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相対の輪廻 摩睺羅像⑰

心と言葉の研究に人生を賭けている「リーディングマスター・まさみち」です。人と人との軋轢(あつれき)がどのようにして引き起こされるのか? その根源的な解決策を模索し、解き明かして現象化させない方法を探している研究者です。心理カウンセラーをしながら、研究を続け男女の間に隔てられた「嘘の教え」が問題を生み出している根幹の一つと突き止め、それを解消すべく活動しているものです。(57/88)

特別、仏教徒でもなければ熱心な信者でもなく、信心深い宗教家でもない「言葉の研究者」ですが、心を探究していたら、言葉を知り尽くす必要があると考えるようになり、言葉の成り立ちや、一人ひとりが認識する言葉の概念の違いに関心を抱くようになったら、「気づいたら悟っていたようです」という人です。

「悟りを開いた」というのは明白な事実であるものの、この事実を他者に認知してもらおうとするには、心の使い方や世界の見え方や捉え方が、ここまで違うことを表現すれば信用されるだろうか? と実践中の記事です。

千手観音がどのような菩薩であるのか、どうイメージすればあらゆる手を尽くして人々の苦悩を救済するのか? それが二十八部衆とどのような関係にあるのかを解き明かせられるのではないかという試みです。

「餓鬼界や地獄界までも救済してくれる菩薩さま」と解説されても、なんら救われる気がしないものですし、人の心は救う側に回るよりも、救われる側に回ってしまうものです。真剣に救う側として医者のように志すと、「人の心を救うなんて傲慢にも程がある」などという解釈とぶつかると、頑張っている人の気持ちを削ぎ堕とすものとぶち当たり、その非難する相手への救済が見つからないものです。

そもそも何故、「餓鬼界」「地獄界」などの六道輪廻が発生し、それに閉じ込められ、無限の行為(カルマ・業)とならなければならないのでしょうか?

「餓鬼界」「弱い者は守られるべき存在」と解釈を訴え続けることで成立する世界観で、「自立しない方がお得だ!」と感じる側と「私が役立つと認められた!」と思う側の双方の同意により成立する閉ざされた世界観のことを指すものです。

「地獄界」「犠牲になってでも助けたい相手がいる」とした解釈に相対して「人を悪く言う人は許さない正義感の人を支える為に潰される」ことや、「有名になり人気者になる人の為に、散財してでも相手の夢を叶える為に応援する」ことや、「自由に人生を謳歌する人たちの為に、不自由な生き方に縛られ、閉塞的な価値観に囚われ、どこまでも泣き腫らしていくしかない道を行く」こととして、助け出される日々を願いつつも、叶わない現実を人のせいにする価値観に執着し、こんな自分に堕としたと、他人を責め、自業自得と責められ、責め合う者同士で閉ざし合う世界観のことを指すものです。

このような「背徳」行為が六道輪廻と呼ぶべき無限ループの行為(カルマ・業)を生み出しているものです。

単純に「奉仕」という言葉が「取引」に置き換わり、「献身」という言葉が「犠牲」に置き換わることによって引き起こされる問題なのです。

なぜ、ポジティブな概念が、ネガティブな概念置き換わるのか?

それは「嘘が通用した体験」があるからで、「嫌いになるよ」嘘をつき「嫌われた」嘘を信じたことなど些細なことが原因で「餓鬼界」が発生します。

「そんなことしていたら、ろくな大人にならないよ」嘘をつき「ろくな大人にしかならないんだな」「大人なんて誰も信用出来ない」「嘘をついて生きていくしかない」嘘をつくしか生き方の手本を見ることが出来なかった為に「地獄界」が発生し、閉じ込めます。

恐がらせることで脅して言い聞かせ、未来に向けてコントロールしていかないと嘘を信じ込ませ、人生は選択できるものだと思い込ませ、真実よりも虚偽の方が簡単便利にわかり易く伝えられる為に、「ずっとそうしてきたから、これからもそうしていくべき」とした概念のまま、六道輪廻を解き明かすことよりも、無難(何も挑戦しない迷惑をかけないこと)に生き抜いて死んでいくものだと教えてきた生き方問題が未だに残っているのです(人生の命題が輪廻からの解脱だと誰も教えないことを指す)。

仮に世界中の人々が、六道輪廻にハマっているとしたら?

どうしたら、抜け出す道を探し出して、抜けられるのでしょうか?

摩睺羅像(まごらぞう)⑰

摩睺羅像

人には男と女という性別が存在します。

異性に対する思考や感じ方など、構造の違いから体感覚の違いに気づきつつも、同じ解釈や、価値観を持たせようとしてしまい「解り合おう」と建前上使いつつも、本質的な意味において「解り合っている」という結果へと辿り着かないことへのアプローチ方法がそもそも間違っているとは認識しないものです。

夜叉は、「結果が全てだ」と解釈しやすいものです。どうであれ「終わり」が良ければ、全てよし。とした解釈です。

は、「次に繋げることだ」と解釈しやすいものです。なんであれ「未来」がなければ、意味が無い。とした解釈です。

明王は、「現実を知ることだ」と解釈しやすいものです。これまで通りにするのか、ここから変えて行くべきか? と「現在」が分岐点だと問いかけ、答えを出すしかない。とした解釈です。

菩薩は、「過去から学ぶべきだ」と解釈しやすいものです。どういういきさつで「過去」が築き上げられて今日まで受け継がれてきたのかを正しく知ること。とした解釈です。

如来は、「はじまりが万事に通ずる」と解釈しやすいものです。何においても「始まり」が全てに影響を及ぼし、全体を掌握する。とした解釈です。

これらに対して、男の価値観と女の価値観がぶつかり合い、本来は陰陽となる表裏の関係性や、前後、左右、上下などの対を為すもので互いに「肯定し合う」ことでしか成立しない関係性だとわかると良いのです。

それには、夜叉であれ、天であれ、明王であれ、菩薩であれ、如来であれ、全ての学びの過程だとするのではなく、全て「学びが終わり」、「学びが次に繋がり」、「学びつつ今を生き」、「学びよりもより良く学ばせて行き」、「学びが新たに始まり」として続いていくことが答えに至る世界なのです。

全てを終わらせていくことで、新しく始めていける世界を創造出来るというものです。

男女の違いのズレを終わらせていくことで、男女の新しい結びつきが始まる世界を創造出来るというものです。

摩睺羅(まごら)の、その意味は、

摩(ま)とは、「男女の関わり合い、交わり合いにおける調和の有無は、楽器の和音を奏でるごとく、綺麗な音色となる相性と、異音となる不協和音があり、ただ鳴らせばいいものでは無いと伝えるものです。交われば子を為し、子は両親がどう関われば笑い、どう関わると笑わないのかを体感することで、人との結びつきを学んでいくもの」とした意味があります。

睺(ご)とは、「価値基準は、生まれ育った人間関係に左右されてしまうものであり、その風土や文化は色濃く染みつくものであり、それは変えられない程、力強く精神に影響し、拭っても拭いきれない音色となって楽器の種類とでもいうほどの個性を放つもののことをいいます。それでも関わり方一つ、接し方一つで音色が変わることもあると気づき、その者の能力を最大に引き出す相方の有無が全てを変えることを教えるもののこと」とした意味があります。

羅(ら)とは、「何度言っても、どんなに伝えても、変化が無い時は、関わり方そのものがそもそも全部間違っていると気づくまで、際限なく同じ間違いが続くことをいうもの」とした意味があります。

男女の関わりは、楽器を奏でるように左手の弦の抑えや、右手の弦の弾きの組み合わせで音を鳴らし、それが曲となり楽しめるものとなるように、触れさせて感じ合い、同じ時を過ごし、良ければ笑い、そうで無ければ共に泣き、苦しみを分かち合い、互いに補い合い、他者の中に打ち解けるように助け合えるものと成るものです。

いつしか、男は男女は女とした関わりにいたり、夫婦であっても共有できるものが乏しくなり、結ばれて居ながら離れている感覚に陥ってしまい、どこか「嘘をつく」ことが夫婦の間でも当たり前になり、「家族の中で建前」を使うようになり、「ついた嘘の教え」で子どもたちが「親への信頼を失ったと嘘をつく」ようになるしかなくなり、いつしか世界そのものが美しい音色が聞こえてこない殺伐とした感覚しか届かないように変わってしまうのです。

摩睺羅(まごら)思いつく異性を重ねてイメージし、「もう嘘をつかなくていいよ」と伝えると、なんと返事をするかを聞き入れて、素直になるようにどんな訴えも肯定して許して聞き入れていってみてください。

問答する内容が無くなるまで、続けてみてください。

異性との関わりがより良くなりますように。


いかがでしたでしょうか?

「背徳」とは、「好きな人に嫌いと告げること」であり、「解り合いたくないと、否定したまま、嫌ったまま放置し、永続的に自分の純粋な気持ちを無視し続けること」です。

嫌い合っても、転生して仲直り出来ればよいものの、嫌い合う人たちが増え続け、現代に至ると誰とも関わりたくないという「一人が気楽だ」という価値観に埋没してしまい、未来にも現在にもこれまでの過去においても好意的なイメージが無くなってしまうことに至るのです。

「徳を積むこと」に対して、異性の理解が得られない関わりを貫いたことが、結果的に孤立や孤独を生み出し、修復出来ない男女の深い傷を創り出すこともあるのです。

今、和解の時です。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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