り、多聞天が自分の心の声に集中力を持って、耳を傾けてくれているイメージを持ちます。この時、自分のエゴは多聞天の足下に踏みつけられており、純粋な気持ちだけが残り、その気持ちを打ち明けていくことで、悩みが解消されていきます。
北門を守護する多聞天は、挫折した心や、諦めている状態の心や、かつて関心が高くあっても、状況や環境がそれを許してくれなかった問題などの心の声を吐き出させてくれる存在です。北門であり、冷たく厳しいイメージがつきまとう為、「興味ない」と、問いかけようともせず、疑おうともしない為、見失っている心がここにあるとは思わないものです。
外敵の侵入を防ぐイメージが強いものの、既に侵略され汚染されている場合はどうしたらいいのか? そういった、特殊な状況における問題解決の方法が示されていないのです。内なる声を聴きだし、心を開かせるには、多聞天の傾聴が欠かせませんが、普通の傾聴では聞きたくもない心の声など聞ける姿勢にもならないのが欠点としてあります。
心を閉ざした声と対話し、心を開かせる方法論は、現状がマシではなく、大ピンチでなければなりません。人は窮地に陥らなければ本気にならないように、また、窮地に陥っても本気になりたくないこともある為、どんな方法を使えば自分が真剣になれるか? それが気づきを得る1番の課題でもあります。
多聞天は毘沙門天とも扱われる存在です。
毘沙門天は、「やり遂げると決めたら、あらゆる情報に精通し、邪鬼を祓い、その道を究めるもの」とされ、絶大な集中力は願望成就されるその日まで緩むことのない頑強さで示されるものです。「嘘偽りを持たず、持たせず、真剣に取り組み、挫けることなく改善を繰り返し、人の役に立つもの」の象徴とされたニュアンスも持っています。
それ故に、毘沙門天が人気になるのは頷けます。頑張る人そのものの姿ですからね。
意識を繋いで、多聞天と対話してみる事例を紹介します。
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「嫌われることを恐がっているからだ」
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「興味が無いと一度ついた嘘に,嘘をつき続けている事実を止めるまでやる気は戻らないぞ」
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「真剣になることを格好悪いと解釈しているからだ」
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「見世物のような注目を集めてしまう状態を避けているからだ」
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「親や関わる人に、一切の負担をかけてはならないとしているからだ」
自分「やる気が出ないんだ」
多聞天「負担かけられていいとして、負担かけさせてもらうことだ。それを支え合うものという」
自分「やる気が出て来た」
多聞天「挫けてから、立ち直る力こそ育てろ」
自分「はい」
多聞天(微笑んでいる)
といったやり取りが生まれるかも知れません。自分なりに停滞している問題など、対話して気づいていってください。
多聞天の邪鬼は、「馬の耳に念仏」という姿でも現れます。馬の目のようにキラキラ澄んでいて、疑いがないのだけれど、念仏の意味も読み解こうとしない者に、念仏をいくら唱えても意味はありません。読経は、解釈の深さを解き明かそうとする者に知恵が宿るものです。人に簡単な翻訳を聞いて終わらせているようでは、身につく知恵知識などあるはずもありません。
仏教の門徒に限らず、信者になったところで、「仲良くしよう」という教えがあるのに、どうして「いじめはなくならないのか?」という事実の問題から、仏ならどのような解決を図るのか、悟ってみようとしなければ、真理の智慧など得られる筈もありません。自分から耳を傾けようとしなければ、何事も身につかないことを多聞天は教えてくれるものです。
その多聞天という心も、自分の中に秘められて存在しているのです。機能させるか、させないかは自分自身の心がけにあります。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。