四天王の眼となれ 広目天④
リーディングマスター・まさみちです。いつの時代も人は自分の心の仕組みさえ解き明かせないもので、争い続けてしまうものです。見えない世界を読み解こうと、目の見えない人は「こんな感覚を駆使する!」であろうという力を使って、世界を識別して、カウンセリングに役立てております。見えない世界が見える人にもよく解れば、世界はもっと優しくなれると信じて活動しております。(21/88)
東寺の立体曼荼羅に魅せられ、やっと謎解きに触れられると取り組んでおります。
やはり、リーディングという見えないものを読み分ける能力でも、「大日如来」の何たるかが体感で会得でも出来なければ、語るに語れないものですからね。いい加減なことを書きたいものでは無く、真理を説きたいものです。
悟りを開いた者が紐解く、立体曼荼羅シリーズをお届けしております!
前回は、四天王の一人、多聞天を紹介しました。
東西南北を守護することで、心の中でも身舌眼耳という意識の働きがあることをざっくり解説しました。帝釈天は鼻ですし、梵天は意そのもののことを指している側面があるものです。
四天王と表現するのは、心を防御する為に、人の意識の使い方はこんな側面があることを伝えてくれている仏たちです。多聞天であり毘沙門天と扱われる仏は、門番的存在です。広目天は、心は情報で出来ていると扱い、知る、知らないだけで、人の姿は様変わりを見せることを知らせるもので、書物読ませるのではなく、読ませた上に、書かせる存在だと心得させるものです。
北を司る③多聞天は、「聞き及んだ情報が正確かどうか確かめるもの」であり、「耳で聞いた情報を眼で確かめようと意識を動かした時に違和感の有無がないかを捉えるもの」でもあります。
西を司る④広目天は、「開かれた情報であるかを重視するもの」であり、「自身や関わる人が成長への学びとして歩んでいる最中か、立ち止まり足踏みをして誤魔化していないかを確かめるもの」でもあります。
東を司る⑤持国天は、「その情報が生きて使えるものになるかが大事に到らせないもの」とされ、知識だけの者なのか、知恵者であるかを識別する肌身感覚を備えており、「培われた経験による情報と、書物で学んだ情報では立ち振る舞いそのものが違うもの」であることは、失敗から学んだ経験者でしか解らぬ世界があることを心得るものです。
南を司る⑥増長天は、「培われた経験に基づく情報は、確実に視野が狭くなることを心得るもの」であり、常に研鑽を怠らず、幼子に習うことを忘れず、長いものに巻かれる性質が働くと人は愚者にも劣る行為をすることを知っており、「警戒そのものが友である存在を敵に仕立て上げてしまうもの」と非礼が出ぬよう慎みつつも、無礼な真似を起こさせぬよう計らう力も必要とするものです。
④広目天
情報を取り扱う上で、視野の広さが大事になります。視野の広がりを認識するには、自分が一人でいる時、二人でいる時、三人でいる時、大勢でいる時では相手に見せる態度や、話す内容が変わることに注目できるかが大切な判断力を持ちます。自身の心を観察出来ているのか、呑み込まれているかの識別し、味方だけの時か、嫌いな人を含んでいる時か、嫌悪感を抱いている時によって、自分の心がどのように感じて思考するかを熟慮する能力のことを示します。学び得た情報の知識だけで判断しているのか、常に新しい情報を取り入れて知識の上書きを瞬時に行い、情報に執着しない姿勢を良質なものと扱い、普遍的真理だからという肩書きに囚われて、教わった教育や経典こそ重要なものだと高尚なものだと振りかざし、素人の疑問に対して納得させられない未熟な知恵しか持たない自身の無知を知る心のことを指すものです。情報を幅広く集めると同時に、全てを記憶する力を有し、問いと答えが同質なものとして存在していることを掌握しており、答えられぬ問いは存在しないとした境地を知らせる存在です。
広目天の足下にいる邪鬼は、「見たものさえ信じない」「見て学んだ気になる」「見くびる」「見ず知らずなものは判断がつかないと知らない」といったものであります。情報を得る上で、例え自分が不利になるものであっても、「まぁいいか」と“疑問を確かめずにいる”とした邪鬼に従ってしまうことを示します。
これは、先生に対して生徒が気を遣い、聞けば答えてもらえる情報でさえ、生徒の方が、「時間かけてしまう」「他の生徒に悪い」「“自分で考えろ”と言われるのが怖い」「“まだ、そんなものも解らないのか?”とバカにされるのが嫌だ」といった想いを優先させてしまい、聞かない選択をすることも邪鬼と扱います。
人は不合理な生き物と分析し、損得以上に、自滅的概念に従うこともあることを教えたところで、この自滅的邪鬼の無限ループから抜け出すのは困難です。
こうした部分が薬師如来や十二神将の働きでサポートされる道が用意されているものの、邪鬼を消滅させられるほどの広目天の力を発揮出来る人は、同時に薬師如来の力を有しているレベルでもある為、道を指し示すにもハイレベル過ぎて、参考にならない問題があります。
可能なことは、「解ける問題から解いていく」ことです。
数学などの学問と違い、心の問題は、内観や仏との対話においても、出来る範囲と出来ない範囲があります。天部扱いされる広目天のレベルは、大日如来が解っての広目天なのか、金剛波羅密多菩薩が解っての広目天なのか、不動明王が解っての広目天なのかでも、認識する範囲が大きく変わります。
学問でも仕事でも、生徒に聞いてもらえない問題もあれば、聞かれても答えられない問題もあります。助けたいのに、助けられない事例は山のようにあり、その苦悩は天部しか見ないのか、明王しか見ないのか、菩薩しか見ないのか、如来まで到達しているのか否か? といった心の質の問題があります。
広い目を持とうとするなら、自分はどこまでを見透したいのか?
誰に認められようとしているのか? 既に認められているとするなら「この承認欲求の正体は何か?」などという問いかけ方そのものが変わってくる事実にも目を向けなければ成りません。
立体曼荼羅という21体の仏像を示すのは、その心の世界の全体像を最初から教えてくれる視座が存在していることを告げています。立体曼荼羅は金剛界を表しているなら、胎蔵界から見ていることに繋がっている事実を見誤らないことです。つまりは、大日如来さえも既に掌握している眼差しを自身が持っていることに気づける道は既に開かれていることを教えてくれるものなのです。
繋がり方
広目天を先生にし、自分を生徒にすることと、自分を先生にし、広目天を生徒にして、教える側と教わる側の両方を交互に入れ替えて学ぼうとするイメージを持ちます。全ての智慧を伝授させようとし、全てを伝授されようとする関係性のやり取りとリアリティある姿勢だと仮定した時、見落としている全てに「眼が行く」ようになるやり方です。
広目天との繋がりでの参考事例を以下に示します。
経営学や集客ビジネスなど、お金にまつわる情報を集めようとも集める気力が萎えてしまう問題を抱えているとします。それを広目天に習おうとすると、どんなやり取りをする必要があるかの事例です。
自分
「ビジネスがよく解りません」と、問いかけたい情報を、「お金にまつわる情報」ではなく、「才能にまつわる情報」にしておく必要があります。これは「人から“才能豊か”と言われています」に改めることで、問題の本質が見えていることにするものです。今回の事例は、コンサルタントやインフルエンサーの方々の情報を得て、「お金」に着目するのではなく、その先にある「やりたいこと」に着目することの方が大事であり、それには「才能」が封じられている可能性があることを示すものです。
仏との対話において、とても重要な問題の一つに、願いを邪魔しているのは邪鬼を抱え持つ自身であることが多く、本質な問答をしようとしない働きがあります。それを回避するにも、完成形の姿を宣言させることで、盲目に陥っている心を発見するものだと教えます。←これは心の対話全般に言えることです。
自分「人から“才能豊か”と言われています」=「やりたいことをやれるお金が循環しており、生活や欲しいものに対して抵抗感が極力無くなっている状態」=「ビジネスがよく解っている」≠「ビジネスがよく解りません」というニュアンスでマイナス発想から探らずに、プラス発想から問題を探ることを伝えるものです。
※このニュアンスを掴めないと、自身の障害を取り除く仏との対話が成立しません。読んで解らない方は、カウンセリングを受けてください。
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“あたなに何が出来るの?”と否定で育てられてきたね」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“どうせ悪いことでもして騙しているのでしょう”と誠実さを信じてもらったことがなかったな」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“そんな見栄を張らなくてもいいよ”とまともに見てもらったことがないな」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“嘘つかなくていいよ”と拒絶されて会話が成立したことがない」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「鼻で笑われて相手にされたことがない」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“金出しな”と、才能までも巻き上げられていたと、知らなかった」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“怪しいから関わりたくない”と、無視され続けて生きてきた」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“黙れ”と口を聴いてもらえないし、見てもらったこともなかった」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“死んだら?”や“死ねばいいのに”や“早く死ね”や“まだ死んでないの?”と言われ続けて耐えてきたから、自分の人生、生きてこられなかったんだな」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“死人扱い”されて来たから、何も教えてもらえなかったな」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“存在否定”されて来たから、自分を殺して生きて行くしか無かったんだろ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“精神破壊”されて来たから、誰も信じられずに生きて行くしか無かったんだろ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“言いなりの染脳状態”でしか無かったから、愛らしい感覚の一つも感じること無く育ってきたんだろ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“無視”しかされて来なかったから、愛を見たことが無かったんだろ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“無知”扱いされ、無知なままに閉じ込められてきたから、すがる先が“そこ”しか無かったんだろ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「“救いに来たよ”と、『才能豊か』なあなたを救いに来たから安心していいよ」
自分「人から“才能豊か”と言われています」
広目天「そう、『才能豊か』だよ」
自分「才能豊かなんだね」
広目天(微笑んでいる)
といったやり取りが出てくることがあります。
今回の事例は、才能が殺されて、封じられるしか無かった環境下の方々に意識を繋いで紹介しているので、“泣ける”かも知れません。
広目天は、文字通り広い目を持っているので、答えさえ求めれば与えてくれる存在です。聞かなければ答えてはくれませんし、聞く力も育ててくれるので、問答の仕方も、全く解らない感覚から始めさせてくれるので、スタートが最も難しいものです。けれども簡単な事ばかり学んでも、奥がなく、浅く狭い知識に埋没して「解っていないのに、解った気になる」という邪鬼に呑み込まれてしまうので、本質を探究したい人は、難しさを喜ぶようになります。
無知の知という、「自分は知らないことを知っているので、否定から情報と関わる愚かなことはしたくても出来ない」という心得を体感している人なら、新しい情報は、常に認識の外側にあることを承知しているようになります。
認識の外側に「未知なる有益な新情報がある」とわかると、今ある無知さという惨めな状態や、虚しい感覚や、取り残され感や、諦めに近い焦燥感などの全てが歓喜の礎となる感覚だと悟れます。
このように、仏像がただ並んでいて「圧倒的な迫力!」とか、そんな感想を持ってもらいたいものでは無く、実践的に心の気づきや、悟る方法論として有益なアイテムとして用意されている真理からもたらされた智慧の姿として活用しなければ、意味がありません。
解説するにも、大日如来が何かが会得出来ない人が解説しては、問題を増やしてしまうこともある為、語るに語れないもので、一人ひとり自分自身で気づいていくしか手立てがないのも仕方のないことです。
いかかでしたでしょうか?
では、また。
リーディングマスター・まさみち。