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答えを告げる 大弁功徳天像⑯

心と言葉の研究を続けるリーディングマスター・まさみちです。言葉を調べれば調べるほど、奥深さを感じます。一つの言葉の意味に何重にも深い経緯や背景により、認識や使い方が変わることを知る程に、言葉を知らずに使っていることを思い知るばかりになります。よく、こんな状態で会話をしているなと思うものです。知ると知らない段階に戻れないことを強く感じ、知ってさえいれば様々なことにおいて、誤解したり、衝突しなかったと思うものです。(56/88)

物事の成り立ちを考えたとき、自然に立ち返ると見落としているものが見えてくることがあります。

言葉は意思疎通の便利さがあるものの、育ちや文化背景が共通していないと誤解が伝わることにもなります。人の心が深く傷つく時は、想定していた約束ごとが破棄されるなど辛い挫折体験が起きると、それを乗り越えるべき負荷を自身に与えてより強くなろうとするメカニズムがあります。

筋肉を鍛える為に負荷をかけて行くように、願いを叶えるためにストレスに浸らせ、それでも願いを叶える強靱な精神性や、希望を繋ぐ諦めない精神性を持とうとするものです。

物事を成長させ、より高みへと伸びていく時、「可愛がられる」状態での環境下と、「嫌われる」状態での環境下では、育成の伸び率は変わりやすくあるものです。

応援されて育つか、邪魔されて育つでは、体感する喜びか、悲しさかによって、習熟する度合いが違います。応援されたから良く育つとも限らず、邪魔されていても良く育つ場合もあり、何が人を成長させるかなどは外側の状況では判別不可能なこともあります。

多くは、応援される方がより良く育ち邪魔される限りその道では生育困難に陥るものです。

「頑張れ! 諦めるな!」

といった声援は、応援しかない環境下では、どこまでも頑張れたりもしますが、邪魔されるような体験が来ると、それに対してどのように関わればいいかわからなくなり、累積した心理ダメージにより動けなくなるものです。

この邪魔する感覚が、「家族」や「先生」など、生活環境において逃げ出すことが困難な場合、対処する力を学ぶことも無く、ただじっと時が過ぎ去ることを待つしか無いことがあります。

「家族」や「先生」など「大人」は子どもたちに対して「味方」だと解釈していたとしても、子どもたちは「無理解者」だと認識している場合素直に心を開いて話すことが出来ないことがあります。

「嫌なら、嫌と言っていいのよ?」

などと、邪魔された感覚があったとして救助を求めていいと、周りの大人は子どもに促しても、「それを口にした後に、どんな体験が待ち受けているのか、完全なる安全が保証されている絶対的な安心感」でも与えて貰えなければ、「嫌だった」ということも出来ないものです。

その真逆において「嫌いじゃ無かった、“好き”が本当に気持ちです」と、応援してくれる環境でも、その応援が気に入っていても、「うるせぇ」と拒絶的な対応しか出来ないこともあります。それを真に受け止められると、本当は“好き”なのに見捨てられる体験に繋がることがあります。

誰もが、応援されて「ありがとう」と言え、邪魔されて「止めて」と訴えられるならよいものの、個人でも手に負えない邪魔され感が、集団になって襲ってくるとどうすることも出来ない問題となり、深い傷として心に残ることになります。

人と人とが関わりを持つと、より力がある方が、より良い感覚を得られるべきものだと錯覚し易く、権力など立場を尊重しない気分に追いやられると力で捻じ伏せたいと思う人もいるものです。

それ故に、人と人との関わりは「嫌われないようにする」ことがとかく大事だと教わるのです。

しかし、上に立つ者や、権力を持つ者が、「嫌われないように尊重してくる下の者を好意的に感じない」と、教わらないものなのです。

何が、どの様に人の心が動き上の者や、権力を持つ者「傲慢になる」メカニズムを知らなければ、生きる道を邪魔され、捻じ伏せられ、潰され、排除されるしかないものです。

大弁功徳天像(だいべんくどくてんぞう)⑯

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人との関わりは、「相手の身になって考える」と教わるものですが、「相手のタイプが様々ある」とは教わらないものです。

夜叉であるなら、「自分に利することしか受け入れられない」もので、手間暇かけず、利益だけが転がり込むようなメリットしか無い話にしか乗りたくないタイプがあるものです。

であるなら、「自分の得意とすることに声がかかる」ものなら嬉しく思うものも、欠点の改善を促すような声かけは御免被りたいものと感じるタイプがあるものです。

明王であるなら、「状況や環境において、無理を承知で頼まれて欲しいと、相手の善意を引き出す場合」なら、仕方なく引き受けたいと思うタイプがあるものの、基本的に本人の努力などの蓄積が見られていなければ期待に応じることはなく、他人を都合よく利用することを嫌うタイプもいるものです。

菩薩であるなら、「真剣味や、今後の夢や天望など伝え、自分一人で積み重ねてきたことが限界にあり、手を貸して欲しい必要性を訴えてくる実直さ」が見られるなら応じたいと思うタイプもあります。

如来であるなら、「試そうとしないことや、顔色を伺わないことなど、緊急時であるなら、そのまま素直に現状を告げてくれる」と、気持ちが動いて助けてくれるタイプもあるものです。

人との関わりは、夫婦としての妻から夫夫から妻への流れがあります。

子(息子の眼差しと、娘からの眼差しの二つある)両親を見て、母から父へ、父から母への流れがあります。

兄弟の存在が居る、居ないの有無に関わらず、兄から弟弟から兄があり、姉から妹妹から姉兄から妹姉から弟……、などなど、関係性の全ての相対があります。

これらが、祖父母や、叔父叔母や、従姉妹に広がり、姪っ子甥っ子などの相互関係性があるものです。

これら過去世など、多産な時代であるなら、八人兄弟や、何番目が早く亡くなったなど、様々な関わりがあり、得手不得手があるものです。多数派に属する場合もあれば、少数派に回ることもあり、人同士での相手を思いやるには、常に「好意的」なイメージで関われるとは限らないものです。

自分の中に様々な感情や思惑が流れつつも、どうすれば「笑えるよう」に過ごせるか、考えるものです。

「徳を積みなさい」

と、仏教に触れたことがある者は、「善行」をしなさいと聞くことがあります。

相手を喜ばせ、楽しませ、安らがせ、気持ちを満たしてあげるように関われば、いつか善いことが戻ってくるので、「尽くしなさい」と教わるものです。

これは余裕が無いギリギリであるほど、「励みなさい」と言われてしまうほど、過酷なものなのです。

大弁功徳天(だいべんくどくてん)の意味は、

大弁(だいべん)とは、「自分の願いはいつも他人が叶えるものだと知らなければならず、どこでどんな人が見ており、どういう姿を好むか嫌うかわからない以上、善い言葉を努めて使い、嫌われないように努めるもの」とした意味があります。

功徳(くどく)とは、「人はどこかで誰かを密かに助け、支えている側面が必ずある為、それを尊重し、支援し、協力を惜しまぬようにしよう。自分が困窮したときや、誰からも嫌われてしまう事態を考え、相手がどんな身の上の人でも温かなことをしない理由はないと助けよう。善行をしようとすると、辛いこと、苦しいことを思い出させられ、止めたくなる気持ちに追いやられるものでも、それに打ち勝つことを自身が知っている」とした意味があります。

天(てん)とは、「理想の姿のことであり、いつかそうなったらいいと願いつつ動くことで、やった行いが我が身に戻ると信じることで、善行をすることで善行が還るとした利己的でいいので、行動に移しなさい」とした意味があります。

大弁功徳天(だいべんくどくてん)とは、「様々な立場や事情がありつつも、今その人に一番必要なものを与えられる人で在れと、背伸びすることや、無理をすることではない、自身の純粋な思いやりの真心に従うとき、雑念や邪推する思いをはね除けて、得にもならず、感謝もされず、自分の手柄とも知られず、恩を仇で返されることに至ったとしても、結果に左右されることのない喜びを与えていくもの」とした意味があります。

この大弁功徳天が持つ仏の力成れの果てがあります。
(転生の歴史の中で、善行をやり続けても、全然報われず、救われず、徳を積んだにも関わらずに、辛い気持ちのどん底に陥っている場合のこと)

「何もかもどうでもいい」「善意など伝わらない」「何もしなければよかった」「全てが無意味なこと」が重なり合い、意思表示から自身の認識において全てを封殺する「終焉(しゅうえん)たる思いの果て」と至った思いが溜められていることがあります。

「気遣え」とは教わりつつ、「気遣われることが無い」自身の身の上を振り返ると、どうすることも出来ない無力さや、誰も味方についてもらえなかった悲しさに気折れしてしまう思いがあるものです。

仏は人のことです。

下手(無知なままただ拝めばいいという発想のこと)に仏だとしたイメージでいると、仏像に対して祈り、懇願し「仏に言われたから、善行をしています」とした行為を続けると、「仏に言われて善行したけれど、誰も自分を善くしてくれない」嘆くことに至りやすくあります。

本当なら、「善行をする」と決めても「なんで私がする必要が?」とか、「どうしてこんな奴に」など、様々な邪念に襲われるものです。それを無視してする道もあるものの、「この心が相手のものなら?」と、相手の心中が邪念に閉じ込められていると感じることが出来たなら、善行の仕方も変わるものです。

けれども、「終焉(しゅうえん)たる思いの果て」とも言える、言葉にも出来ないほど塞ぎ込み、誰とも関わり合いなど持ちたくないと暗闇の中で他者との関係を断絶した世界に閉じこもっている思いが自身にあると、うっすらでも感じられるなら、今こそ自分に向けて「功徳」を積むことです。

「塞ぎ込んだ自分」との対話ほど、困窮を極めるものはありません。

①やる気無し。意味がわからない。興味ない。自分の人生など関係ない。

②どうなってもいい。感じない。無理。他人のことなど知らない。

③諦めている。無視している。不満しかない。無理強いしないで欲しい。

④私が要らない。私が嫌い。私が死ねばいい。私だから駄目なんだ。

⑤言葉にならない。言葉を知らない。言い返せない。言いたくない。

⑥見ない。見えていない。見失ったまま。見捨てられている。

⑦動けない。関われない。信じられていない。終わっている。

このような①〜⑦というチャクラに浮かび上がる想念の全てで、自身の心を封じ込んでいる者に、どれだけ思いやりの言葉を投げかけても響かない事実を想像できると、声かけの困難さが見えてくるものです。

それでも声をかけ続けるのは自分に対して、自分が一番の寄り添える味方なのです。

他人に傷つけられた体験などは、その傷つけた相手が「謝るもの」だと、「許してくれ」と懇願してくるものだと期待してしまうものですが、それを待ち望んでもその日が来ることはありません。

「面倒くさい自分」に対して、どれだけ声かけをして、思いやりを向け続け救済する気持ちになれるかが、大事な部分なのです。

「面倒くさい自分」に手を焼き、「もういい、勝手にしろ」と投げやりになり、自分に対する「愛の不在」を確かめることが「終焉たる思いの果て」の狙いなのです。

「愛されていない哀しみ」の目的は、「愛されたい」ではなく、「愛など最初から存在しなかった証明」であるのです。それ程までに、深く傷つき、「全て終わったんだから放っておいて!」と永遠に嘆く自分に、永遠に付き合い続けて愛を示そうとするのが大弁功徳天(だいべんくどくてん)なのです。

「どうしてそんなに私を気にかけるの? こんなに酷いことしかしないのに」

と、嘆くことを選び続け、助けようとする大弁功徳天に冷たい仕打ちしかしない傷ついた自我が問いかけると、

「これしか取り柄が無いから」

と、「喜ぶ言葉をひたすら、自分自身に呼びかけるしか能が無い」からと、ずっとずっと、自分の素晴らしさや、頑張り抜いてきた姿や、諦めないで立ち向かっていたときや、人助けしよう苦辛して来たことなど、知っている大弁功徳天だからと、「終焉するしかなかった自我」に対して、語りかける存在なのです。

大弁功徳天像をイメージし、「私の善いところって何?」と問いかけてくれると、大弁功徳天は、喜んで告げてくれます。

そして大弁功徳天像をイメージしながら「終焉した自分の人生を再開させる方法を教えて」と呼びかけると、大弁功徳天は、最も欲しかった言葉を授けてくれます。

いかがでしたでしょうか?


大弁功徳天は、どうやって関わってよいのかわからない相手を思い浮かべ大弁功徳天と重ねてイメージし、「どうしたらいいですか?」と問いかけると、答えが思い浮かぶかも知れません。対話を続ける中で、思いやりの道を開いてください。

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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