愛はここにある 帝釈天王象㉘-4
リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーをしております。見えない無意識領域を読み解く研究に明け暮れ、スピリチュアルを物理学的(といっても微細な知識です)な認識で検証し、再現可能性を考慮した論理性で解説することをモットーにして仕事に臨んでいます。(71/88)
仏教界にも7仏薬師というものが、チャクラに連動していることに気づき、二十八部衆の存在も、この7仏と五蘊(ごうん)と関連しているものだとリーディングして解るようになると、自分が独自に研究していたものと合致することに気づきました。
五蘊(ごうん)は「色・受想行識」で構成され、「色は身体」「受想行識は心」であるとし、「色が千手観音坐像」「受想行識はそれぞれ、受・⑦散支対象からなる7体、想・⑭那羅延堅固象からなる7体、受・㉑密迹金剛象からなる7体、識・㉘帝釈天王象からなる7体」となるとわかりました。
つまりは、仏が人を助けるのではなく、仏のような人が人を助けるものだと教えがあり、千手観音という「あらゆる手を尽くしてでも人を救う存在」とは、「二十八部衆を従えるような心を自在に使いこなせる人の事を指すので、このようなたくさんの仏を内包する人でありなさい」というものです。
仏との対話は、自分が仏像であるようにイメージし、仏像が自分自身に入るような入れ替わりの意識方法をして「対話」してみると思いがけない気づきが得られるものです。千手観音をイメージするのは中々困難なので、28体の仏像と1001体の千手観音立像とも合わせてイメージすることで、人々の役に立ちたいという平和を願う心の人は「千手観音坐像と1001体と風神雷神と二十八部衆と祈る人と祈られる人そのものを一つにして在る」としてイメージし、それを常態化するかのような意識の在り方で日々を過ごしていくといいと伝わってくるものです。
意識には座標があり、その座標を明確に識別して捉えられないと紐解くことも紐解けないものです。傷ついている体験が一週間前の出来事なら、一週間前を思い浮かべて治すものです。十年前であれば、その当時の記憶を意識することです。1000年前なら、覚えてもいないところをあるとして意識することです。
それを必ずわかるように導いてくれる存在が仏です。
帝釈天王はそれを瞬時に見つけ出してくれる仏性であり、脳内の雑念など「悩み」があれば、必ずその因果関係が存在している為、「発生元」が紐のように繋がっているので、その縁を辿れば解るのです。
三十三間堂の1001体の千手観音立像のように、それだけの数に分離している心の欠片たちもあるのです。それらの心の結びつきを信じていくことで、「哀しみ」を「癒やす」ことが出来れば、「愛は片時も失われることはなかった」と解るものです。
第四チャクラは、「④憤怒〜⑦傲慢(行)」「⑪絶望〜⑭遺棄(想)」「⑱憎悪〜㉑迫害(受)」「㉕模倣〜㉘冤罪(識)」とした関係性で発生する心の病について取り扱うものです。
対人コミュニケーションにおいては、「悲しい顔より笑っている顔」の方がうまく行くことを教わり、「笑い」と様々な心の薬として喜ばれてきた経緯があります。
しかし、「笑えなくなった人」はどうしたらいいのでしょうか?
口角を上げて「笑った顔を続けても改善しなかった」という人はどうしたらいいのでしょうか?
改善したところは良いものの、改善しないところはどうしたらいいのでしょうか?
振り返ると、どれもこれも時間切れで諦めるしかないように思えるものでした。
学校においても、会社においても、ミスも形だけ整えることが出来ればそれで許されたこととなり、問題はなくなったかのように見えます。けれども、心は晴れやかではなく、あの問題も、この問題もわからないままです。
国会答弁を見ても「揚げ足取りのような質疑応答」を見せられても、それを明確に止めさせて子どもでも尊敬できる答弁の姿を見せてくれる人はいないものです。
誰も解らないのです。
「仕方がない」という諦めとしか思えないような話を聞くのです。
脳科学では、脳細胞は肯定文でしか理解出来ないというものの、答弁は否定文がガンガンに使われている事実があります。
「誠実さや正しさで動くものではなく、感情的な自己優位性を満たすもの」とした不信から判別する世界になっており、相手の負の感情を刺激しないことに神経を磨り減らさなければならないものです。
これでは「生きるのが辛い」としか感じられないものです。
心は「記憶」で出来ているところが大きくあります。それ故に五蘊(ごうん)でも「識」という記憶の領域が重視され、「十識」という意識の分類もなされているものです。
転生を越えて受け継がれる意識があります。
「末那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」「阿摩羅識(あまらしき)」「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」は、転生を越えて蓄積される記憶庫ですから、全ての体験を覚えているものとなります。
この前提は、先祖代々受け継がれる「意識(いしき)」と、個々に無意識の中で秘められた「末那識(まなしき)〜乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」までがあり、「年長者はよく物事を知っている」「年少者はあまり物事は知らない」とした前提があります。
目上の者や親を「㉕模倣(識)」して習い続けて、良いこともあれば、良くないこともあります。年少者の方が聡明である場合とが出くわした時に壮絶な目上の者や親子の争いが発生することがあります。
親は「④憤怒(行)」の形相で怒り散らし、自身の未熟さを露呈する年少者を力づくで捻じ伏せようとするものです。
年功序列のように歳を重ねれば、「目下の者は目上の者を敬うもの、尊ぶもの」と教えられてきた場合、目下の者が礼節を欠いたり、自分で言ったことを守らないと、その失礼な態度や、約束を守らない事実を怒ります。
親や目上の「④憤怒〜⑦傲慢(行)」する姿に、子どもや目下は「⑪絶望〜⑭遺棄(想)」します。「こんな大人に成りたくない」という想いに閉ざされ、「⑱憎悪〜迫害(受)」するようにもなり、「いつか復讐してやる」と、力づくで捻じ伏せられてきた想いを溜め込み、「いつか」を夢見ます。しかし、子どもにとって親は世界そのものである為「㉕模倣(識)」したくなくても、記憶されている情報はそれしかないため、どうやったって親の意識下から逃れられない現実があります。
そして、親の「④憤怒〜⑦傲慢(行)」は、形を変えて遺伝していくものとなり、DV(暴力)の家庭に育つ子は、DV(暴力)を止められない家庭を築きあげてしまうのです。成りたくない自分の親と同じように「㉕模倣」する苦しみを抱くのです。親もまたその親や、そのまた親や、どこかの情報が歪んで「哀しみ」に囚われて始まった「憤怒」の裏には、自分と同じように「絶望や憎悪」が隠れており、それしか知らされていないから「模倣」するしかないのです。親を「⑱憎悪〜㉑迫害(受)」するのは「㉘冤罪(識)」であることに気づけると良いのです。
一体誰がこの哀しみの連鎖を生み出してるのか? と考える事です。
そして、それは「自分という“わたし”が起点」である事実を見失わないことです。
すべからく「私が心を改善しない」ことが真因です。
「④憤怒〜⑦傲慢(行)」という姿を受けて、憎まない人や、絶望しない人はいないものであり、親子や近しい関係であるなら、激しく「目上の人の問題!」と批難したくなるものです。
しかし、それは「人のせい」にする事実でしかないのです。他人をいくら責めても改善する筈もないことは、自分自身が最もよく解っている筈です。「㉕模倣(識)」している相手のせいにしたところで変えてくれる訳がなく、変わらないのは「㉘冤罪(識)」が真実である為、他人に原因の記憶がある訳ではないと気づくことです。
否定したい現実が自身が起点と教わるだけでも「⑪絶望〜⑭遺棄(想)」という残酷な事実を突きつけられ、投げ出したくなるものです。
人に問題があり、目上の人に責任があり、親が悪いから自分がこうなったと感じていたから、幾らでも他人のせいだと「⑱憎悪〜㉑迫害」と、責め苦をぶつけられるものですし、改善するまで許さない勢いで追い詰めることさえ平然とやっていたものの、原因の起点が自分にあると知らされると、もう他人や親などを批判出来る気持ちが消え失せるものです。
人として恥ずべきことを「人のせい」という単純明快な悪党と変わらないことを実行している事実だけが見えてくるなら、悪い手本を「㉕模倣(識)」した自分の解釈の在り方や、それを模倣したい恩恵や、模倣した意図などを考える事で、模倣が定着した真実が見つけられるものです。
「末那識(まなしき)」という意識の使い方があります。
末那識(まなしき)とは、「転生前や今生において、過負荷になった感情を溜め込む器であり、様々な記憶庫と連結して感情を個別保管できるもののこと」であり、「来世となる今生に役立つように過負荷になった感情からのメッセージを伝達するもののこと」です。
人は無意識の内に、過去世などで体験した恐怖を覚えているものです。
「海が恐い」こともあれば「川が恐い」こともあるように、「大きい炎」に足がすくむこともあれば「飛行機には乗れない」という無言の圧力が迫り来るようなものもあるのが末那識(まなしき)から届けられるメッセージです。
第四チャクラは、ハートであり平和を愛している心が「⑪絶望〜⑭遺棄(想)」体験により、ズタズタに引き裂かれて身動きが取れない最悪な心理状態が隠れている部分です。
自分の大切な思い人を失った想いは、「⑱憎悪〜㉑迫害(受)」として転生しても受け継がれるものとなり、親なのに馴染めない、子どもなのに可愛く感じられないことが起きるものです。
辛い体験を重ねて来て転生の旅路をくぐり抜けてきた魂の器は、年功序列を無視するような成熟さを幼少期から発揮する場合もあります。それは目上を敬うように教える縦社会や、親や祖父母を尊重して欲しいと願う心と、「慕うに値する成熟さと魂の器の大きさ」に見合ったものを要求してしまう子ども心や、目下の発想と激突してしまうものなのです。
どちらも「④憤怒〜⑦傲慢(行)」の形相で衝突して、互いに退かず、互いに「解ってもらえない⑪絶望感」に悩まされ、持つ必要のない相手にも関わらず互いに「⑱憎悪とした負の感情を抱え込むようになり、衝突しても解消されることのないストレス」となるものです。その抑圧の度合いにより「⑭遺棄(想)となるような、子であるなら家から出て行ってやると感じ、親なら早く自立してくれ」と思うものですし、「子なら、絶対家に近寄らない㉑迫害(受)と感じるものですし、親としても懲り懲りと愛情はあるものの離れている方がマシ」と、距離があることを歓迎することもあるのです。
親は誰の「㉕模倣(識)」をして、そのような深い哀しみをぶつける相手が子どもになるのか、子は親の「㉕模倣(識)」するしかない以上、親を責めても嫌っても「㉘冤罪(識)」のループから抜け出せないだけなのです。
遠い記憶である末那識(まなしき)からのメッセージは、何を伝えているのか「それぞれ自身の立場」で考えるしかないのです。他人(両親や兄弟であっても)のせいにしている自分の無意識に呑まれないことです。全ては自分の問題でしかないと「㉘冤罪(識)」をやめる覚悟を持たなければ、見失った絶望の哀しみを直視することなど出来ないものです。
人のせい(⑱憎悪〜㉑迫害・受)にするのをやめ、自分のせい(⑪絶望〜⑭遺棄・想)にするのをやめ、関わり方や、言い方や、受け取り方や、立場の尊ばないことのせい(④憤怒〜⑦傲慢・行)にするのをやめ、自分は一体そもそもどこから誰の真似(㉕模倣・識)をして来たのか、人生の全てを自分のモノにすると決め、自分と向き合うことです。
一切の逃げ道を無くし、「知らなかったことのせい・受」にするのをやめ、「気づけなかったことのせい・想」にするのをやめ、「誰も本当のことを教えてくれなかったことのせい・行」にするのをやめ、「新しい創造性のある想像力を閃き降ろさなかったことが真因・識」として、「㉘冤罪(識)」をやめられたとき、帝釈天王の仏性に触れられるようになります。
④五部浄居象と示し合わす㉘帝釈天王象
人は哀しみにより、強い自我が形成され、反発の力で現状を打破しようと心が動きます。それは「⑱憎悪(受)」に突き動かされるようになり、「⑪絶望(想)」した者には守るべきもの、失うべきものが既に無いため、猛烈な「④憤怒(行)」で襲いかかる力を有するようになります。
その姿は「⑦傲慢(行)」でしかなく、誰が見たところで「⑭遺棄(想)」してしまいたいと投げやりになり、本人も絶望している以上、注意を聞き入れるものもなく、どれだけ「㉑迫害(受)」する勢いで止めに入ろうとしても「⑪絶望による④憤怒と遺棄」と、「⑪絶望による⑱憎悪と迫害」のような対決になり、誰も止められない問題があります。
「④憤怒(行)」は、簡単に学べる相手への戒めとしての行為です。
誰が見ても「④憤怒」している様子は、他者を味方(想or受)につけることもあれば、他者を敵(受or想)に回すこともあります。
どういう心境で、どういったいきさつで、どのような関係性で「④憤怒(行)」とした姿を見せたかを「㉕模倣(識)」する側が明確に知り、記憶してなければ誤解して、怒っている相手のせいにしてしまえる理屈が成立してしまいます。
「深い哀しみ」に閉じ込められている人から、「愛」に包まれている人が「㉕模倣(識)」するなら、何が伝達されるのでしょうか?
「深い哀しみ」に閉じ込められている人から、「深い哀しみ」に閉じ込められている人が「㉕模倣(識)」するなら、何が伝授されるのでしょうか?
「愛」に包まれている人から、「愛」に包まれている人が「㉕模倣(識)」するなら、何が伝授されるのでしょうか?
「哀しみ」の有無が、無限連鎖となる「④憤怒・⑪絶望〜⑦傲慢・⑭遺棄」と「④憤怒・⑱憎悪〜⑦傲慢・㉑迫害」が衝突し、収まることのない怒りが続くものとなるのです。
これは、家族や親子という密室によるトラブルであることが多く、問題が露呈しにくいものです。また、伴侶など夫婦であっても、周りとの関係性を考え「棄てられたくない(遺棄・想)」が残る限り、どれだけ「追い出される勢い(迫害・受)」が合っても、「バレたら棄てられるか、追い出されるかと愛のない哀しみの世界(傲慢・行)の発想」である限り、問題が表に出にくく、見つかったときは「⑪絶望(想)」するしかない現実に辿り着いていることがあるのです。
ここでは第四チャクラだけで解説しているものですが、他のチャクラが起点となり、「㉕模倣(識)」があり、「⑧犠牲〜⑭遺棄(想)」を真似てしまい、どうしても身を粉にして尽くし、報われない現実を自身で求めてしまい、自身で嫌う(④憤怒・行)ことに明け暮れて、結果的に「⑪絶望(想)」に辿り着くこともあります。
心は誰かしらの「㉕模倣(識)」で出来ている為、人のせいにする「㉘冤罪(識)」をやめる決心を持つと帝釈天王に繋がるようになります。
一切の他責や自責をやめるのです。
出来る事は、新しい創造性による想像力を持つことです。
全てを受容(受)し、改善(想)し、変革(行)し、新しい歴史の一ページを刻む(識)ことで、今を生きられるようになることです。
心が開くことと悟りを開くことは同義です。
心を閉ざしている状態は「哀しみ体験」を共有出来る仲間たちと関わるものですし、心を開いている状態は「嬉しさ体験」を共有出来る仲間たちと関わるものです。両者はどちらも「幸せである」ことを求めつつ、小さな行き違いで衝突をしてしまうのか、癒やし合うのか別れます。
そして心を閉ざしている人が、心を開くこととして必要なのは、「心を既に開いている」という見果てぬ姿を今・宣言する力が欠かせないのです。
ハートを見せるには、心の行動力となる「意識」の動かし方です。
「末那識(まなしき)」や時に「阿頼耶識(あらやしき)」となるような前世や過去世など、あずかり知らない記憶にアクセスし、自分からのメッセージを受け取る勇気を持つ必要があるのです。
「絶望」している心は、回復してしまったら「絶望していた」という歴史が嘘になる為、人は「深い哀しみの絶望」を簡単には手放せないのです。
この強い執着が精神的支柱になる人もいる為、強力な反抗力によって「敵がいる」と憤怒している冤罪者は、自我の亡霊に捕まり、憎悪や迫害に等しい敵意により、いつかの自分の姿を敵対した人の中に見て、痛めつけるのです。
世界中の人々が神仏の化身という教えがあっても、「憤怒〜傲慢」しているあの人や、「絶望〜遺棄」と深く落ち込んでいる人や、「憎悪〜迫害」している脅迫している人が、まさか仏だとは見抜かないのです。
教えに忠実になり、「あれは仏の化身だ」と「㉘冤罪(識)」をやめる決意があれば、冷静に物事を考えられる自由が得られます。「人のせいにしない」と決めた人であっても、すぐさま「人のせい」にしている自分と出くわす程、他人の中に仏を見る力は養われないものです。
広い心の目で見ることが帝釈天王となって見つめようとすることです。
ワークを伝えます。
ただ、深い絶望からの救済は、近しい人間関係全部を繋ぎ合わせて三十三間堂の中のように、たくさんの仏像を同時にイメージします。
1001体の千手観音立像や、二十八部衆全員や、千手観音坐像と風神雷神の中に家族や縁者が重なって存在しているイメージをして、自分も加わって溶け込みます。その状態で意識を反転させるイメージを持ちます。これは鏡の世界に入り込んだようなイメージを持ち、その鏡の中に入っているようにします。「何を真似ていたのか教えてください」と祈ると、思い浮かぶものがあるので、それを見続けていってください。
過去世などの前に、今生での体験の様々な出来事を解消することです。
うやむやにしないでおくことです。
「心地よく生きること」
それを大切にしてください。
「嬉しく生きていますか?」
と、帝釈天王と共に、頷ける道を模索してください。誰かの真似をしている限り、誰かに責任転嫁出来る冤罪が使える事実に気づき、やめてください。独自性で生きて欲しいのです。
独自性のまま突き進もうとする程に、絶望した体験につまずくものです。そこから立ち直り、新しい自分ならどんな今を創造したいのか? よくよく仏性の自分(帝釈天王)と対話してみることです。
自分では得られない視点を与えてくれるのが仏像の良いところです。
哀しみを治した後は、クリエイティブな創造性の閃きが自在に使いこなせるハート輝く人格者に変わるものです。人のせいにしない姿は美しくなるものです。誰であれ助ける手を差し伸べる千手観音のような心の人が携わる作品は、とても素晴らしいものになるはずです。
そんなあなたの作品を待っています。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
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