手を取り合う 千手観音坐像・想
リーディングマスター・まさみちです。心の探究は、言葉の研究に到るようになりました。どのように受け取り解釈し、想い感じる反応を示し、それに伴う反射行動をすることで蓄積される経験が記録されていくようになり、無意識でも状況に対応出来る知恵を獲得するものだと見えてきました。人はある程度は言葉を習う必要がありますが、その言葉の解釈が本当に適切に機能しているのか、検証することが大事だと思うのです。まず、「人のせいにする」をやめなければ、自己検証など不可能だと解るので、私はそこから手をつけて心について学ぶようになりました。(76/88)
「悟りを開く」とどのような心境になるのか伝えると、「無」と答えても良いのですが、それでは面白味やユーモアに欠けるのでそれは外します。
「悟っている状態から感じるもの」と云えば「圏外かよ」ってイメージです。
携帯における電波が届かない状態の感覚であり、ド田舎に旅行して写メしてSNSに投稿しようとしたら「圏外」でネットに接続出来ない残念な気分と同じような感覚です。
「悟っている側」と、そうでない方々との通信エリアが違い過ぎて、「ド田舎で悟っても」という気分です。都会への交通手段は実に「徒歩のみ」と来たものだから、さてはて、どうやって現実に戻れば良いのか? と思案中のまま、この記事をご提供しております。
五蘊(ごうん)は「色・受想行識」という身体と心の状態を判別する手がかりの分類としてとても有効的なものです。この「受想行識」は、習わずに独自に認識したものです。「腹で認識する(色と受)」「胸で感じる(色と想)」「頭で思考する(色と行)」「背で語る(色と識)」という解釈を作っていました。
人の心を観察していた時に重視した内容が「一観性」というものです。
この「一観」という概念は、一方的な見方しか出来ない視野の狭いことを指し、それ以外の客観性が欠落した思い込みの状態のことを大事にしたのです。
よく「主観で物を言うな」と言葉を使いますが、「客観」を観察している眼差しは「主観」であるので、主観の方が視野が広大部分もあるので、客観の方が狭いときがあるのです。その客観より狭い表現として「一観」という言葉を作らないと、説明が出来ないので「一観」と「客観」と「主観」というものを使い分けています。さらに「多観」と「傍観」なる言葉も使って、識別すると整理しやすいので、心の整理をしたい人にはオススメです。
「一観」は、「それしか感じられずに、それ以外の判断力が得られない閉鎖的視野のこと」です。
「客観」は、「自分の先入観や感情を抜きにした視野のことで、多人数が同じ状況証拠を認識できるもののこと」です。
「多観」は、「感じ方や、受け取り方は人それぞれ違いがあり、同じ状況証拠が合っても、同じようには受け止めないことや、想像したこともない感覚を思いつくこともあり、千差万別な視野を持っていると例えられるもののこと」です。
「傍観」は、「部外者や利害関係のない立場の人から捉える視野のことで、当事者からでは見落としている視野を見つけられることがあり、立場や関係性を変えた部外者に関わってもらうことで意外な視野を見出せるもののこと」です。
「主観」は、「物事の視野には小ささや、大きさがあり、近視眼要素もあれば、俯瞰して壮大な視野としての要素もあるもので尺度が自由自在なもののこと、一観も客観も多観も傍観も捉えられる視野のこと」です。
「一観」は、五蘊(ごうん)における「想のみ」であることが多いものです。「行のみ」「受のみ」「識のみ」もあり、先入観とも呼ばれるものです。この一方的なものの見方しか出来ない頑固な人は、周りに理解してもらえない苦悩を抱えます。
この「一観」の見方しか出来ない人を取り囲んで、ポジティブにしようとしたり、柔軟に誘導しようとする「客観」の人がいて、「頑固さ」を指摘して「多様性」を強調しながら、唯一、相手の「一観」なものの狭量な視野を否定して関わる事実が見えないのです。
多くの人は、「マイナス感情・ネガティブ発想」に到らぬように否定して「プラス思考・ポジティブ状態」を望むものです。
この時、「一観」の人は「マイナス感情・ネガティブ発想」に到ることが多く、それを囲んで「客観」の人が「プラス思考・ポジティブ状態」になるように誘導しようとするのです。しかし、この「客観」の人の前提が「一観」を否定して関わる事実が見えていないので、当人(一観の人)を否定しながら、当人(一観の人)をポジティブに転換しようと試み、失敗するのです。
無限ループとなる「客観」があります。
『①客観の人』「①否定から肯定(行)」「②否定から肯定(受)」「③否定から肯定(識)」「④否定から肯定(行)」を要求する。
『②客観の人』「①否定から肯定(受)」「②否定から肯定(識)」「③否定から肯定(行)」「④否定から肯定(受)」を要求する。
『③客観の人』「①否定から肯定(識)」「②否定から肯定(行)」「③否定から肯定(受)」「④否定から肯定(識)」を要求する。
「④一観の人」「①否定から否定(想)」「②否定から否定(想)」「③否定から否定(想)」「④否定から否定(想)」にしかならないことを主張する。
この①〜④の四人以上集まる時に無限ループは発生する可能性が存在し、④の人に同じ負荷「想」が集中することが解るでしょうか?
「客観」の欠点は、全ての視野が観察状態になる為、「受想行識」の四つとも、客観視になり、「肯定しかない」という「主観(小さい視野も、大きい視野もある)」が欠落していることに問題が起因しています。
人として物事の堂々たる様は、「主観」における「自己肯定感」があるのです。
これが「受想行識」の、「受」だけ「肯定しかない」だけなのか、「受や想」も「肯定しかない」なのか、「受や想や行」も「肯定しかない」なのか、「受想行識全部」が「肯定しかない」のかでは、安定感が違います。
「受のみ主観」で「想は一観」となり、「行は客観」であり、「識は傍観」という場合もあります。
絡み合う観察眼により、心が成立しているのです。
人の心は「ああはなりたくない」というイメージを持つと、実際にそのような人物が必要になるのです。実在する人物を否定しながら、自分は肯定する感覚を持ちたいので、必ず「犠牲者」を必要とする価値観で生きているのです。
これが「否定理論」です。
「想う心」として機能する中で、「マイナス感情・ネガティブ発想」は抱きたくない否定する想いです。
「哀しみ」や「寂しさ」や「焦り」や「惨めさ」などの感情は、自分の中に置いておきたくない為、誰か他の家族などに背負わせてしまうメカニズムがあります。
それは苦難を乗り越えて強くなって欲しい願いです。
家族の中に、一人だけ、他の家族のように言うことが聞けなかったり、やんちゃしてしまい、親の手間をかけさせる子がいたりします。
注意しようが、なだめようが、あの手この手を使っても、言うことを聞いてくれない頑固な子がいるものです。
それが「想」に閉じ込められている人です。
みんなが、みんな、「マイナス感情・ネガティブ発想」を忌み嫌うのです。
1,家族で「想」に集まる「マイナス感情・ネガティブ発想」を背負う子がいます。
2,集落(学校)で「想」に集まる「マイナス感情・ネガティブ発想」を背負う子がいます。
3,町で「想」に集まる「マイナス感情・ネガティブ発想」を背負う子がいます。
4,市で「想」に集まる「マイナス感情・ネガティブ発想」を背負う子がいます。
5,県、6,地方、7,国に集まる「マイナス感情・ネガティブ発想」を背負う子がいます。
イメージ出来るでしょうか?
発達障害などの多動性と診断される子ら、精神的負荷が健常者の相対で背負っている霊的な因果関係が存在していることを(全てではありません、一部分です)。
「善い人」←→「悪い人」
というイメージを子らに教えたり、物事を簡潔に解り易く説明する手段として「善いこと」と「悪いこと」との対比で伝えてしまいます。
「ポジティブ」←→「ネガティブ」
このように、左右が反転するようにイメージしがちです。
「プラス」←→「マイナス」
というイメージで、物事を識別するものです。
この方法で教えてしまうと、ルールを教える時のイメージが辛くなるように仕組まれているのです。
「ルールを守ろう」←→「ルールを破ったら罰を与えよう」
というイメージです。
罰を受けたくないから、ルールを守るという解釈で育てられてしまうのです。
「ルールを守りたくなる環境づくりをしよう」←→「ルールを破る事情を考慮してフォローしてルール改善して行こう」
このようなルールが固定化されるのではない流動性のあるものなら、相対する部分もマイナスにはならず、「プラス←→プラス」「ポジティブ←→ポジティブ」とした関係性で心が形成されると良いのです。
「受想行識」のどの部分も「プラス思考・ポジティブ状態」で満たされることが「愛されている」と受け取り、「愛する」と思いやり、「愛している」と行動に移し、「愛し合っている」と識別出来る関係性が育つのです。
それには「想」の部分が孤立化して、否定で押し潰される立場に追いやられる社会構造そのものを改善していかなければならないのです。
誰もが背負いきれなくなる負の感情を救済する千手観音坐像
人の胸に宿る感情は、哀しみが深いほど喜びが大きいもののような錯覚があります。
錯覚です。
深い哀しみを否定して、大きな喜びを体感しても、いつかは深い哀しみに引きずり堕とされる現実を目の当たりにすることになります。
それが「深い哀しみ」の分量と同じ力で「事故による物理的損失の度合い」とイコールになることがあるのです。
それ以外にも「深い哀しみ」を否定して蓄積してきた長さによる反発力で元気に活躍してきた活動も、臨界点を超えた時に「思いがけない病気」となって、周囲の方々に「深い哀しみ」が津波のように襲って還っていくものがあるのです。
成長したいにも「深い哀しみ」の中で育つしかなかった人が、幼少期を否定して頑張り抜こうとするものの、自分の代ではなく、子や孫の代に「深い哀しみ」が子らに覆い被さり「精神的貧しさ」の中に閉ざしてしまうのです。発想が貧弱になり、社会に適応しない姿で現れ、悲観的だったり、退廃的であるなどして、親の財産を食い潰すようなことで「深い哀しみ」となり、還ってくることがあるのです。
誰かの為に、愛する人の為、家族のため、孫のために仏に祈ろうとしても、祈り方を知らなければ、事故も病も引きこもりも治せないものです。
「想」に閉ざされる心の問題は、「頑張る人」を支える為に「見捨てられる人」でいなければならないような切実な相対する関係性があるのです。
「一人だけ見捨てられる人」を生み出せば、相対する反対側に「千人もの頑張る人」を支えて、応援してあげられるのです。(例えの事例です)
これが「犠牲」により「一生懸命頑張ろう!」と支え合い、助け合う社会なのです。
「犠牲」になる役は、辛いものです。
「卑屈」される役は、深刻ないじめを受けるものです。
「自失」される役は、自らを喪失している深い哀しみである為、我が子を喪失するような体験を引き起こしてしまうのです。
どれも、誰かが「哀しみ落ち込み」、誰かが「励まし喜ばせる」という相対的な関係性にあります。
これを止めましょう。
慈悲から慈愛に変えられるのです。
哀しみを愛しさに戻せるのです。
ただ、深い哀しみの癒やし方が、個人ではなく団体的な大勢を巻き込んだ、全体性の意識を持つことで成立するものです。
一人で問題に取り組もうとするのではなく、家族全体が一つにまとまったイメージで取り組むことです。
これをクラス全体が一つに成っているイメージや、学校全体が一つにまとまっているイメージで行うのです。
会社全体が一つに打ち込むイメージや、地域全体が一丸になるイメージにすることで、使ったことがない意識が機能して、見落としていた価値観を捉えることが出来、その時「哀しみ」が癒やされて「喜び」に戻れるものなのです。
同じことをよく思いつく場合は、無限ループの「想」が働いているかも知れません。
状況や環境など、全く関係の無い瞬間でも、場違いな発想が脳内にイメージされ、ざわつくことがあります。
例えば、意味も無く「金、金、金」と、貯金もあり、給料も支払われている中で、しかもお金を使う場面でもないのに、ふと「金、金、金」と思いつくのです。
これらを国をイメージして、千手観音坐像と一体化させて「金、金、金」をイメージしないように無くしてください。と願いつつ、「何があったの?」と尋ねるのです。
そうすると、以下のような仏からのメッセージが降ろされたのでシェアします。
「日本は戦争に負けて、とても背負いきれない純粋な心を失ったのです。金、金、金は、金比羅(こんぴら)として例えられるように、純粋無垢な愛ある心の象徴のことです。
それを見失っているので、どうか取り戻せるよう呼びかけているのです。
人々が互いを自分と等しく見て、同じように大切に扱い、窮地をくぐり抜けてきた大切な仲間として捉えることです。
わかり合えていると感じ直し、無意識に邪魔をして足を引っ張り合う関係性が働いているのだと自分を罰するのをやめ、美しいものや気品あるものを好み、心の中から穢れた発想を消し去り、真実の愛をみんなに振る舞うことが出来るようにすることです。
戦争の哀しみを否定しては、戦争の哀しみに引きずられて同じレベルの哀しみに還るしかなくなるのです。見せかけで無い中身のある生き方に改める時です。それには過去を否定する価値観の転換が不可欠です。
歴史の否定は、自分の生い立ちの否定に繋がり、何一つ未来へと発展させられないものです。
哀しみを支えにしても哀しみしか育てられないのです。戦後と変わらぬ精神的な貧しさがあるのです。生き残った者たちが自分を貶めるのをやめることです。
間違いや、過ちは否定するものではないのです。間違いも、過ちも、肯定する上で、より良い肯定出来る道を探すことです。
小さい肯定と、中くらいの肯定と、大きな肯定と、凄く大きな肯定という価値観は、考える力を身につけさせてくれます。
戦争はあります。
戦争は肯定するものの、とてもとても小さい肯定です。
戦争の意味、定義とは『自分同士で不毛なやり取りの象徴であり、否定の理論を多様した為の意識の貧しい者たちでしか為し得ない妄想状態で引き起こす愚行のこと』です。
平和の意味、定義とは『物事は相対性の価値基準である為、矛盾が前提として存在し、何を持って主張するにも、欠点を生み出してしまうものだと理解し合う関係の中でしか成り立たないもののこと。価値基準も流動性にすることで、双方が好意的な了解が得られる安定する感覚を意識出来るよう認識を改め合う関係の上に成り立つもののこと。真理に照らし合わせれば、どの教えも「無かったこと」に戻らせ、意味を消失させ、無価値の状態にした上で、今、無条件の中で相対的に必要だと類推できる結論を閃き降ろし合うことで対話する心の境地のこと』です。
日本の敗戦は事実であり、「心が負けを認めなければ負けでは無い」という精神論の虚しさを今、止めることです。
「深い哀しみ」が絶え間なく続くのは、事実を事実として受容しない狭量な視野に埋没したまま、他の解釈を取り入れられない孤立した心理状態にあるからです。
自国の敗北を自国民が否定する価値観で作り上げた「日本」は消えてなくなり、「哀しみ」を癒やし「喜び」に変えていける「日本」がここから誕生するのです。
「金、金、金、金」と、国民の「受、想、行、識」全てが純粋な意識となり、国民の心を安らがせ、祝福と共に生きられる道を開くものとなりました。
憂いが晴れ、優しい国が始まります。
世界と繋がり合いました。」
以上、国に覆われていた「想」の無限ループがありました。
戦争の話に限らず、儲ける話でも、人間関係の話でも、「またその話?」と、同じようなことを繰り返し伝えることがあります。
それが一見楽しく感じてしまうのです。楽しいからいいかと感じるものです。それでも、それが「マイナス感情・ネガティブ発想」という懐疑的な視野は持つことです。
自分が「楽しんでいない」と気づけると、「想」の無限ループから抜け出す切っ掛けが得られます。
ワークを教えます。
千手観音坐像が受想行識のパートごとに一体ずつ存在し、四体で自分を四方から囲んでいるイメージを持ちます。自分はそのままで中央にいます。
四方の千手観音坐像から「どうして閉じ込められているのか、いきさつを教えてください」と尋ねると、自分の中に浮かぶ何かがあります。
四方の仏と、受想行識のパートに分かれていることを意識するように努めてください。
他にも普通に悩み相談をしてもよいものです。
「この子の閉ざされているもののいきさつを教えてください」
と、中央に我が子をイメージして、自分が千手観音坐像四体に分身して囲い込んでいるイメージで問いかける方法もあります。
個と全が一つであることを意識出来るようになると、無限ループを取り除く意識の動かし方がわかってくるようになります。
グループ全員を意識しつつ、自分という個も意識してみることで、見たことのない意識の在り方がわかります。
イメージしてみてください。
あなたが救われます。
いかがでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。