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帰還の 提頭頼吒王像⑱
心と言葉について研究を続けるリーディングマスター・まさみちです。言葉は言って伝わるものを使いたいものです。「言っているのに聞いて貰えない」という体験は、相手は聞こえているのか? 伝えた内容を理解できているのか? 相手の環境として了解しうるものなのか? などと、様々なことについて考えると、「聞いて貰えない」という表現は、「人のせいにしてはいないか?」とした見方も持てると、少し冷静になって物事を考えられるように落ち着きます。(58/88)
リーディングという能力は、微細な雰囲気や言葉に含まれる行間を読み解くもので、自分や相手がどんな無意識をそこに含めて会話しているのか解き明かす知力です。
人は過去から学ぶものとして、辛い体験をすると、「二度と嫌な思いをしたくない」と傷ついた心を庇いながら生きているものです。
多くの場合、「予測して危険を回避しよう」とするものです。
言葉を投げかけられても「ちょっと待って」と思案し、それが自身に危害が加わるものかどうか判別して、安全だと感じられたら承諾し、そうで無ければ断ることで安全を選び続けるものとして考えるものです。
しかし、物事を「はじめてみて」からわかるものもありますし、「終わってから」でなければ、評価出来ないものもあります。人付き合いというものは、どの瞬間を切り取ったら「良かった」といえるのか、「良くなかった」としてしまうのかは、とても難しい判断です。
「新しいことを始める」=「それ以前のものが終わる」
ものだとするなら、「新しいものは生き生き」とし、「古いものは枯れる」ものと扱うこととなり、それは10歳のタイミングで訪れることもあれば、30歳のタイミングかも知れません。5歳かも知れなければ、80歳かも知れません。
「若ければやり直しがきく」という表現もあれば、「若くてもどうすることも出来ない深い深い哀しみがある」という表現もあります。
人は想定を超えるものを理解することが出来ない為、手に負えずに立ち去ることしか出来ないものでもあり、他人に想定出来ないものを抱えてる側としては、孤立するしかない酷い孤独の中に陥ることとなります。
愛されるべき対象が、愛されないでいる体験をした時、人は「憎悪」を抱くものです。
憎悪とは、「継続的に愛されるとされた関係性が壊れた時に発生するもので、愛される別の対象に愛が流れた場合、継続的に愛してくれる筈の苦しみを一手に引き受け、それを慈愛することが出来ずに反発する症状のこと」を言うものです。「愛し合う者同士の一方を、本人の意思と違う行動を脅迫などで動かした場合に、もう一方に湧き上がる感情のこと」を指すものです。
憎悪は、認識を強制的に歪められて発生するもので、その歪みを受け入れ解消できる力を有することが出来れば改善に至らせられるものです。
提頭頼吒王像(だいずらたおうぞう)⑱
人が持つ憎しみは、想定する流れを他人により変えられ、自分のこれまでの積み重ねや、これからの計画を踏みにじられたと感じる時に発生するものです。
人は自然物と人工物と別々だと解釈することで、人の働きのみ特殊とした解釈を持つものです。それは「嘘をつく生き物」である為で、「幻想を好む」ことが出来るからでもあります。
この「嘘をつく」ことや、「幻想を好む」ことなどが、精神的異常な作用だと定義するなら、全ての人と言って良いほど心が病んでおり、自然に帰還することが出来ない状態だと考えることも出来ます。
深い憎しみとなる「憎悪」というものは「大切な人を奪われた」時などに発生する感情であり、それが自然災害であっても抱くものでもあります。
人が自然と一体となり生きていられる状態なら抱かない「今日と同じ明日がある」ことや「昨日も今日もいつも通り続く」とした、「変化しないこと」の異常さを知る必要があります。
「今を生きる」しかないという大前提のなさが、日常を容易く崩れ去り、変化させた存在を憎むのです。想定外の出来事を受け入れられない状態と、相対する形で維持されるものが「何かを憎む」ことなのです。それが人の心が自然体に戻らぬように努める働きなのです。
自然を壊された体験への哀しみが憎しみとなり、人が嘘をつく人間として存在し続けようとする矛盾した生き物とも言えます。
自然から離れても、自然に還る流れが常に働いているものの、それを拒み続け、否定し続けることで人間の知性は保たれていると信じられているものです。
自然は様々なものと繋がり合って存在しています。
人はその繋がりから外れることで、「哀しみを生み出し、自我を形成し、知識を持ち、判断力を持つ」ことで人らしく居られるようになっています。
常に心(エゴ)は、否定されることで支えられているとは無自覚であり、自分の意識はポジティブを保ち、平和を望み、ネガティブを避け、幸せでいられることを望みます。
そう望んでいても、人との関わりは難しいものです。
優しくしようとしていても、怒られたり、嫌われたりします。
傷つけないように我慢して「止めてください」とお願いしていたら、一行に嫌なことを止めずにいて、エスカレートするばかりになるのが、相手の問題だと信じて疑わないものです。傷つける勢いで「止めてください」とお願いしようと決めたら、言う前に嫌なことをされなくなることも起きるのです。
「他人のせいにしても何も変わることはない」
とした知識を与えられても、人は人を責めることをやめず、自分に正当性があると信じるものであり、解決出来ないのであるなら、離ればなれになるしか方法論を見出せない問題がここにあるものです。
提頭頼吒王(だいずらたおう)は、「人のせいにしない」為に心の中を見張る仏の姿です。
教わった知識が正しく機能するのかどうか、知識に固執するのも自身で決めているものであるなら、教えた人が悪いのではなく、教えを疑わない自身の稚拙さの問題でもあるのです。
「愛すると誓った相手に裏切られた」
と、相手の誓いを破る酷さをあげつらうことも大切なことかも知れないものの、自分が「誓い続けられるだけの美しさが欠如している」と指摘された時、「誓い」という肩書きに固執して、自然と共に生きる美しさを欠落し、何もしない腐った価値観に沈んでいったと厳しく言い放たれても仕方のないこともあるものです。
「初めから最期まで全てが美しい」
ことであるなら、それに越したことはないものです。
しかし、そうした価値観を育てるには、「初めは良かったけど、それからは駄目だった」という体験が必要です。
「色々とあったけれど現在はそれなりに幸せです」とした継続して来た甲斐があると感じられるなら、それはそれで新たな解釈を育てられるものです。
「何度も駄目だと思い、周りに支えられてやり直し続けて、最期には一緒になって良かった」と思えるようになったと言うならいいですが、「耐えただけ無駄でした」という経験も大切になります。
どれだけの苦しみを乗り越えたら、幸せの体験に辿り着けるのかわからないものです。
心について考える時、「二度とあんな思いはしたくない」とした価値観ほど、憎悪に直結する体験へと繋がるものです。
「またこんな目に遭うなんて」と、回避しようとした結果、回避出来ない事態に直面してしまい、「こんな事なら、誰の言うことも聞かない方が良かった!」という思いが湧き立つことさえあり、全てが自身の判断と決断と全責任を背負い込んで、誰も責めない、自身さえ責めず、改善の工夫しか考えつかないようになると、世界は変革をもたらしてくれるものです。
提頭頼吒王(だいずらたおう)の意味は、
提(だい)とは、「既に持ち合わせている育ってきた環境や価値観や文化などに人の解釈は縛られるもので、それを覆して認識を改めることは困難である。だが出来ないことではない。より大きく大事なものに出会えたとき、人の価値基準は無執着へと変貌することを大いなるわたしは知っている」とした意味があります。
頭(ず)とは、「物事の大事なものと考える時、“より大勢の人の純粋な気持ちから想像する”ことで、本質となる智慧(ちえ)に触れられるもの」とした意味があります。
頼(ら)とは、「在るべきものはしつもそこに在るとは限らず、最初から存在していないものを信じないことである。嘘と真実を見極める時、その教えに従うことで関わる相手と揉めるなら、直ちにその教えを手放すことを伝えるもの」とした意味があります。
吒(た)とは、「奇をてらうことも試み、万事尽くすことまで取り組む姿勢を見せるほど、それに執着し、譲れないものがあるとなりふり構わないで誠意を示し続けることを全身全霊を込めて果たそうとした時、物事は動き出すもの」とした意味があります。
王(おう)とは、「自身の人生は誰にも束縛されず、命じられることもなく、全てが自身の決断により受け取ることも、受け取らぬ事も決めており、不必要なものは一つももらわずに済ませられると知ることで、より良くするものを求められる存在であり、それを全て知っている自身に出会うこと」とした意味があります。
提頭頼吒王(だいずらたおう)とは、「好きな人を前にした時、全てをなげうってでも、共に生きて行きたいとした思いやりを自身の中に見つけ出せるかどうか問いかけるものであり、それが見出せないなら、共にそれを見出す為に付き添う存在のことです。自分の内面に隠された嘆きや憎しみの根源を辿り解消し、自然体に戻らせてくれる導き手のこと」とした意味があります。
提頭頼吒王(だいずらたおう)は、「自分だったらこうするのに」とした、その思いにひたすら従い、関わり続けてくれる存在です。
この「自分だったらこうするのに」とした思いが稚拙だったり、歪んでいる場合は、「憎悪」を向けられることになるか、「憎悪」を抱くことになるなど、相手を悪い存在と見て、自分を善い存在だと見ようとする邪悪な心に染まることもあるものの、それではないものです。
「自分だったらこうするのに」とした解釈の元に、全てを解明してみせ、慈しみを育て、愛するとはどういうことかを体現していくこととなります。それが提頭頼吒王(だいずらたおう)です。
愛するとの定義は、「人から信じて貰える働きをすること」であり、「誰にも褒められたり、認められないとしてもするべきことを為すこと」であり、「常に自分が一番の無知者だと知り、新鮮な眼差しで今を生きること」であり、「人を信じ切ることで裏切りや騙されることが我が身に起きるならば、相手にとって何一つ利用価値のない存在だと気づかせてもらったと感謝し、至らぬ点を磨き上げるように努めること」として関わることを指すものです。
愛の定義は、「否定できぬもの」であり、「恐れを知らぬもの」であり、「比較や取引をしたいと思わせぬもの」であり、「歓喜や祝福を分かち合い、生命の息吹を与え合える関係へと築き上げられると信じているもの」であります。
辛く、苦しく、憎悪を隠し持ち、抜け出せない負の連鎖に陥っている心があるとするならば、「もういいよ」と呼びかけることで終わらせることが出来ます。
止めてあげられるのは自分以外の全ての人を信じられた時です。
提頭頼吒王(だいずらたおう)と愛する相手を重ねてイメージします。「愛しています」と言われたと想像すると、自分の中に何が湧き上がるのか、見つめ続けてみてください。
いかがでしたでしょうか?
愛することの定義、愛の定義を覚えておくと様々な場面で支えになります。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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