姿を見せぬ 金色孔雀王像⑩
心と言葉の研究者 リーディングマスター・まさみちです。人と人とのコミュニケーションを持つとき、「ネガティブな思考や感情や解釈や記憶など」で苦しむ人を助ける心理カウンセリングを仕事にしています。あるはずのない哀しみや、苦しみや、恐れや、辛いことを取り除いて、無意識に引き起こすトラブルを解消するお手伝いをしています。(50/88)
各種仏像が示す、言葉では説明出来ない意味合いを、こうした解釈を持つと、輪郭が何となく解るだろうか? という仏像にした経緯や誕生する流れなどをリーディングで紐解き、よく解らなかったものを解説して記事にしています。
仏というものは、人そのもののことですが、仏性という表現があるように「私」の中にある、自我と呼ばれる客体の部分を取り除いて残った主たる部分のみで成り立つ存在そのもののことを示しているようです。
一つのものを認識するには、それ以外のものがなければならず、二つでない一つのもので構成されるものを示すものの、二つでない一つを観察するもう一つの眼差しがある以上、相対する「二つでない一つのもの」と「二つでない一つのもの」が存在しなければ、認識し合えないものなので、「四つでない、二つでない、一つのもの」により、成り立つ「太極図」とした表現としてまとめられるものと考えられます。
「黒点と白面」と「白点と黒面」の4つが互いに支え合う構図が根本的なものと考えるものです。
これは、考えれば理解できるものの、実際問題「哀しみ」が何故存在し、どの様に維持され、どうして解き明かせない「業・カルマ」のような問題となり、輪廻を股にかけた苦しみを「望む」ことをしなければならないのか、理解できないものです。
散支大将像像⑦のパートで、「最初に否定し、後に間違いに気づいたものの、それを謝り、訂正出来ない体験が、ずっと後を引くことが傲慢に陥る問題」と紹介しています。
自分の見えている世界より、広い世界を見ている人を「認識出来ない問題」があるからです。
自分より、目上の人の器が大きいのは認識し易いものです。
その逆は、認識し辛いものです。
成長する順序として、年上や先輩や師となる存在が自分より器が大きければ問題は起きません。そうでないなら、「辛い」のです。「苦しい」ものとなるのです。
狭いところに閉じ込められるようなイメージがあるとしたらどうすればいいか考える必要があります。
その手助けが「仏」の概念です。
どうにか、自分の中に在る、仏性さえも見る「空」を意識させようと仏像にその方向性を示そうとするのです。
まずは、対話することを教え、その後に超越した「空」を見出せるように誘導するものです。
金色孔雀王像(こんじきくじゃくおうぞう)⑩
人は、人との関わりの中で問題が生じると、「ルールに従い、解決の方法を学ぶ」ものです。
大抵のことは、「怒られる」ことなど、行動した結果が「マイナス感情」に辿り着くように教えられます。
純粋無垢な子の行為であっても、結果として「泣かせた」という事態に至っているなら、「泣かせた=よくないこと=悪いこと=怒ってよいこと=純粋無垢な子も同じ目に遭わせて泣かせること」で、問題を解決したと扱いたいものです。
小さい頃は、飛び跳ねるようにキャッキャッとはしゃいでいたものが、大きくなるにつれはしゃがなくなり、大人しくなり、暗くなり、話さなくなり、自発生が欠落した大人に育つことがあります。
これは、育つ過程で「考えなく行動すると痛い目に遭う」と学習したからで、「考えて行動しようとしたら、何も出来なくなった」というものです。
「迷惑をかけるな」「困らせるな」「嫌な思いをさせるな」「悪いことをするな」といった言葉により行動の制限をかけられるものです。
初めての体験を、否定されると「今を生きるキャッキャとした行動力」では「駄目だ」と扱われるので、その初めて体験は、今後の全ての体験のデータベースとして記憶されます。
「キャッキャとした行動力は良いけれど、その結果はどうか? 考えてみてみようか?」
と、尋ねられれば「考える力も得られ」、答えられない状態が続くなら「答えを与えて道を示す」体験にも繋げられる為、初めて体験が、思いつきと、結果の結びつきについて考える力や、教わることから始められる為、安心して育成していくことが出来ます。
育てる相手に反感を抱かしていくことはなくなります。
初めて体験を否定されると、考えが萎縮してしまい、「隠して見つからないようにする」価値観を育てていきます。
怒られるのが嫌だから「隠して、自分でどうにかしようとします」が、結果的に見つかり、又、怒られます。そして又、隠します。
大人になり、親や先輩の立場になり、子や後輩の育成でミスを見つけると、「怒って正させようとします」が、自分も隠してやり過ごそうとしているので、子や後輩もそれに習うので、負の連鎖は際限なく続きます。
親や師は「嘘をつかぬよう、隠し事をしないように」と教えたいものですが、親や師がそもそも「建前という嘘をつくものですし、隠して済ませられるなら見つからなければそれでいい」と自分に対して誤魔化しを抱いている事実があるものの、それが見えません。
子や生徒が、嘘をつき、隠し事をする行為を、親や師は「しないで」と否定すれば「やめてくれる」と考えるものですが、子や生徒は親や師が「しないで」と否定することそのもの事態が「愛されていない」と感じる為、「愛されないようにする」ことを学んでしまい、より悪化する行為に走る因果関係が見えません。
「していいこと」と「して悪いこと」とした、肯定することと、否定することを「選択出来る」と信じて疑わない為、教え方そのものを太古から間違えるのです。
「していいこと」と「よりよくしていいこと」とした、肯定することと、より強く肯定することとをイメージさせることの方が、教えが伝わりやすいものです。
金色という色合いは、光り輝くイメージを彷彿とさせます。
孔雀は、羽を広げると美しい模様を見せてくれます。
自分が孔雀になったつもりで、自分の背中に美しい模様の羽根が開いていることを思い描けるなら、隠し事などをする「卑屈」さを見せなくなります。
これは自分にしか解らないことです。
嫌いな上司や、苦手なあの人を思い浮かべ、同時に「孔雀の羽根を自分の背中に広がっているイメージを持つ」ことが容易ではないものです。
練習と本番の違いがわかるなら、練習モードや、本番モードでもイメージしてみせ、羽根の広がり方やイメージが正しく行われているか、羽根の模様の一つ一つを明確にイメージしてみることです(写真で見て覚えて、それを背中に思い描けるかがポイントです)。
純粋無垢な子が、無邪気にはしゃぐ「キャッキャ」とした姿での行動の結果が、「物を壊す」ことや、「騒がしい」ことや、「迷惑をかけた」ことや、「困らせた」ことや、「恐い思いをさせた」ことなどで『泣かせた』ことに至ったとしても、「怒って教える」ことなどしても、萎縮するだけで、何も学ばないどころか、「卑屈になる」か「卑劣になる」かなどして、ずる賢さに走ることになり、誰も喜べない見せかけの大人に育ちます。
目をかけてもらえる親や師に、必要な「肯定感」を与えてもらえなかった体験を認め、辛かった思いを金色孔雀王像に打ち明け、自分の生い立ちの全てを認めて行くことです。
親や師が、自分たちは隠し事をしながら、子や生徒を育てることは「卑怯なこと」だと気づかなくてはなりません。
しかし、卑怯だとも気づけないものですし、誰も彼もその関係性の中で、歯を食いしばって真面目なことをしていると、「頑張っている人」の方がほとんどです。「卑怯だと言わないでほしい」ものなのです。例えそれが事実だとしても、人の嫌がることは「言ってはならない」と教わっているので、嫌なことを言う人とは関わり合いを持ってはいけないとされ、真実を告げる人とさえ、関わり合いを断つようになります。
「みんながやっている」と真実から逃げないことです。
「誰だって怒る」とする中で、「私は怒りたくないから怒らない」とする方法を模索する道を選べたとき、孔雀の羽根が「目」のように見えるように、たくさんの目で洞察すれば、「どうして欲しかったのかが見えてくる」ものです。
親や師や先輩がやっていることなら、子や生徒や後輩は真似てしまうものです。
その流れの中で、「わたしはよりよい関わりをしたい」と決意できたとき、「卑屈さ」や「卑劣さ」に逃げていた「卑怯な自分」は消え去り、金色に輝く仏の自分だったら、「新しい方法で関わる」と決められるものです。
それが金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)となるのです。
いかがでしたでしょうか?
諦めに逃げないことです。
簡単な道に入り込まないことです。
それは、賢くなろうとしなければ見つけ出せないものです。
弱さを盾にしないことです。
小さいことを武器に使わぬことです。
仏教の教えが届かない末法の時代というのは、「小さく弱いことを武器に、大きく強い人の庇護にあやかることを策略する卑劣さが見えなくなること」を指すのです。
小さい子が守られることをいいことに、好き放題弱い立場を逆手に振る舞えば、大きく強い立場の人を易々と転覆させられる力があります。
小さい子としては、「自分の不快感に正直に振る舞っているに過ぎない」だけであり、不快にさせる親や師や先輩が不当に違いないと訴えれば、訴えた側の方が強くなる理屈があるのです。
誹謗中傷で叩かれることを恐れるなら、間違いに気づいても「正してあげたい」と思いやる人はいなくなります。
「叩かれる前に叩く!」
この理屈が成立するなら、力で捻じ伏せることが正義になり、大勢を納得させるには、事実より、虚偽の方が信憑性を抱かせられる世界だからです。
ドキュメンタリーとした真実より、幻想ファンタジーの方が注目を集める事実があります。
本当のことより、嘘のことの方が楽しいのです。
これを末法(悟りを開き目覚めることが出来ない時代)といいます。
嘘は存在しないので、いつかは覚めて消えてしまいます。
いくら長年続いた幻想の世界であっても、それを信じ続けることの危うさに気づかなければなりませんが、多数が目を開けて眠っている状態で、何を言っても届かないものです。
目を覚ましていただければと願います。
では、また。
リーディングマスター・まさみち。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?