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列を乱せない 伊鉢羅像⑥
心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーをしており、目に見えない「識」の流れや、絡まりを紐解き、無意識下の変化を引き起こして、「執着して離れることが出来ない精神疾患」さえも、癒やして感覚器官の回復を行っております。(46/88)
感覚器官には、知覚器官(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)と5つの運動器官(手/授受器官・足/移動器官・生殖器官・排泄器官・発語器官)の10個の器官があり、これらの感覚に乱れが生じると、「やめたいのに、やめられない」という心身症を患うことになります。
意思で自身を制御出来なくなる問題があり、「買わなくていいものを買ってしまう」ことや、「言わなくていい一言を言ってしまう」など、日常的に見られる感覚器官の誤動作が心身症である病気と同じと気づかないだけで、多数の人が患っている問題について、取り組んでいるものがリーディング心理学です。
ヨーガについて、学びを進めてきたものの学びの限界を感じた為、独自の手法により、心と言葉について研究を進めて体得した知力により、仏像にまつわる意味や解釈を読み取ることが出来れば、ただの観賞用であったり、心を落ち着かせてくれるものであったり、気休めの説法がイメージされるに留まるような対話しかしてくれないものではない、法(真理)の深淵を覗かせてくれるようなシビれる解釈を紐解きたくて、記事を書いています。
三十三間堂の二十八部衆について、後白河天皇の眼差しから見える世界観から仏像の意味を読み取って紹介しております。
伊鉢羅像(いはつらぞう)⑥
物事は流れの中にあります。
雨が降り、雨水が集まり、それが流れて川を作り、海に流れていきます。
それが繰り返されると、雨水が流れる溝が出来、地形を少しずつ変えていきます。
これが大雨が降ると、大水となり、刻まれていた雨水で作られた溝などお構いなく、水浸しになり、濁流となって川に流れ込み、その川も氾濫して地形を変えてしまうことがあります。
そしてまた普段通りの雨が降り、地形が変わった大地の低いところに雨水が集まり、水路となり、川に流れて行きます。川じゃなかったところが川になることもあります。
強い堤防を築き上げれば、大水でも氾濫せずに川は、そのまま川として流れていくものです。
人の心もまた同じように、強い堤防を心に築き上げれば、物事に動じずに済みます。そうでなければ大きな出来事を前にすると、易々と心が折れて立ち直れなくなるものです。
「他人は何をするか解らないから、慎重になり、易々と信じてはなりません」
と、他人に対する防御の堤防を強く高く築き上げることがあります。
それが、お腹が空いたから、台所にある食べ物を食べたら、親が烈火のごとく怒り出して、執拗に責め立ててくること(用事があるから、両親の財布からお金を貰い受け(盗むとも言う)、後に見つかり激怒して、執拗に責め立てること)があります。
他人に対して警戒するように教わっても、身内に対して警戒するようには教わっていないので、心の内側に身内に対する防御の堤防を強く高く築き上げる方法を知らされずに、一方的に怒られてしまいます。
ズタズタに引き裂かれた心を前に、台所の食べ物は許可なく食べてはならないもの(親の財布から許可なく貰い受けてはならないもの)と覚えます。
このような教わった場所と違うところで、怒鳴られたり、泣かれるほど悲しまれたり、無知を嘲(あざけ)笑われたり、無意味に恐がれたり、先々を身勝手に憂いたりされると、子の心は親や身内にどのように接していいかが解らなくなります。
子どもなりに、教わっていないことでも怒られることなど、悲しい出来事に対して対策を考えます。
親は他人に不審がられたり、責められるリスクを回避するために「他人に良い顔を向ける」ことを徹底して『心の堤防を高く強く築き上げること』をしていますが、身内の子どもたちには「どんな顔を見せても大丈夫」という安堵感から、リスク回避となるような手立てを打ちません。
子どもは、そのような親に対して、
「嫌われないように親の言いなりになる」ことで生存する道を選びます。
「何が正解かを探り当てて、親の悪い反応を出さないようにする」ことで取り引きや駆け引きする道を選びます。
「痛い思いは二度としたくないと、親と同じように真似る」ことで味方であり続けようとする道を選びます。
「強い反発を持ち、親にようにはならない」と、反抗心を秘めつつ自立の道を選びます。
「何が起きているか解らないために、また同じようなことをしてしまう」と、反省も学習もない叩きのめされるままの道を選びます。
といった、五つに分類出来るようなパターンで、親との関わりにおける学習が生まれたりします。
物事は、雨が降り、雨水が流れ、地面が削られていくように、当たり前に大地は変化していきます。
心は、親との関わりにおいて、負の感情をぶつけられると、心が削られていくように、当たり前に関係性は変化していきます。
どれだけ高い堤防を築き上げても、それを上回る大雨が降れば堤防は決壊するものです。
どれだけ辛い罰則を設けても、それを上回る辛い体験が積み重なれば心の制御は決壊するものです。
どれだけ大勢の人が規律を守るように従っても、それを上回るほど悲痛な感情が一人にのし掛かれば、行動の制御は決壊し、誰かを困らせたり、みんなを弱らせたり、あなたを傷つけたり、私自身を無視して鬱(うつ)に鎮めてしまったり、わたしを破壊するようにして自殺に追い込むことがあるものです。
誰かを守ると、わたしという部分が壊れ、自殺します。(自分を見出せなくなる)
みんなを守ると、私という部分が壊れ、病気に倒れます。(他人に認められようと自分を捻じ曲げるようになる)
あなたを守ると、あなたという部分が壊れ、怪我を負います。(何かに帰属したり、仲間である為に自分に嘘をついて生き続けてしまう)
私を守ると、みんなという部分が壊れ、争いが生まれます。(誰かを批判したり、否定し、嫌悪していなければならなくなり正義を振りかざすようになる)
わたしを守ると、誰かという部分が壊れ、自分を嫌い続けるようになります。(悲観的なものの見方しかしなくなり、努力しても報われない結果に心を閉ざして無気力になる)
規則という雨は自動的に罰則という溝を生み出します。
「ルールを守ろう」と呼びかけると、「ルールを守りを破ったら?」と、刑罰のリスクと比較して、重罰なら守る、軽度過ぎるなら守るに値しないと考えてしまうようです。
しかし、重罰であっても人の心は制御出来ないことがあります。
ルールの罰則が重くても、「見つからない工夫をしているから平気」とする心が在ります。
ルールの罰則が重くても、「見つからないときにしか破らないから平気」とする心が在ります。
ルールの罰則が重くても、「この時は、相手の方が悪いから破っても平気」とする心が在ります。
ルールの罰則が重くても、「良くないと解っていても、法に従えないから平気」とする心が在ります。
ルールの罰則が重くても、「意識していても制御出来ていないから破ってしまう」とする心が在ります。
このように雨が降れば、地面が削られると同じくらい自然なように、ルールという罰則が設けられれば、自然に破る流れが生み出されている事実を知らなくてはなりません。
ルールを守れる人を見るよりも、何が何でも破ってしまう人の心を見つけて、治さなくてはならないのです。
ここには、「人は悪い人」とした教えの雨が降り続いています。
これを、「人は良い人」とした教えの光として降り注いでいるに変える必要があります。
今の世の中は、「罰則で恐れさせて、損したくないから得したい」という気持ちで動かそうとしています。
伸びやかに、笑えるように、心地よいように、清々しく、純粋の思いのままに「ルールを守ろうとしなくても守ってしまっていたくなるもの」で動かしていければ、厳罰での苦痛が刻まれた、あの時の子どもの心のようなズタズタになる体験をさせなくてもいい世界を与えてあげられるのではないかと願うのです。
親が罰則で育てられるなら、子も罰則で育ちます。
親が笑えるように育てられるなら、子どもも笑いながら育ちます。
人は放置していても、誰かが痛めつけられることは見たくないものです。
人は何も教えなくても、みんなが傷ついている姿について聞きたくないものです。
人は何も知らされていなくても、あなたが影で泣いていることは臭いでわかり、それを隠して欲しいとは思わないものです。
人は呼応するように、私(親友)が辛い目に遭った瞬間、不味い感情に襲われ、それを放置していたいとは思わないものです。
人は見ていなくても、わたしの様子が変になり、調子を崩していることは伝わるもので、「なんとかしてあげたい」としか思わないものです。
それを感じられないなら、重罰に苦しむ心があるだけで、治療して治せば、笑える心に戻ります。
誰もがみんな、味方だと思っていた相手からの厳罰により、ズタズタに切り裂かれた心をどうしていいか解らないまま、今を生きているのです。
傷ついた心で生きるなら、傷つけていく結果を生むだけのことです。
より大きな傷がつけば、より大きな傷跡のまま生きて行くだけです。
大地が川の氾濫で浸食されるのは自然と同じように、人と人とが関われば、他人との付き合いは上手に出来ても、身内との関わりはズタズタのまま、どうすることも出来ない溝を作り上げて、途方に暮れるしかないものです。
何かを変えたいなら、より強い意志で堤防を築き上げられるような心を育てることです。それは、一瞬の想像力で出来ます。
苦しいことより、楽なことが好きなら可能なことです。
現状が苦しくて動けないと嘆くなら、より楽な方に動くことで苦しみを改善出来るなら動けてしまうのです。
肉体が動けなくなっているなら、いきなり肉体を動かそうと言うのは無理があります。
心は自由ですし、制限がありません。
心には、「誰か」と呼びかけてしまう部分があります。
心には、「みんなに」と伝えたくなる部分があります。
心には、「あなただけに」と教えたくなる部分があります。
心には、「私はさ」と秘密を持っている部分があります。
心にはない部分に、「わたし」という全てを知り尽くしている領域があります。
そのどれもが協力し合う想像力で、心を動かそうとすれば、ズタズタに傷ついた心さえも治していける道が生まれます。
これまでの因果律を動かすのは「今」この時です。
「どうせ」という諦めの言葉を抱いたことがあるなら、それを最良な意識の使い方に全部賭けてしまって欲しいのです。
一人で取り組まないことです。
想像力は、わたしも私も、あなたも、みんなも、誰もが協力者です。
老若男女問わず、一族も、地域の人たちも、関わり合いのない赤の他人でさえ、想像力の中なら、味方にしてしまえます。
自分のズタズタになった心で考えないことです。
自分のズタズタになった心を治しにかかるピカピカの自分を創造して助けにかかってみて欲しいのです。
雨が晴れに変わるように、濁流が清流に変わるものです。
嫌う自分が居れば、自分に嫌われている自分もいます。
自分同士を嫌い合っていると見ている無責任な自分もいますし、嫌い合っていた事実に気づかない自分もいます。
全部、自分同士で傷つけ合ってズタズタにしている事実があると信じられるなら、今すぐやめると決めてくれれば、終わります。
知らずに行動する自分を許しても悪さはしません。
厳罰を許して解放しても悪さはしません。
嫌い続けて無視し続けるような真似をやめれば悪さはしません。
存在否定をすることをやめれば悪さはしません。
全ては否定でなく肯定して見てあげれば悪さそのものが消えてなくなります。
どこにも大切な人を傷つけたい人などいない真実が見えてくるのは、心が治ってからです。まずは、治すことに専念してみてください。
誰もが、同じ現象を同じように解釈するとは限りません。
傷つけ合ってしまった、今だから解り合える道があるものです。
どうか、雨が降っていても、雲の上に太陽の光が降り注いだままであるように、心も悲しみの想いが渦巻いていても、その上に目映い歓喜そのものが輝いているのが同時にあることに気づいてください。
それが怒りも、悲しみも、嘲笑いも、恐れも、憂いも、どれも同時に祈りの息吹があり、祝福があり、生命の輝きがあり、歓喜そのものがあり、慈愛がもたらされていることを片時も忘れないでください。
神仏の愛は、あなたと共に在るのです。
後白河天皇より。
いかがでしたでしょうか?
伊鉢羅(いはつら)というものは、伊(い)は、「在るべきものがそこにあることで発生する仕組みのこと」を指し、鉢(はつ)は、「巡る歯車のように循環する流れがただそこにある」ことを示し、羅(ら)は、「何かが変わらなければ、何一つ変わることのない循環があり、その仕組みの全貌が解らなければ解けないもののこと」とする漢字です。
雨という水は、低きに流れる重力のメカニズムに従うだけで、脆い大地と堅い大地があるなら、脆い大地を浸食して削るように、心も同じように弱い者の方が削られていくだけです。それが時代によって、守る対象が移り変わることもあり、ルールが変われば、心のダメージの受け方も変わります。
後白河天皇の時代より、変わらない雨は、「より強い者が勝つ」ことであり、当時は「私(友)」を思う気持ちがより強い方が、現象を動かすことが出来たようです。
戦国時代に近づくと、「あなた」を思う気持ちが強い方がより強くなり、江戸時代は「みんな」を思う気持ちが強い方がより強くなり、幕末から明治、大正、昭和の大戦までは「誰か」への思いが強い方がより強くなっていました。戦後から高度経済成長を経て、現代においては「自我(わたし)」がより強い方がより強くなっています。
これからは「真我(わたし)」が強い方がより強くなっていく流れがあるので、ただその流れに従えた人は、強く振る舞えるものです。
人は罰則というリスクがあるから回避するためにルールを守り従おうとしてきた流れがあります。どれだけ罰則が強くても破り続けるなら、苦しんでない理屈になります。逃げ道のない苦しみが来たときだけ、重い腰を上げ、ルールに従おうとするメカニズムがあるなら、自然界はそのように動くかも知れません。
痛いから、病院に行きます。
辛いから、整体院に行きます。
しんどいから、休暇を取ります。
我慢したから、遊びに出かけます。
動けないから、寝ています。
これが、心の学びをする為に、自然の雨がもしも降るなら。
卒倒してしまうから、救いを求めます。
激痛だから、助けを求めます。
気が狂い出しているから、すがりつきます。
もがき苦しむから、委ねるしかなくなります。
解放されるから、身に起きていた動け無さの真実を探し求めます。
誰もがみんな、協力し合えているなら何も起きずに今まで通りの世界が続くはずです。ただ、物事は自然のままに、何かが変われば、何かが変わるものです。
最初から最後までの流れを見て、変化した瞬間に全てが変化していっていい相対的な関係性にあるなら、物事はうまく行くものです。
変化を望まず、「変えたくない」と願う心そのものが、自然界には存在しない嘘の産物だと知ればいいものです。
それだけです。
立ち止まれていない事実に気づけたとき、立ち止まっていた時間の分量だけの力量が動くとき、どんな現象になるかは誰も解りません。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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